それから数日経ったある日の放課後。
俺は教室に残って校内ニュースの生徒会コメントを書いていた。
教室にはまだ水沢先生がいて黙々と机の片付けをしていたが、そんなことはすっかり忘れてしまうほど俺の視線は窓の外に釘付けになっていた。
目の前のコートで副理事長が安澄にテニスを教えていたのだ。
まったくアノヤローと思いながらも平静を装う努力をする。
けど、どうしてもイライラしてしまう。
ふと顔を上げると、水沢先生も窓の外を見ていた。
どうやら同じことが気になっていたようで不意に話しかけてきた。
「なあ、泗水」
窓の外を見たままわずかに怪訝そうな顔をする。
「副理事長が安澄を気に入ってるようなんだが」
「……そうみたいですね」
「泗水もそう思うか?」
「思います」
というか、本人がそう言ったんだ。
間違いない。
「なんでだろうな? ケンカっぷりが良かったんだろうか?」
「さあ、どうでしょう」
そんなこと俺に聞かれても困る。
「昨日なんてたまたま帰りに一緒になったとかで副理事長にご馳走になった挙句、家まで車で送ってもらってたんだぞ?」
「……えっ?」
「でもって、ちょうど同じ時間に家に帰ってきた妹が礼を言ったら『安澄くんは可愛いですから』って笑ったらしいんだ。妹は絶対ホモだって言うんだけど、泗水はどう思う?」
ホモです。間違いありません。
……って言っていいものだろうか。
「まあ、可愛いっていうくらいですから、それなりの意味はあるんじゃないですか?」
あるよ、絶対。
先生、兄として教師としてもっとちゃんと見張っててください。
と詰め寄りたい気持ちはぐっと堪えた。
「そんなこと言われると気になるだろう? あんなでも大事な家族だからな」
心配そうに窓の外を眺める先生は本当に良い兄なんだろうという気がする。
「安澄君、兄弟の中では水沢先生と一番仲がいいんだって話してましたよ」
可愛い弟なんだから先生もしっかりガードしてくれればいいんだけど。
「あとの連中はどうも話がかみ合わなくてな。同じレベルで会話ができるのが安澄だけなんだ」
「そうですか」
そんな話はどうでもいいんだ。
副理事長に気をつけろ、って先生が一言安澄に言ってやれば済む。
「安澄君にそれとなく話してみたらどうですか?」
「それとなくだと分からんと思うんだ。顔の作りは繊細っぽいんだが、実はものすごく鈍感でな」
それは俺も同感だ。
あのヤらしい副理事長のエロエロ視線に気付かずに、短パン&Tシャツで楽しそうにテニスなんかしてるくらいだから。
「ほら、必要ないのに太腿とか触ってるし」
思わず声に出してしまった。
「なあ、泗水。悪いがちょっとの間、安澄のこと気にかけてやってくれないか?」
願ってもないことだった。
「俺がやるといい年してブラコンみたいだろ? 自分でも気持ち悪いと思うんだよな」
年の離れた末弟なら、水沢先生じゃなくても特別可愛く思うだろう。
「そうですね。他の生徒の手前もありますし、弟だけ特別扱いと見られるようなことは避けた方がいいと思います」
我ながら模範回答だ。先生もホッとしたように頷いた。
「泗水は話が早くていいな。安澄のアホもこのくらいオトナになってくれたらいいんだが。いつまで経っても悪ガキのまんまだ」
性格は先生に似てると思うけど。
……ちょっと鈍いところが特に。
再びテニスコートに目を遣ると、安澄と副理事長が汗を拭きながら歩き始めていた。
向かった先はクラブハウス。
けど、クラブ活動でしているわけじゃないから……
「……しまった。シャワーだ」
俺は慌ててカバンにモノを突っ込んだ。そんな俺を不思議に思った様子もなく、先生はにこやかに「気をつけて帰れよ」と言った。
このおっとり具合では副理事長をブロックすることなどできないだろう。
そんなわけで水沢先生を戦力としてあてにするのはやめることにした。
息を切らして走っていくと、シャワー室には水音と安澄のバカでかい声が響いていた。
「イタメシ? 行きたいけど、このあと会長に宿題教えてもらう約束してるから」
思いっきりタメ口を利くな。
仮にも副理事長なんだから。
いや、それともあのエロオヤジがそうしろと言ったんだろうか?
「ん〜……毎日じゃないよ。会長の気が向いた時にね〜。部活がある日はダメだし」
隣同士でシャワーを浴びてるんだろう。
副理事長の声はあまり聞こえない。
だが、ときどき漏れてくるエロオヤジの声の断片が異常に楽しそうなのが非情に嫌な感じだ。
「え? 会長? う〜ん、どうだろ? カノジョはいないって言ってたけど。モテるから相手には困ってないんじゃない?」
水音が半分になった。
どっちかがシャワーを止めたんだろう。
「へえ、さすがに良い体してるね」
げっ……
いきなり聞こえたその声に俺の背筋に寒い物が走った。
シャワーを止めたのは副理事長だ。
もしかして、もしかして、安澄の個室を覗いてるのか?
「でも、兄貴みたいには筋肉つかないんだよなぁ。何が違うんだろ」
「いいんじゃないのかな。それくらいが。……すごく、いいよ」
意味深な言葉が安澄の鼻歌で流されていく。
それはもしかして、ポケモンの歌か?
能天気というか、バカというか。
歌なんか歌ってる場合じゃないだろ??
ああ、だけど、そんな安澄がやっぱり可愛い。
「泗水くんはどう? 良い先輩?」
副理事長の声が少し大きくなった。もう出てくるのかもしれない。
……けど、なんで俺の話だ?
「うん。宿題教えてくれるし、ケンカ強いし、回りくどくないし、面白いし。先輩じゃなくて友達ならもっといいけど」
恋人ならどうだ?
なんてことは絶対聞けな―――
「恋人なら、どう?」
一瞬、蒼白になった。
なんでおまえが聞くんだよ。
っていうか、安澄が変に思ったらどうするんだ。
ドアの外に突っ立ったままあれこれとグルグル心配したんだけど。
「会長って実は女なんですか?」
……安澄も相当なもんだな。
鈍いなんていう簡単な言葉で済ませていいのかどうか分からない。
「まさか。れっきとした少年だよ」
「だよなぁ」
「面白い子だね、安澄は」
いつから呼び捨てだ?
ああ、もう。
「安澄、いるかぁ?」
ワザとらしいと思いつつ叫んでしまった。
「あ、明之会長? なんでここって分かったんだ?」
「窓から見えた。早く着替えろ。図書館行くぞ。それとも俺んちに来るか?」
「あー、行ってもいい? 図書館だとしゃべれないから」
「ああ。食う物もあるしな」
「おやつ? すっげー楽しみ!!」
満面の笑みが脳裏に蘇る。
まさか副理事長はその顔を見てるんじゃ……
「いつ見ても可愛い八重歯だね」
わざと俺に聞こえるように言ってるような気がするんだけど。
だとしたらかなり性格悪いな。
そんな陳腐な褒め言葉に喜んじゃダメだぞと思ったけど。
「歯って可愛いとか可愛くないとかあるんですか?」
安澄の声が無邪気に響いた。
わざと外してるなら褒めてやるが、多分そうではないだろう。
素晴らしい天然ぶりだ。
頷いていたら、バタンとドアが開いて安澄が出てきた。
もちろん腰にタオル一枚という姿。
不覚にも一瞬見とれてしまった。
なるほど、ちゃんとスポーツで鍛えてる感じだ。
「あ〜、気持ちよかった。明之会長、今度一緒にテニスしようよ。できる?」
「授業でやったからな」
安澄の相手なら授業をサボってでもしたいくらいだ。
「もう僕とはしないの?」
副理事長は下心丸出しの視線で安澄の首筋を見ている……ような気がする。
「俺じゃ先生の相手にならないし」
「安澄とテニスをするのが一番楽しいんだけどね」
普通に口説いてんじゃねえよ。仮にも先生なんだから。
ちょっとピリッとした空気を流してしまったが、安澄の笑顔のおかげですぐに癒された。
「じゃあ、また教えてください。明之会長も一緒に」
その言葉に俺も微笑み返してなんとなくいい感じだった。
「安澄はそんなに泗水がいい?」
「うん。すっげー、いい」
もちろんその返事は無邪気極まりなくて深い意味なんてまったくなかったんだけど。
「泗水、顔が赤いよ? 熱でもあるんじゃないの?」
「いえ、別に」
「泗水から見ても安澄は可愛いってことかな」
知っていて聞くあたりがものすごく大人げない。
このエロオヤジ。
……って言っても、副理事長はまだ28か29だけど。
「安澄はいい奴ですから」
ムカついたので俺も適当にはぐらかすことにした。
「なんだ、もう両思いなのか。割り込む隙はなさそうかな?」
安澄の顔を覗き込む副理事長は思いっきり意味ありげにニヤけていた。
「『両思い』って言葉使うの変じゃない? な、明之会長?」
「え? ああ、そうだな。まあ、国語の先生じゃないからいいんじゃないか?」
ちなみに副理事長は物理の先生だ。根っからの理系人間で数学も教えられるらしいと聞いたことがある。
……論理的に物を考えるような人間にはぜんぜん見えないけど。
「そうだな。なら、いいか。両思いで」
安澄はこの会話そのものが変だとは思っていない。
そういうところがまた可愛いんだけど。
副理事長がじっと見てるのも気付かずに腰のタオルを取って、体を拭いて下着をはいた。
男同士だから普通ならぜんぜん気にしないんだけど。
特別な気持ちを持っている俺としてはその無防備さはちょっと考えてしまう。
「でさぁ、宿題、英語ばっかし残っててぜんぜん終わりそうにないんだ」
さっきまで弾んでいた声が急に沈んだものになる。
安澄の憂鬱はいつでも英語だ。
それ以外の宿題は楽しそうに片付けるのになんでこれだけはダメなんだか。
「自力でやれよ。教えてやるから」
「やっぱ駄目かぁ……」
やってあげるのはちっとも構わないんだが、それでは本人のためにならないし、なにより教えてやった方が長い時間一緒にいられる。
だから、これでいいんだと満足して頷いていたら。
「やってあげようか?」
口を挟んだのはもちろん副理事長だった。
タオル一枚の状態でやけに念入りに髪を乾かしていた。
「けどさ、いくらなんでも先生にやらすわけにはいかないよな」
それを提案する教師も最低だが、安澄ももっと根本的なところに疑問を持つべきだと思う。
「別に構わないよ。一緒に食事をして、それから僕の家で宿題を片付けるっていうのはどう?」
絶対断われよという気持ちが伝わったのか、安澄にしてはわりと迷いなく首を振った。
「やっぱりいいや。テストのとき困るし。自分でやるよ」
「努力家だね。安澄のそういうところが好きだよ」
その言葉さえ気に留めず、さらっと流した。またしてもポケモンの歌だ。
「っていうか、明之会長んちに行ってみたいし」
鼻歌の合間に器用にしゃべる。
振り向いた瞬間、髪から雫が落ち、拭いてやりたい衝動に駆られた。
「Hな本とかあるかもしれないね?」
そんなもんあるわけねーだろ。おまえとは違うんだよ。
勢い余ってそんなことも言ってしまいそうになり、あわてて口を閉ざす。
「あったら借りてこよーっと」
安澄は常に無邪気だ。
というか、そんなものに興味があったこと自体意外だ。
「残念ながら、ぜんぜんないよ」
見栄でもなんでもなく、本当に俺の部屋にそういうものはなかった。
母親と姉貴がいる家庭ではそういうものの所持はなかなか難しい。
見たいときは友達から借りてくるしかない。
「ちぇ、残念。明之会長って意外と真面目?」
「『意外と』はいらないだろ?」
安澄は俺をどんなヤツだと思っているんだろう。
一緒にケンカしたのがまずかったのかもしれない。
「そうかなぁ?」
八重歯が覗いた口元に見惚れていると、俺に釘を刺すように副理事長が口を挟んだ。
「あまり遅くならないうちに帰るんだよ。今の世の中、男の子でも何かと危ないからね。特に八重歯の可愛い子は気をつけないと」
危ないのはおまえだろーよ、まったく。
こいつと話しているといちいちツッコミたくなるので困る。
振り返って険のある目を向けると、エロオヤジはすでにぴしっとワイシャツを着てネクタイまで締め終えていた。
俺が安澄に見惚れている間に着替えたらしい。
「じゃあね。泗水、安澄」
そう言って片手を上げて軽やかに去っていく。
まったく気障な奴だと思う俺とは違って安澄は無頓着に「さよならー」と手を振っていた。
こんなことで大丈夫なんだろうか。
「副理事長、安澄を気に入ってるみたいだけど?」
本人はどの程度の認識なんだろうと思ってわりとストレートに聞いてみたら。
「でも、明之会長のことも気にしてたよ。彼女いるのかとかさ」
やっぱりこんな返事で。
エロオヤジは安澄がどのくらい俺に関心を持っているのかを知りたかっただけで、俺自身に興味がないことくらい気付いて欲しいものだ。
「とにかく副理事長とは二人きりになるなよ」
俺や水沢先生がこんなに心配してるのに。
安澄ときたら。
「なんで?」
けど、面と向かって聞かれると、さすがの俺も答えにくい。
「あー……なんて言うか、えこひいきとか思われたくないだろ?」
「ああ、そっか。そうだな」
あっさりと言い包められてしまう安澄にため息をつく。
なんだか自分が悪い大人になったような気分だ。
さっさと帰ろうと思っていたが、書きかけの原稿を置いてきたことに気付き、安澄を残して教室に戻った。
「わり、先生に挨拶してたら遅くなった」
そんなに待たせたつもりはなかったが、安澄は何時間も待っていたみたいな顔でグラウンドを見ていた。
「安澄? 帰るぞ?」
声をかけてもポワンとしたまま。
「あ……うん」
返事もワンテンポ遅い感じで。
「どうした?」
舞い戻った副理事長に何かされたのかと思ったが、だったらこういう顔はしないだろう。
もう一度「どうしたんだ?」と尋ねたら、やっと言葉を返した。
「今さ、」
「うん?」
「すっげー可愛い子から、好きだって言われた」
ズドン、と衝撃が降ってきた。
「へえ……」
空白の頭でやっと吐き出せたのは曖昧な頷きだけ。
変に思われないだろうかと心配になったが、
「けど、クラスと名前、聞くの忘れちゃったよ」
せっかく対策を教えてもらったのにとつぶやく横顔は少しだけ笑っていた。
「……返事は……しなかったのか?」
「うん。その子、好きだって言ったあと走って逃げちゃったんだ」
「恥ずかしがりやなんだな」
「かもね」
うっとりと空を見上げる。
安澄にしてみたら、まさに青春の一ページなんだろうけど。
「また会えるだろ。少なくとも同じ学校なんだし。それに、やっぱ、返事は欲しいだろうから」
「だといいなぁ」
さっきまでの浮かれた気分は粉々に吹っ飛んでいた。
無意識で溜息をつくと、安澄が心配そうな顔をした。
そして。
「会長、もしかして腹減った?」
こんな安澄を可愛いと思う俺がいけないんだろうけど。
「……ちょっとな」
衝撃はまだ残っていたけど。
それでも少しだけ笑って、「帰ろう」と言うことができた。
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