「あら、もう食べちゃったの? 男の子は早いわね。他にもお菓子持ってく?」
皿を渡した途端、次のおやつを用意しはじめた。
「いいよ。安澄は肉まん3コ食べたから」
さすがにもう腹に入らないだろうって思ったんだけど。
「わかんないわよ。すっごくお腹空いてそうだったし。あの子、小学校の時から『そんなに食べるの?』っていうくらい平らげて帰ってたし」
「昔はしょっちゅう来てたのか?」
俺としてはおふくろが何年も前のことをこんなによく覚えていることのほうが衝撃だったけど。
「そうねえ。一時期は週一回くらい水沢先生と来てたかしら。まだちっちゃかったのにすごく強くて、みんなびっくりだったんだから」
その話は容易に想像できた。
今時の子供にしては珍しいほど奔放な感じだもんな。
「学校でも入学早々武下先輩とケンカして有名人だよ」
「それであんたと仲がいいのね?」
「……かもな」
実は英語の宿題をやってあげるせいなんだけど、それは言わずにおいた。
気が合うから一緒にいるんだってことにしておきたかったのかもしれない。
われながらつまらない見栄だ。
「でも、ケンカの応援はしてあげないわよ?」
おふくろは平和主義だ。格闘技も好きじゃなくて、プロレスやK1の類はテレビも見ない。
まったく、武道家の妻とは思えないんだが、オヤジに言わせるとそこがいいらしい。
まあ、とにかく。
「姉貴が言ってたのはそんなことじゃ……」
「じゃあ、なんなの?」
あんまり心配させるのもなんだと思って弁解しかけたんだけど。
やっぱりこの話は止めておくことにした。
「……トイレ行ってくる」
お袋の質問を無視して廊下に出た。
洗面所で顔を洗って戻ったら、居間には誰もいなかった。
俺が持ってきたはずのお盆がないということは、新たな菓子を持って二階にあがったんだろう。
客が来るとなんでも食べさせたがるのがお袋の悪い癖だ。
無理に勧めてるんじゃないかと心配になり、階段を駆け上がった。
廊下の中ほどまで進むと、開けっぱなしのドアから安澄と楽しそうな声が響いてきた。
どうやら水沢先生の話らしい。
「陽子もまんざらでもないと思うんだけど、どうかしら?」
今度は姉貴と先生をくっつけようなどとどうしようもないことを考えているらしい。
「兄貴はうれしいと思うけど。陽子さんがもったいないよ」
姉貴のことなんて真剣に考えてくれなくていいのに。
だいたいおふくろは安澄と話したいだけなんだから。
「やだわ、安澄くんたら。あんな男勝りに付き合ってくれる人なんてなかなかいないのよ?」
少々冷ややかな気持ちでドア口に立っていると、安澄が「おかえり」と顔を上げた。
「あら、もう戻ってきたの?」
言葉の端々に「もうちょっと二人で話したかったのに」という空気が漂っていた。
邪魔なのは自分だということが少しもわかっていないらしい。
「陽子と先生、明之はどう思う?」
ごく当たり前のように会話を続けた。
「まあ、姉貴が『自分より強くなきゃ男じゃない』なんて言わなきゃ、もうちょっと選択の幅は広がるんだろうけど」
俺も真面目に話に参加しているフリなんてしたけれど、心の底では「早く出ていけ」と思っていた。
「憲政兄とどっちが強いかな?」
安澄は人懐こい。おふくろにもすっかり懐いていた。
「そりゃあ、体も大きいし、男だし、先生のほうが強いだろ。まあ、おまえだって姉貴よりは強いと思うぞ?」
もちろんケンカの勝敗じゃなく、剣道とか柔道の話だけど。
「そっか。なら、そこだけは兄貴も合格なんだな」
自分の兄弟について、安澄の評価は意外と低い。
傍から見たら美形揃いで成績優秀。文句のつけようがないと思うのに。
「だけってことはないわよ。しっかりした職業だし、真面目な方だしねえ」
確かに真面目だな。
真っ直ぐにしか走れないって感じだ。
「んー、そうかなぁ。でも、うちの姉貴に言わせると兄弟の中で一番女心がわかんないらしいけど」
その次は安澄なんだろうな。
もっとも分からないのは女心だけじゃないけど。
「大丈夫よ。陽子は女心なんてないから」
冗談かと思ったがいたって真顔だった。
さすがに母親、娘のことはよくわかっていると言うべきなんだろうか。
「そう? 陽子さん、優しいし、明るいし、美人だし。俺、好きだけどな」
明るいという点についてだけは同意してもいいが、あとはビミョウだ。
中でも安澄が好きだっていうのが一番腑に落ちない。
しかも、おふくろが悪乗りをする。
「あらぁ、それなら安澄くんでもいいわよ。結婚してうちの子になる?」
あながち冗談でもなさそうなのが怖い。
「バカ、安澄はまだ15だぞ? いくつ下だと思ってるんだよ」
ついつい声を荒げてしまった。
「やあね、ムキになっちゃって。明之ったら、安澄くんが可愛くて仕方ないのね」
無意識で隣りに目をやると、安澄が何か言いたそうにこちらを見ていた。
思いっきり心臓が跳ね上がったが、かろうじて平静を装って聞いてみた。
「……なんだ?」
「先生が同じこと言ってたからさ。『泗水は安澄が可愛いんだな』って」
この場合の『先生』はもちろん副理事長のことなんだろう。
というか、ほかにそんなことを言う教師はいない。
「俺、可愛いかな?」
真面目な顔で聞かれても返事に困る。
「まあ……なんていうか、安澄は食い物に釣られるし、ケンカっぱやいし、子供みたいだから」
普通ならこんな説明じゃ納得しないもんだけど。
「あー、それは自分でも思うけど。憲政兄にも言われるし」
さすがに安澄は単純だった。
「そういうところは水沢先生もちょっと似てると思うけどな」
「だよなぁ? なのに俺にばっかに言うんだよ。おかしくねー?」
もうさっきまでの会話は忘れているらしい。
可愛いよ、と素直に言えたらいいのに。
ついでに、ギュッと抱き締めたりできたら最高なのに。
「明之、なんで笑ってるのかしら?」
妙なタイミングでおふくろからツッコミが。
今までずっと安澄の顔ばっかり見ていたくせに変なところだけ気づくんだから。
「……あ、なんか、えっと……可笑しいんだよ。水沢先生。心配してる割には的外れっていうかさ」
おかげでわけのわかんない言い訳をしてしまった。
もちろん安澄はまったく気に留めてなかったけど。
「憲政兄は昔からおかしいよ。道場では普通なの?」
居座る気満々なのかおふくろが安澄にお茶を入れはじめた。
しかも、俺のは無視だ。
「カッコいいわよ。ファンがいるのよ?……男の人が多いけど」
その状態は鮮明に理解できた。
水沢先生は学校でも女子より男子に人気がある。
「女の子にはモテそうにないもんなぁ。俺んち、俺と憲政兄だけがモテないんだよな」
ボソッとそんなことをつぶやくんだけど。
「なに言ってんだよ。山ほど手紙もらってたくせに」
あれはもててることにならないのか?
さっきだって可愛い女の子に―――
……俺もしつこいな。
「あんたの方がよっぽどもてないわよね、明之。……恵実はどうなのかしら?」
自分の息子だから謙遜してるとかじゃなく、この人は本気でがっかりしていた。
まあ、家ではそんな話もしないしな。
けど、安澄が全力でそれを否定しはじめた。
「学校ですっごいもてまくりだよ? この間なんて『好きな子がいる』ってちょっと言っただけで次の日には全校に広まってて、みんなが俺のとこに相手の名前聞きにきたんだ。1年から3年まで30人くらい。すごくねー?」
そんなに具体的な説明をしてくれなくても良かったんだが。
一生懸命に俺の肩を持ってくれる安澄を愛しく思った。
「あら、まあ。明之が? 世の中ってわからないわね」
懸命のフォローのあともおふくろはまだ怪訝そうな顔だったけど。
「……母さん、そろそろ夕飯の支度したら? 俺らも宿題片付けるから」
わずかな隙を突いて追い出しにかかった。
「ああ、そうね。勉強しに来たのよね。忘れてたわ」
よし、これでOKだ……と思った瞬間。
「それにしても。あんたにも好きな子がいたのねぇ……。まさか、安澄くんなんて言わないわよね?」
姉貴といい、おふくろといい、どうしてうちは―――
頼むから聞き流してくれ。
心の底から願っていたら。
「あー、そっかぁ」
突然安澄が叫んだ。
「あの時、『好きな人教えて!』って言いに来た子の名前聞いておけば良かったんだな。もしかしたら、明之の好きな人もいたかもしれないだろ?」
大丈夫。
絶対にいないから。
……とは言えないんだけど。
「そんなに気ィつかわなくていいよ」
安澄の無邪気さが、最近、少し腹立たしい。
「でもさー」
「ホントにいいから」
気付かれてはいけないのに。
心のどこかで、気付いて欲しいと思っていた。
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