そのあとしばらくはエロオヤジに悩まされることもなかった。
安澄はのびのびと高校生活を送り、放課後になると決まって俺の教室に顔を出した。
もうすっかり見慣れた光景なのでクラスのやつは何にも言わないが、今日たまたま残っていた水沢先生は顔を顰めた。
「安澄。おまえ、なんでいっつもうちのクラスに来るんだ?」
暗に邪魔だと言われていると気付くこともなく。
「宿題やりに」
無邪気な顔でそう答えた。
「そんなもん自分のクラスでやれ」
「わかんねーんだもん」
堂々と、しかも偉そうに言ってしまうので、会話を漏れ聞いた何人かは笑っていた。
「同じクラスの友達に教えてもらえばいいだろ? おまえ、友達いないのか?」
「いるけど、カッコ悪ィじゃん」
「だからって毎回泗水に教わるってのもな」
「じゃあ、憲政兄が教えてくれんのかよ?」
誰が聞いても兄と弟の会話。
どれもやや反抗的な返事なのに、不思議と仲のよさを感じさせた。
「学校じゃ先生って呼べって言ってるだろ?」
机を片付ける手を止めて、安澄を見据える。
それだって小さな子供を怒っているような感じだ。
「じゃあ、水沢センセ。宿題教えて」
安澄は基本的に素直なので、すぐに態度を変えた。
でも。
「なんの宿題なんだ?」
「英語」
たった一言で先生は凍結した。
ピキっと音がしそうなくらいのフリーズ状態だった。
英語が苦手なのは兄譲り。
いつかの安澄の言葉が頭をよぎった。
「……泗水に教えてもらえ」
「憲政兄、それでも高校教師かぁ??」
「俺は英語が嫌いなんだ」
生徒の前でも堂々と言い放ってしまう。
そういうところが人気の理由かもしれない。
実際、女の子には「先生、かわいい」と囁かれていた。
「いいよ、安澄。先生は忙しいだろうし」
「うん。サンキュ、明之」
安澄にしては小さい声だと思うのに。
「安澄、先輩を呼び捨てにするな」
水沢先生は意外と地獄耳だった。
弟のすることは一挙一動全てが気になるんだろう。
「で、どこまで進んだんだ?」
落書きだらけの教科書を覗き込む。
「へへっ……まだ、ぜんぜん」
勉強したところなら単語の意味やら、関連する熟語やらあれこれ書き込まれているのに、開いたページはまるで今初めて開いたかのようにきれいだった。
「おまえなぁ……」
呆れ顔をしてみたところで本心ではない。
本当はこんなふうに頼ってくる安澄が可愛くて可愛くて可愛くて仕方なかった。
外国で暮らすわけじゃないし、英語の成績がいいことなんて何の役にも立たないと思っていたけど、急にとても素晴らしい特技に思えてきた。
ついでに、水沢先生が英語嫌いでよかった。
隣の椅子を引き寄せ、安澄を座らせる。
一つの教科書を二人で覗き込み、神妙に頷く顔を眺めながら説明をする。
「でな、注意しなきゃいけないのは……――」
安澄はとても熱心に聞いていた。
けど、「可愛いよね、あんな簡単なこともわからないなんて」と無遠慮な声が響いた時、さすがに少しムッとした。
「安澄、今の説明わかったか?」
集中させるために確認を挟むと、安澄はテキストに視線を落としたままで口を尖らせた。
「聞いてる。明之は、ああいうこと言わないから好きだ」
普段は「英語なんてできなくてもぜんぜん困らないし」みたいな顔をしているけど、実はかなり悔しいんだろう。
「なら、ちゃんと勉強しろよ」
「うん」
今日の返事はいつもの三倍力が入っていた。
そういうことなら、中学の英語からきちんと教えてやろう。
今からなら十分間に合うし、基本がわかれば一人で勉強もできるようになる。
むろん、その話をした時、安澄はちょっと憂鬱そうな顔を見せたけど。
「嫌ならいいぞ」
笑いもせずに言ってやったら、慌てふためいて首を振った。
「でもさー……」
チラリと肩越しに見たのは、さっき笑った女子の席。
「ああ、わかった。教室や図書館じゃなくて俺んちでやろう。だったら、いいだろ?」
下心があって自宅へ誘っているのではない。
安澄が嫌な思いをすると可哀想だと思ったんだ。
「うん!」
返事は元気一杯。
その後つけたされた「やったー!」からすると、おそらくはおやつに釣られたんだろう。
あの日以来、姉貴たちが安澄を連れてこいってうるさかったから、口実になってちょうどよかった。
おふくろにいたっては、安澄がいつ遊びにきてもいいようにとしこたま菓子を買い込んで来る始末。
「あら、だって、陽子と先生が結婚すれば弟になるのよ?」
今朝もこんなことを真顔で言っていたほどだ。
「姉貴もなんか言った方がいいんじゃないのか?」
勝手に盛り上がられても困るだろうと思ったんだが。
「いいじゃないの。水沢先生のことはともかく、あんな可愛い子がうちに来てくれるなら」
おふくろの話のうち、水沢先生の件についてはさっくり抹消したらしかった。
そりゃあ、安澄は可愛いけど。
うちに来た時はあまり構わないで欲しい。
勉強の妨げになるし、何よりも存在そのものが邪魔だ。
「何なの、その顔。安澄ちゃん、あんたのもんじゃないでしょ?」
姉貴が意地悪い笑みを浮かべる。
「そりゃあ、そうだけど」
今のところは。
……と心の中で付け足してみた。
「まさか妙な野望を持ってないでしょうねぇ?」
あからさまに「ムリよ、ムリ」という笑いをされてちょっとムカついたが、顔には出さないよう心がけた。
そんな今朝の遣り取りを思い出しながら安澄と一緒に自転車を走らせ、数分後に自宅に到着。
ちょうどその時、姉貴が道場から出てきた。
「いらっしゃい、安澄ちゃん。大丈夫だった? オオカミのエスコート付きで」
フフフと笑って姉貴が俺の肩をポンと叩く。
安澄はそれを見ながら笑っていたけど。
なんだか微妙な表情だ。
いくら鈍い安澄でもさすがに勘付いたかと姉貴をうらみそうになったけど。
「すぐにおやつ持っていってあげるからね」
「ごちそうさまです!」
その後は普段どおり、八重歯を見せて笑うと元気に二階へ上がっていった。
「おじゃましまーす」
部屋がちょっと散らかっていたのでサッと片付け、折りたたみのローテーブルを出すと安澄がすかさず口を開いた。
「な、明之〜」
「なんだ?」
「エスコートってなんだ?」
思わず吹き出してしまった。
安澄をバカにしたからじゃない。安心したせいだ。
英語が苦手なだけあってカタカナにも弱い。
さっき微妙な表情だったのは、オオカミに警戒したからじゃなく、エスコートの意味がわからなかったからなんだろう。
マジでほっとした。
「エスコートってのは、付き添って送ってくることだよ」
「じゃあ、オオカミって明之のこと?」
「たぶんな」
「なんで? 似てるかな?」
「……さあ、なんでかな」
白々しいとは思ったが、本当の意味を悟られては困るので適当に濁した。
「よくわかんないなぁ。でも、それは別にどうでもいいか。明之、エスコートは英語?」
「疑問に思ったら辞書引いてみろよ」
「スペルがわかんないのに??」
「和英見ろよ。そこにあるから」
「カタカナで引けるのか?」
この様子だと国語辞典もあんまり引いたことがないんだろう。
「英語の辞書じゃなくても載ってるぞ、そんくらい」
安澄が「そうなのかぁ」という間延びした声に思わず笑ってしまった。
「じゃあ、今日から中学英語やるぞ。一からもう一回な」
「ぐあー、憂鬱」
まだテキストも開いていないうちからカーペットの上にバタンと倒れ込んだ。
「感謝しろよ。勇吾先輩に教わるのは嫌なんだろ?」
「勇吾に聞くくらいなら赤点とって追試の方がいい」
実の兄がそんなに嫌いってどうなんだ?
まあ、勇吾先輩は出来の悪い弟を可愛がるタイプじゃなさそうだし、取っ付きにくいのかもしれないけど。
そんなことを思った後で、ふと思った。
おとなしそうに見える恵実も案外外では俺の悪口を並べているのかもしれない。
「憲政兄もあてにはなんないしなぁ」
確かにあの様子じゃ英語は相当苦手だろう。
よくもまあ、あんな良い大学に行けたもんだ。
「勇吾先輩の上の兄貴とか姉貴とかは? 二人とも大学生なんだろ?」
「論外。普通の話だってめったにしないし」
「……どういう家庭だよ?」
「俺にもわかんねーもん。バラエティー番組見るのだって俺と憲政兄だけだし」
膨れ面をする安澄を見ていたら、頬を指でつつきたい衝動に駆られた。
けど。
「お待たせ。おやつよ」
どうしてこのタイミングで入ってくるかな。
おふくろが運んできたのは大きな皿に並んだたこ焼き。
その匂いに釣られて、カーペットでゴロゴロしていた安澄が勢いよく飛び起きた。
「安澄くん、たこ焼きは好き?」
「大好きですっ」
ってか、キライなものなんかあるのかよ、安澄。
「良かった。冷凍だけど意外とおいしいのよ」
説明を聞きながら、安澄があつあつのたこ焼きを手掴みで口に放りこんだ。
そして満面の笑み。
「うまーい」
「ホント可愛いわね、安澄くんは。明之なんて、何を出しても『おいしい』なんて言ったことないのよ」
おふくろの愚痴なんて聞き流しておけよと思っていたら、思いっきり安澄に怒られてしまった。
「それ、ダメだろ、明之。美味しいと思ったらちゃんと『美味しい』って言わなきゃ。せっかく作ってくれてるのに」
レンジでチンのたこ焼きでも「作る」って言うんだろうか。
まあ、用意するのだって手間はかかるから感謝はすべきだと思うけど。
「ああ、そうだな」
たこ焼きを口に入れたままどうでもいいような返事をしたら、安澄が俺の首を締めた。
「だったら、食べるなよ」ってことなんだろうけど。
やることがまるっきり子供で笑ってしまう。
せっかくこんなふうに楽しくじゃれあう機会があっても、家族が遠慮なく出入りするこの部屋ではいろいろと限界がある。
「じゃあ、お勉強、がんばってね」
「もう顔出さなくていいからって姉貴にも言っといて」
万が一、めでたく付き合うようになったりした日にはラブホに行かなきゃいけないのか?
俺、そんなに小遣いもらってないし。
道場の手伝いでもしてオヤジにバイト代もらえばいいか。
……なんてことを今から考えてもしょうがないけど。
それに、そういうことに関しての安澄の成長速度は普通よりかなり遅い。
「明之、食べないなら俺全部食うよ?」
現に今はこんな感じで、俺の部屋に来ても食い物以外のものに興味を示したことさえない。
「足りなかったら、お袋に言えばまた用意してくれるよ」
冷蔵庫一杯に安澄のおやつが入っているんだから、いくらでも大喜びで持ってくるに決まってる。
「ホント? いいのかな??」
口元に青海苔をつけたまま食べ続ける姿もなかなか可愛いけど。
こうして部屋に招いて勉強を教えたところで、安澄にとっての俺は所詮「高校の先輩」。
―――この先、望みなんてあるんだろうか
あまり明るそうではない未来を思って浸っていたら、廊下からドカドカと足音が響いてきた。
「安澄ちゃん、来てるの?」
顔を出すなと念を押したのにもかかわらず、邪魔ながヤツ参上。
「あ、陽子さん」
安澄もこの間まで「お姉さん」などと呼んでいたのに、今はすっかり『陽子さん』だ。
「嬉しいなあ、安澄ちゃんが名前で呼んでくれるなんて。明之なんて最近じゃ『姉貴』とも呼ばずにいきなり話し掛けるんだから」
「目の前にいたら呼ぶ必要ないだろ」 それのどこが悪いっていうんだ。
「安澄ちゃんちは? お姉さん、なんて呼んでるの?」
「『まこちゃん』。真琴って言うんだ」
なんだかやけに可愛い感じなんだけど。
「仲、悪いんじゃなかったっけ?」
「姉貴とはそうでもない。ほとんど家にいないから、あんまり話さないけど」
悪くはないけど、良くもないってことか。
「安澄ちゃんはなんて呼ばれてるの?」
「姉貴からは『チビ』って」
まるっきり犬か猫だ。
可愛らしいという意味合いならわからなくもないが、175はあると思われる安澄にその呼び方はやっぱり無理がある。
「もうすっかり大きくなったのにね」
「うん。だから、新しいの考え中だって言ってた」
「お姉さん、面白いんだね」
「うん。っていうか、ちょっと変かも」
まあ、うちの姉貴ほどじゃないだろうけど。
「美人なんだろ?」
ポストがプレゼントで一杯になったくらいだもんな。
相当すごいに違いない。
「うーん……どうだろ?」
天井を上目で見ながら考えていたが、反応はイマイチだ。
結局、それについての答えは出さないまま、こちらに視線を移した。
「明之、もしかして美人に弱い?」
「たいていの男はそうだろ」
実際は顔だけ見て好きになるわけじゃないし、感じがよければそれでいいよな、なんて考えていたけど。
「そうよね。あたしも安澄ちゃんみたいな美人さんに弱いかな」
それは俺もだ。
「俺、陽子さんみたいに化粧しなくてもキレイな人がいいなぁ」
安澄がお世辞など言うはずないので、おそらく本気でそう思っているんだろう。
たとえ天然発言だったとしても、相手が女なら100%嬉しく思うはずで、実際姉貴はご満悦だ。
頼むからよそでは言うなよ、と思わず余計な口出しをしたくなってしまう。
特に手紙をくれた女子とか、好きだって告白してきた女の子の前とかは絶対ダメだ。
「やあだ、明之ったら。もしかしてヤキモチ?」
よほどむっつりしていたのだろう。姉貴がほくそえんだ。
「バカなことばっかり言ってんなよ。ったく……。俺ら、もう勉強するから」
さっさとリビングに戻れ。
で、もう二度邪魔しに来るな。
そんな俺の気持ちを姉貴は正しく把握したんだろう。
「じゃあ、他のおやつ持ってきてあげるわよ」
思いっきり邪魔する宣言をした。
視線を移すと、安澄は嬉しくて仕方ないという顔をしていて、さっくり断わることもできない。
「じゃあ、またあとでね」
姉貴は安澄ににっこり微笑み返し、俺にべーっと舌を出して部屋から出ていった。
「安澄はああいうのが好きなのかよ?」
ついに姉貴にまで嫉妬か。
ダメだな、俺。
ため息をつきそうになったとき、安澄がポツリとつぶやいた。
「そうだなぁ……明之に似てるからかも?」
あまりに予想外の言葉で、気がつくと思いっきり抱き締めていた。
さすがにこれはまずいだろう、と慌てて体を離したけれど、もう遅い。
「明之??」
安澄がまんまるい目で驚いていた。
「……ごめん、ちょっと眩暈がして」
ヘタすぎる言い訳にわれながら呆れたけれど。
「大丈夫? そんなに陽子さんと似てるのがショック?」
違うぞ、安澄。
いや、確かに、似てるといわれるのは嬉しくないけど。
「それより安澄。男に抱きつかれたらしっかり避けろよ」
俺の脳内にはエロオヤジのにやけた顔が広がっていたんだけど。
「だって明之だよ?」
「……そうだけど」
安澄にとって俺は先輩だ。
しかも『宿題を教えてくれる良い先輩』なんだ。
「でも、他のヤツだったら避けろよ?」
「分かってるって。だいたい普通は男に抱きつかれることなんてないし」
「まあな。でも、副理事長のこともあるからな」
「抱きつかれたことないよ」
あっちゃいかんのだよ。わかってるのか、安澄。
それにしても。
「姉貴、まだかな」
「なんだ、明之もお腹減ってるんだ?」
「おまえが全部食うからだろ」
「ごめーん」
ぜんぜん悪いと思っていない顔が屈託なくほころんだ。
けど、俺にはぜんぜん笑い返す余裕がなかった。
腹が減っていたわけじゃなく、邪魔でも入らなければ気持ちを押さえられそうになかったからだ。
抱き締めた感触が手の中に残っていた。
たったそれだけで理性のタガなんて簡単に外れそうだった。
「下行って取ってくるよ」
結局、俺は自分から部屋を出た。
勉強を教えるという口実があれば、二人で楽しく過ごせると思ってた。
けど。
「……今までこういうことはなかったからな」
強いられたことのない我慢をさせられるんだから、精神衛生状はあまりよくないってことに今頃気付いた。
「……はぁ……」
無意識のうちに吐き出したため息も、日々重さを増しているような気がした。
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