授業が始まり、先生が黒板に問題を書き始めた時、席を立った。
「泗水、どうした?」
尋ねられても顔さえまともに見ることができなかった。
「すみません、サボります」
そのまま逃げるようにして教室を出た。
行き先は部室棟の屋上。
視界の端に飛び込んでくる青葉が風で裏返ってキラキラと光る。
温まったコンクリートにゴロンと仰向けに寝そべり、真っ青な空を見上げていると消えてしまいたくなった。
目が覚めた時にはすっかり午後の授業は終わっていて、体のあちこちが痛くなっていた。
辺りはまだ十分明るく、昼間の雰囲気だったけれど、自分の周りだけはどんよりした倦怠感が取り巻いていた。
柵越しにグラウンドを見下ろすと、もう部活が始まっていた。
練習に出ようか迷っていた時、背中に大きな声が降った。
「探したよ。こんなとこにいると思わなかった」
振り返ると安澄が俺のカバンを持って立っていた。
「憲政が、明之探して届けろって」
それは多分水沢先生の配慮なんだろうけど。
まだ、安澄と向かい合う準備が出来ていなかった。
「……サンキュ。わざわざ悪かったな」
「具合悪いんだって? もしかして俺、昨日、無理やり付き合わせちゃったのかな?」
サボると言って教室を出た。
先生にもちゃんと聞こえたはず。
でも、体調が悪いことにしてくれたんだろう。
「違うよ。ちょっと夜更かしして眠かっただけだから」
そんなに心配そうな顔をしなくてもいいのに。
ひどく申し訳ない気持ちになった。
「宿題、終わった?」
「え?」
「昨日」
ああ、そうだ。
俺は安澄にも嘘をついたんだ。
「……終わったよ。思ってたほど大変じゃなかったから」
チクリと胸が痛んだ。
なのに、少しも疑うことなく無垢な笑顔が返ってくる。
「そっか。よかった。……あのさ、明日、英語があって、それでさ……」
本当は昨日、英語の宿題をしようと思っていたんだろう。
けど、俺の機嫌が悪かったから言えなかったんだ。
ごめんな、安澄。
「中谷さんって英語が得意らしいよ。教えてもらえば楽しく勉強できるんじゃないか?」
どんなに頑張ったつもりでも所詮この程度だ。
笑顔だって引きつっていただろう。
「え〜? ぜったい無理。カッコ悪くて聞けないよ」
年上の彼女に対しての精一杯の背伸びを微笑ましいと笑う余裕さえなかったけれど。
「……なら、うち来るか?」
「うんっ!」
英語の宿題をする時だけは前と変わらない俺だけの安澄。
もうそれだけでいいから。
「おやつ、何かなぁ?」
安澄がずっと英語が苦手なままならいい。
家に帰るまでの間、そんなことばかり考えていた。
「おじゃまします」
安澄が顔を出すと、来訪を待ち焦がれていたおふくろと姉貴はゴージャスなおやつをどっさり並べて歓迎した。
食べ物で釣ろうという魂胆がミエミエだ。
のほほんとしているおふくろとは違って、姉貴はすっかりお見通しなのか、少し心配そうな顔でこちらを見ると、おもむろに俺の髪をクチャッと掴んだ。
「大丈夫だよ」
ちゃんと仲良くやってるから、と付け足そうとしたとき、背後から忍び寄ってきた安澄がいきなり姉貴の真似をした。
「明之の髪って意外とやわらかいんだなぁ」
気付かれてしまったらこんなふうに一緒にいることもできなくなるんだから。
これでいいんだって自分に言い聞かせながら2階へ上がった。
開け放した窓には夕方の空が広がっている。
「だから、そこでこの熟語を使ったことに安心してちゃいけないんだよ。ちゃんと動詞は過去形に変えて……」
英語にのみ注意力散漫な安澄の答えに赤ペンをガシガシ入れながら説明を繰り返す。
「ん〜……?」
気の抜けた返事がいつも以上に集中していないことを語っている。
「こういうのは問題の意図をちゃんと考えないと―――」
何を言っても右から左。
そういう感じだなとは最初から思っていたけど。
「な、明之。最初のデートってどこ行った?」
そわそわした様子でテーブルに体を乗り出す。
頭の中はもう中谷さんのことで一杯なんだろう。
シャーペンの先を見ながら、こっそり溜息をついた。
「って言われてもなぁ……小学校の時だし」
そういう質問もいつかは来ると思っていたけど。
覚悟していたわりにはぜんぜん役に立ってないな、俺。
「悩むくらいなら中谷さんに行きたいところ聞いてみたらいいんじゃないか?」
そういうのは女の子のほうがたくさん思いつくだろう。
「聞いたんだけどさぁ……誘ってもらえるならどこでもいいって言われちゃって……」
まあ、控えめな子ならそういう返事もあるか。
俺だって安澄と一緒なら英語の宿題だっていいと思うくらいだし。
なんて考えていたら。
「私なら、ディズニーランド!」
いきなりドアが開いて姉貴が入ってきた。
安澄の目はすでに紅茶とケーキに釘付けになっている。
「でも、きっと何度も行ってるよねぇ」
俺も中学の時に彼女と行った。女の子はああいうところが大好きだ。
小さな頃から家族と何度も行ってるだろう。
「まあ、自分で演出をしなくていいから初心者にはちょうどいいとは思うけどな」
「やだ、明之。もっともらしいこと言っちゃって」
姉貴には笑われたけど。
「じゃあ、ディズニーシーは? ちょっと大人っぽい雰囲気だし、デート向きかもよ?」
「ふうん。でも、俺、一回も行ったことないなぁ。家族で出かけることもあんまりなかったし」
兄弟仲だけじゃなく、親子関係もイマイチなんだろうか。
つい余計な詮索をして、またあれこれ考え込んでいたら。
「だったら明之と予行練習してくればいいんじゃない?」
姉貴に不意に振られ、思いっきり焦ってしまった。
「なんで、俺……」
「明之も行ったことないでしょ? いつか役に立つわよ」
彼女なんて、と言いかけた時、それが姉貴の用意してくれた口実だってことに気づいた。
「けど、男二人でっていうのも、な」
本当は嬉しいくせに。
どうしてこういう返事をしてしまうんだろう。
「いいじゃん。行こうよ、明之。俺、行ってみたい!」
安澄はすでに大はしゃぎ。
そこまで言われて断わる理由もない。
「じゃあ、土曜に行くか」
「やったー!! おやつ持って行こうっと」
「おやつぅ? もう、安澄ちゃんたら。明之と一緒の時はいいけど、ホントのデートの時は持って行かないのよ?」
「なんで?」
「子供っぽくてムードないでしょ? 食べたいものは向こうで買うの」
「ふうん。じゃあ、そうする」
いつになく神妙な顔で何度も頷く。
姉貴はクスクス笑いながらもあれこれと説明をしてやった。
「あと、注意するのはね……」
いろいろ吹き込まれていたけれど、ノートの隅にとったメモは食べ物のことばかり。それ以外は果たしていくつ覚えたことやら、という感じだった。
とにかくこうして安澄の初デートが決まった。
中谷さんのための練習だっていうことはこの際忘れて俺も楽しもうと思った。
土曜の朝、7時。
安澄が早々に俺の家にやってきた。
「あんまり寝れなかった」
お袋と姉貴に笑われても真面目な顔でどんなに楽しみだったのかを語り続ける。
「だって、俺んちは誰もそういうのに関心示さないからさ。家族でディズニーランド行ったのだって、親戚の子が遊びに来た時1回だけなんだ。後は兄貴がこっそり連れてってくれたことがあったくらいで」
兄貴っていうのはもちろん水沢先生のことなんだろう。
「始めてバイト代もらった時に二人で行ったんだ」
高校生だった水沢先生と小学生の安澄。
本当にいい兄貴なんだな。
「今日も小遣いくれたし」
おふくろがいたく感心していた。水沢先生の評価も30ポイントはアップしたに違いない。
「おやつは持ってこなかったのね」
「うん。けっこうたくさん小遣いもらったから。それで買おうと思って」
安澄は今日も軽装だ。
ポケットに財布を入れているだけで後はなんにも持っていなかった。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
おふくろに見送られながら、二人で駅に向かった。
朝から快晴。しかも、すでに暑い。
「焼けそうだな」
「いいじゃん。夏みたいで。楽しくねー?」
満面の笑み。
それあれば後はなんでもよかった。
園内に入るなり安澄ははしゃぎまくっていた。
「楽しいからって中を突っ走るなって姉貴に言われてただろ?」
「いいんだよ、せっかく来たんだから!」
テーマパークに男の二人連れ。当然、どこかで二人組の女子でもみつけて……ってことになりそうなものだが、彼女がいる安澄はもちろんそんな気もなく。
俺に至ってはこれそのものがデートなわけで。
「そっちじゃないだろ。案内図ちゃんと見ろよ」
「あー、さかさまに見てた」
人目も気にせず、ずっと二人で騒いでいた。
何度か「写真撮って下さい」と声をかけてくる女の子がいたが、思わせぶりな態度には気づかないフリをしてやり過ごした。
「な、明之。女の子誘わなくていいのか?」
昼過ぎ、ちょっと落ちついた安澄がふと思いついたようにそんなことを言った。
「おまえには中谷さんがいるだろ?」
「俺はそうだけど。明之、つまらなくない?」
ぜんぜんまったく。むしろこのままがいい。
なんてことは、さすがに言えないけど。
「楽しいよ」
「けどさ、」
「いいんだって。俺も好きな人がいるから他の子を誘おうとは思わないよ」
「だったら、別にいっか」
それって、おまえのことなんだけどな……。
「安澄は他の女の子とも遊んでみたいか?」
二股かけるようなヤツじゃない。それは分かっていた。
俺が知りたかったのはどのくらい中谷さんを好きなのかってこと。
なのに、安澄は相変わらず少しズレていた。
「ううん。明之といるのが一番楽しいよ」
屈託のない笑顔で。
八重歯を見せつけて。
「じゃあ、楽しもうな」
「うん」
その後は、これが中谷さんのための下見だってことも思い出さなかった。
ただ楽しくて。
それから、安澄が俺を見て笑うことが嬉しくて。
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