散々ディズニーシーで遊んだくせに、中谷さんを誘ってどこかに行った様子はなかった。
しかも、あれ以来、土日は俺の家に入り浸りだ。
「安澄、もう中谷さん誘ったのか?」
「うん。学校の帰りにマックに行ったよ」
「……それってデートなのか?」
「話がしたいって言うからさ。それでもいいかなと思って」
だとしても、もっとお洒落っぽい店に行けばいいのに。
駅の方まで行けば女の子の好きそうな可愛いカフェもいくつかあるんだから。
「楽しかったか?」
「うん。でも、話がしたいって言ってたわりにほとんど話さないんだ。不思議だよなぁ」
安澄がいつもの調子で話しているのを、中谷さんはにこにこして聞いていたんだろう。
そんなふんわりした感じの子だ。
「何話したんだ?」
「学校のこととか、家族のこととか。明之の家でおやつもらうこととか」
ぜんぜん色っぽくないな。
なんで俺んちでおやつ貰う話なんてするんだよ。
「中谷さんはなんて?」
本当に根掘り葉掘り。
これも嫉妬ってやつなんだろうか。
俺って、本当にダメだ。
「うん。『また誘って』って」
安澄があんまり積極的に彼女の話をしないのは多分照れているせいなんだろう。
「よかったな」
「う〜ん……でも、なんか気ィ遣うよ」
それでも顔はほころんでいて、なんとなく幸せそうだった。
「そりゃあ、彼女だからな」
「そんなもんかなぁ」
その後は俺も無口になってしまい、しばらくの間、部屋には辞書をめくる音しかしなかった。
今一歩勉強モードに戻れないんだろう。
15分もたたないうちに安澄が手を止めた。
「な、明之の好きな人ってどんな子? よくしゃべる?」
不意の質問に一瞬表情が強張ったけど。
「……そうだな。よくしゃべるよ。いつも楽しそうだし、よく笑う」
「美人?」
「可愛いよ」
目の前の安澄をなるべく見ないようにしながら答えた。
背もそこそこあるし、パッと見はそんな感じでもないけど。
満面の笑顔も左の八重歯も辞書と格闘して溜息をつく姿も、少し子供っぽいところも食べ物にすぐ釣られるところも全部可愛いと思う。
「最初に会った時から好きだった?」
安澄は完全に手を止めて、俺の答えを待っている。
「どうかな」
初対面の時は妙に落ち着いた新入生だと思った程度。
でも。
「……好きだったのかもしれないな」
何十人も新入生の受付をして。
なのに安澄のことだけはずっと覚えていた。
「そっかぁ」
予想していた答えと違ったのか、、やけに気の抜けた声だった。
「安澄だって中谷さんに好きだって言われた時、ポワンとしてたじゃないか?」
「うん。なんかハーフみたいだなぁって思って」
確かに色が白くて頬がピンクでまつげがカールしていて、髪も天然ウェーブで色が薄くて柔らかそうだけど。
「一目惚れって言うんだろ、それ」
自分で発した言葉がグサリと胸に突き刺さる。
「っていうか、街で芸能人見かけた感じ?」
安澄のお気楽な返事も俺の慰めにはならず、ささくれた気持ちはどんどん膨らんでいく。
「まあ、とにかく。おまえが楽しませてやらないとな。彼女なんだから」
突き放すのは自分に余裕がないせい。
「そうだよね」
こんな素直な返事でさえ、サックリと突き刺さるのに。
いい先輩でいるのは難しい。
「そんなことより、毎日俺んち来てないで彼女を誘わないとダメだろ?」
心にもないことを言いながら、どんどん嫌なヤツになっているのがわかる。
「週に3日塾に行ってるんだってさ。土曜は隔週。エライよなぁ」
行かなくてもトップクラスの安澄の方がよほど偉いと思うんだけど。
「まあ、俺も明之んちに勉強しにきてるからな」
少し自慢げに俺を見る。
そういうところは最初にうちに来た頃とちっとも変わらない。
「おやつ食いに来てるだけだろ?」 今日なんて休みなのをいいことに朝からずっと俺の部屋で過ごしていた。
「えへへ。お昼何かなぁ? そんで、メシ食ったら道場に行こうよ」
俺んちが楽しくて仕方ないらしい。
「今日は稽古休みだぞ」
「明之、剣道もできるんだろ?」
「多少はな」
「またぁ……恵実に聞いたら明之の方が上手いって言ってたのに」
そりゃあ、恵実には勝てるよ。
アイツの性格はわかってるから突っ込みやすいし。
まあ、最近はオヤジにも3回に1回は勝てるようになったけど。
「たまには家族以外とやっとかないと鈍るかな……」
きわめて小さな独り言だったけど、安澄は聞き逃さなかった。
「じゃあ、午後は剣道で腹ごなししてから英語の宿題だ〜」
「安澄、俺に予定があるかもって思わないわけ?」
「思ったけど。朝、陽子さんが、『絶対大丈夫よ〜』って言ってたから……」
確かにそうだけど。
例え用事があったとしても安澄が最優先だし。
……姉貴に見透かされてるのはちょっと悔しいけど。
「英語の宿題は本当に分からないところだけ聞けよ。今日は俺も課題の本を読まなきゃならないんだ」
あまり得意ではない読書感想文。
しかも、先生が選んだのは暗い話ばっかりだ。
そうでなくても下降気味の気分がいっそう下がってしまう。
「もっちろん邪魔しないって。でも、その後は中2の英語な〜」
安澄はたいていいつも楽しそうだけど、今日は一段とはしゃいでいた。
彼女ができたばっかりで毎日楽しくて仕方ないんだろう。
そんなことを考え始めると意味もなく落ち込んでしまう。
「安澄は毎日テンション高いよな。何がそんなに楽しいんだ?」
聞いたら傷つくのは分かっているのに、聞かずにいられない。
俺はもう正常な状態じゃないのかもしれないと思った。
「へっへ〜、内緒」
中谷さんと二人だけの秘密とか言うなよ。
心の中でそっと毒づく。
「俺には内緒なのか?」
ちょっとキツイ口調になりかけたけど。
安澄はニッコリ笑っただけで何も答えなかった。
昼メシを食って、泗水家では義務である20分の食休みの後、二人で道場に行った。
「お願いします」
午後の勉強に差し障らない程度に何度か手合わせし、俺にとってもちょうどいい気分転換になった。
安澄は今のところ恵実よりほんのちょっと弱いかもしれないという腕前。
とはいえ、やっぱり俺が圧勝で。
なのに安澄はこの上なく嬉しそうだった。
俺に纏わりつきながら防具を外し、冷たい床にごろんと仰向けになるといきなり言った。
「やっぱ、明之だ」
脈絡のない言葉に戸惑いながら、寝転がっている安澄の隣りに腰を下ろして汗を拭いた。
「『やっぱり』って何が?」
目線を下ろすと、安澄がじっとこちらを見ていた。
そして、「えへへ」と笑ってからキラキラした目で話し始めた。
「明之、小学生の時、中学生相手に5人抜きしてただろ?」
そう言えばそんなこともやっていた。
オヤジにしてみたら俺に対する試験のつもりだったんだろう。
5人抜けたら翌週の夕方の稽古は出なくていいことになっていたから、俺もかなり真剣にやっていた。
「仮にも先生の息子だからな。そんくらいはできないとって言われてたんだ」
竹刀と変わらない背丈の頃からずっとやらされているんだから、嫌でも上手くなる。
こちらを見上げていた目がまぶしそうに細められ、やがて満面の笑みに変わる。
「それが何?」
どんな意味があるんだろうと構えていたのに、安澄はあっさり白状した。
「そいつのこと探してたんだ。兄貴と道場に来て、他の人が練習してるのもずっと見てた」
本当に俺のことなんだろうか。
そんなに一生懸命見ていたヤツなんて俺の記憶にはなかった。
「俺と同じくらいの年だって聞いてすごく悔しかった。いつか絶対勝ってやるって思って、家で兄貴相手にめっちゃくちゃ練習したりしてさ」
水沢先生は剣道部の顧問。生徒以上に熱心に稽古をしていると評判だった。
手合わせしたことはないけど、恵実が「勝てる気がしない」なんて弱気なことを言ってたくらいだから相当の腕前なんだろう。
「水沢先生、すごく強いらしいからな」
「ん。でも、明之にはぜんぜん勝てないと思う」
部活中は熱心だけど、ここに来るのは姉貴が目当てだって噂だし、動機が不純な分、気合が足りないのかもしれない。
「安澄ならもうちょっと練習すればかなり強くなるよ」
もう少し動きに無駄がなくなって集中力が途切れなくなれば、ここの生徒の誰よりも強くなるだろう。
俺の説明を安澄は頷きながら聞いていたけど。
「うん。でも」
そこでまた満面の笑みを見せた。
「明之には、勝てない気がする」 笑い零れる安澄の傍らで、俺も横になって天井を見上げた。
「当たり前だ。泗水家の期待の星なんだぞ」
手を伸ばせば指先が触れる微妙な距離。
なのに、安澄を見ることはできない。
整ったはずの鼓動がまた早くなりそうだった。
「明之、お父さんのこと『先生』って呼んでたから、先生の子供だと思わなくてさ。でも、恵実が道場ではみんな『先生』って呼ぶんだって教えてくれて」
「……だったらそれって恵実かもしれないだろ?」
俺は毎朝オヤジに付き合わされて稽古してたけど、夕方は滅多に顔を出していなかった。
道場で安澄と会う確率は低い。
「そう思ったから、おととい恵実に相手してもらったんだ」
結果は一勝四敗で安澄の負けだったらしい。
「けど、なんでそれだけで俺って分かるんだ? 小学生の俺より、今の恵実の方がずっと強いだろ?」
そんな何年も前のこと。
しかも、面をつけてるから顔もわからないって言うのに。
寝転んだまま顔を横に向けると、安澄が笑っていた。
「分かるよ。だって、ずっと憧れてたんだ」
明るい声に釣られるようにして隣に目を向けると、風の吹き抜ける道場の真ん中で、安澄が眩しそうに俺を見ていた。
遠い昔の話。
けど。
その頃の安澄を知っていたなら。
こんな無謀な恋には落ちなかったんだろうか……―――
ため息と戸惑いと。
それでも日々は過ぎていく。
水曜日は一年恒例のマラソン大会だった。
全員参加だが歩いてもいいことになっているから、ほとんど遠足気分で半日がかりだ。
2、3年生は駅伝形式なので、クラスの代表者だけが走る。
俺は生徒会の仕事があったので、一区を走ってすぐに学校に戻ってきた。
「よ、泗水、区間賞だって?」
「ああ」
一番でタスキを渡すのは気持ちいい。
女の子の黄色い声援も。
……安澄が見ていないのだけが残念だったけど。
本部テントに戻ると携帯で連絡を取り、各中継地点の状況を確認する。
少し蒸し暑いものの、今のところ具合が悪くなった生徒はいないようだ。
「順調だな」
ほっとしながらペットボトルのお茶を飲んでいると、中谷さんと数名の女の子が歩いてきた。
「泗水くん、お疲れさまで〜す」
中の一人が生徒会書記の子だったので、ちょうどいいとばかりに手招きした。
「五味さん、手伝ってよ」
「なんで? ヒマそうじゃない」
「今は大丈夫だけど、午後になったらゴールの方、忙しくなるから」
「あーそっか。いいよ。飲み物とか用意すればいいんでしょ?」
「そう。頼むよ」
彼女に声をかけておけば安心だ。
もしも手が足りなければ友達を集めてくれるだろう。
というか、きっと足りなくなるに違いない。
……と思っていたら。
「あの、私も手伝います」
中谷さんが遠慮がちに申し出てくれた。
「ありがとう。助かるよ。優しいんだね、中谷さんって」
本当にいい子だと思う。
だからこそ暗い気持ちになってしまう。
「そりゃあ、泗水の舎弟の彼女になって差し上げるくらいですからぁ?」
「酷いな。普通に後輩って言ってくれよ」
「だって、ただの後輩にしてはえらく懐いてるじゃないの?」
それは確かにそうだけど。
「安澄は俺みたいなカッコいい先輩が好きなんだろ」
言ったら、爆笑された。
「ケンカは強いもんねぇ?」
「それだけじゃないつもりだけど」
じゃあ何が一番得意なんだって言われても困るけど。
「弟は剣道部なのに。泗水はなんでトランペットなわけ?」
「ホントはピアノを習いたかったんだ」
「面白いよ、泗水」
いや、冗談じゃなく。
剣道なんて人より強くて当たり前だったから、俺んちにはない物に憧れた。
まあ、別にトランペットじゃなくても良かったんだけど。
姉貴が「トランペットかサックスがカッコよくなぁい?」なんて言うから。
……俺って、単純。
「それより、泗水くん。きみンとこの安澄ちゃんだけど」
なごやかな会話を遮って、五味さんが眉間に皺を寄せた。
「安澄がどうかしたのか?」
「やだ、柚璃ちゃん」
何かを察したらしい中谷さんが慌てはじめた。
「せっかく苑子とデートしてるのに、泗水んちで遊んだ話しかしないらしいよ」
確かに本人もそう言ってたけど。
「もうちょっといろいろと仕込んだ方がいいんじゃない?」
「それ、俺に言われても如何ともしがたいんだけど」
安澄は天然なんだから、言っても直らない。
「そういう時はどんな話をするもんだとか、アドバイスしてあげればいいじゃないの」
俺が?
なんのために?
「そんなことしたら、そのまんま中谷さんに言いそうだからな」
そしたら、中谷さんからまたコイツらに伝わって、回りまわってまた俺に注意がくることになる。
「確かにねぇ……見た目はけっこういい感じなのに、いまいち気が利かないよね」
背丈ほどは中身が成長してないんだからしかたない。
「まあ、温かい目で見守ってやってくれよ」
俺なら安澄のそういうところも可愛いって思うのに。
「実の兄みたいだよね、泗水ってば」
「そうかな」
いっそホントの兄貴だったらどんなに良かったか。
「それにしても可愛がりすぎじゃないの? 宿題やってあげたりさ」
「そうそう。年下なのに『明之〜』なんて呼んじゃってるし」
「土日も一緒なんだって?」
中谷さんが彼女たちにそんなことまで話すのは、やっぱり安澄が俺に懐いているのが気に入らないからなんだろうか。
「道場に稽古しに来てるんだよ。それに弟とは同じクラスだし」
すっごい言い訳だなと自分でも思った。
その間、中谷さんはちょっと淋しそうな顔でうつむいていた。
「安澄ちゃん、泗水には苑子の話とかしないの?」
「……え、あ……ああ」
動揺を隠せず言葉に詰まってしまったせいで、中谷さんの顔が曇った。
「ちょっと照れてるみたいで、あんまり……でも、何食ったとか、どんな話をしたとかそういうことはたまに……」
よく考えたらそれも一回きりだけど。
「安澄は俺んちでも食い物の話とか水沢先生の話しかしないし」
「そりゃあ、相手が泗水ならそのくらいが妥当だけどねぇ」
中谷さんはそれでも笑おうとしていた。
けど、無理しているのは一目瞭然だった。
「ああ、でも。最初に中谷さんから好きだって言われた時、安澄、ポワンとしてたんだ。『すっげー可愛い子に好きだって言われた』ってさ」
ちょっとしたフォローのつもりで口にしただけ。
でも、中谷さんははじめて嬉しそうな表情を見せた。
華やかで女の子らしい笑顔。
こんな子に好きだって言われたら、普通は泣いて喜ぶだろう。
「とにかく。もうちょっとなんとかしてやってよ、お兄サマ」
中谷さんは何も言わなかったけれど、縋るような目で俺を見つめていた。
でも、協力なんてしてやれる自信がなかった。
「そういうのって中谷さんからはっきり言ってやらないとわからないんじゃないのかな?」
俺から言ったところで安澄の耳を素通りするだけだと思うのに。
「苑子にそんなことができるんなら泗水に頼んだりしないよ」
まあ、そうだろうけど。
協力なんてしたくはなかった。
でも、こんなことくらいで安澄が悪く言われるのは面白くなかったから、ため息を飲み込みながら頷いた。
「……だったら、一応言ってみるけど。相当天然だから期待はしないようにな」
いい先輩みたいな顔で、もっともらしいアドバイスをして。
彼女にもっと優しくしろよ、なんて言ってみたりするんだろうか。
「じゃあ、そういうことで」
くるりと背中を向けてから、やっと深いため息をついた。
頼むから、俺に中谷さんの応援をしろなんて言うなよ。
俺だって、一杯一杯なのに。
午後、学年6位でゴールした安澄のもとに中谷さんが駆け寄った。
手には大きなタオルと冷たいスポーツドリンク。
安澄も嬉しそうにそれを受け取った。
「……そうだよな」
思わずぽつりと吐き出してしまった。
なんで公認のカップルを俺が応援してやらなきゃならないんだ。
ふて腐れながらゴミを片付けていたら、安澄が走ってきた。
「明之、区間賞なんだって? さっすが〜」
振り返るのと同時に後ろから抱きつかれ、胸が高鳴る。
「バカ、安澄。中谷さんが見てるぞ?」
「いいじゃん。明之と仲いいって知ってるよ?」
そんなことは多分この学校のほとんどのヤツが知っている。
俺が言いたいのはそんなことじゃなかったんだけど。
「手伝おうか? ペットボトルだけ集めてくればいい?」
こちらの心情など微塵も感じ取らずに能天気にゴミ袋に顔を突っ込んでいた。
中谷さんはやっぱり少し離れたところから淋しそうに安澄を見ていた。
「キャップ取ってラベル剥がして潰すんだぞ」
「了解〜!」
大きなゴミ袋を楽しそうに膨らませながら出ていくと、中谷さんも後をついていった。
肝心の安澄はボトルを潰すのに夢中で、あんまり彼女のことを気にかけてはいなかったけど、中谷さんはそんな様子さえ笑いながら見ていた。
安澄も時折り顔をあげて楽しそうに笑っていた。
その頬が少し赤いのは、走った後だからなのだと思いたかった。
――――けど、どう見てもいい感じだもんな……
俺の入り込む隙なんて一ミリもない。
こんなふうに眺めていたって、どうにもならないことを思い知るだけなのに。
それでも目が離せなくて、どうしようもなく苦しかった。
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