部活を終えて帰宅すると玄関に安澄の靴があった。
「おかえり、明之」
まるで自分の家のように俺の部屋で勉強しながら、八重歯がすっかり見えるほど笑う。
「朝、中谷さんが来たよ。安澄によろしくって」
彼女が何をしゃべって帰ったとか、そんな話を虚ろにしながらため息を隠した。
「よかったな……上手くいって」
やっと口にしたその言葉は、やっぱり少し引き攣っていた。
安澄は最初少し不思議そうな表情をしていたが、すぐに極上の笑顔で答えてくれた。
「明之、」
「ん?」
「ありがと」
たった一言。
けど、ささいな自己満足は粉々になった。
安澄が喜ぶならそれでいい。
そう思っていたはずなのに。
彼女と仲直りできたことを感謝されても、やっぱり辛いだけだった。
「……じゃ、宿題するか」
突然酔いが醒めたみたいな冷たい気持ちになり、それをごまかすようにローテーブルに向かった。
向かいに座っていた安澄は今日も楽しそうに鼻歌を歌っている。
そんなに嬉しかったのか、と尋ねそうになったけど。
自分の心臓を抉るだけだということに気付いて思いとどまった。
もう考えるのはよそう。
安澄とは勉強と食い物の話だけしていればいい。
そう決めたとき、弾んだ声が飛んできた。
「な、明之。明日、交流試合なんだろ?」
「そうだよ」
「頑張ってね」
明日は中谷さんとの週一回のデートの日だ。安澄が応援に来ることはない。
先週それで揉めたばっかりなんだから、来られても困るけど。
「……ああ。頑張るよ」
安澄のために練習したんだけど。
そんなこと言ってもどうにもならない。
それでも安澄のために頑張ろう。
「絶対負けないから」
だから、これからも一緒にいてくれよ。
英語のためでいいから。
おやつのためでいいから。
剣道のためでいいから。
―――彼女のためでも、いいから。
中央高校との交流試合は団体戦と個人戦が行われた。
結局、恵実は先鋒で俺が大将になった。
「相手の先鋒と大将は3年生で個人戦はインハイの常連だ。特に大将はすごいからな。泗水も油断するなよ。中堅は二年だが、次鋒と副将は一年だから頑張れば勝てる。頼むぞ?」
水沢先生は真っ向勝負の人だ。強い相手との試合は捨てて残りを手堅く勝つような構成にはしなかった。
「ま、泗水兄弟は大丈夫だろうけどな」
先生は簡単に言うけど、俺なんて付け焼刃もいいところだ。
しかも、安澄の応援もない。
今頃、中谷さんとお茶でもしてるんだろう。
そう思うと気合が入らない。
なのに、体育館には相手校の生徒もそれなりに来ていたし、水沢先生がHRで応援を要請したせいでクラスの奴らも大勢来ていたけど。
「泗水〜、頑張れよ〜っ!!」
どんなに大声で声援が飛び交っても、ため息しか出てこない。
溢れかえる熱気の中、自分だけが取り残されているような気がした。
開始の予告と同時に歓声が沸いた。
試合は予想していた通りの展開で、恵実は時間一杯かかっての二本勝ち。次鋒と中堅がそれぞれ二本取られて負けて、副将が一本勝ち。
二勝二敗の一本負けてる状態で大将戦だった。
「きゃあ〜、会長〜!!」
「よっ、吹奏楽部!!」
「色男!!」
外野からわけの分からない応援が飛んでくる。
大抵は男なので黄色い声という感じではなかった。
いよいよ大将と向かい合うと、声援も一段と激しくなった。
「……もっと静かに見てろよ。仮にも剣道の試合なのに」
応援を頼むのはいいが、観戦マナーを知らないヤツばかりというのは相手校にも失礼だ。……なんてことを真面目に考えていたんだが。
うちの学校のヤツばかりじゃなく、向こうの応援も負けじと叫び返していたので、だんだんどうでもよくなってきた。
とにかく今は試合に集中しよう。
呼吸を整え、気持ちを落ち着かせて立ち上がる。
体調はまずまず。
朝の練習ではオヤジにも勝った。
今の自分に足りないのは気迫だけだろうな、と思ったその時。
「明之〜っっ!!」
二階のギャラリーからバカでかい声援が聞こえた。
聞き間違うはずなどない。
安澄の声だ。
ドクンと胸が鳴って血が体を巡る速度が速くなる。
視線を上げると手すりから体を乗り出して手を振っている姿が見えた。
中谷さんはどうしたんだろう。
またケンカしなきゃいいけど。
一瞬、そんなことも考えたけど。
「頑張れーっ!!」
安澄の声援に応えるためだけに、俺は足を踏み出した。
「一本!!」
旗が上がると同時に辺りは歓声に包まれ、そのざわめきが収まらないうちに二本目が決まった。
自分でも驚くほど綺麗な面だった。
「すっごーい……」
「ふえ〜……大将が秒殺されてんぞ〜」
相手のギャラリーからも声が上がった。
試合は本当にあっという間で、最後の礼をした瞬間、大将としての使命を果たせたという安堵感が俺を包んだ。
水沢先生も満面の笑みで迎えてくれた。
「よくやったな、泗水。どうだ、真面目に剣道部にはいらんか?」
「あ……いえ、俺は」
いきなり勧誘するあたりはさすがに顧問だ。
少し笑いながらも労いの言葉を適当に流し、二階のギャラリーに目をやった。
だが、探していた相手は既にすぐ後ろまで駆け寄ってきていて、俺が振り向くのと同時に抱きついてきた。
「すっげ〜!! さすが、明之っ!!」
勝った本人より嬉しそうな笑顔で思いつく限りの褒め言葉を並べる。
安澄の興奮状態はそのまましばらく続き、俺でさえ呆然とするほどだった。
「安澄、中谷さんはどうしたんだ?」
少なくとも近くにはいない。
「あ……2階に置いてきたかも」
まったくコイツには反省という概念はないのかとと呆れていたら、中谷さんが非常口の前で手を振っているのが見えた。
「いた。あそこだ、安澄」
現在位置を指差してやったら、「あ、ホントだ」などと暢気なつぶやきのあと、軽く手招きをする。
「バカ。おまえが置いてきたんだろ。迎えに行ってやれ」
安澄はまだ上気した頬でチラリと俺を見て「えへへ」と笑ったが、迎えに行こうとはしなかった。
中谷さんがあと数メートルというところまで来ていたからだろうけど、それにしてもダメすぎる。
「泗水くん、本当にすごく強いのね。びっくりしちゃった」
中谷さんも手を叩いて喜んでくれたけど。
「だって明之だもんなー」
なぜか安澄が満面の笑みで自慢した。
嬉しいけど、それはマイナス20点だ、安澄。
俺がこんなに心配してるのに、これじゃあ意味がないだろ。
内容は悪くなかったものの、個人戦に出たやつらは今ひとつという結果だった。
それでも水沢先生は上機嫌で、ポケットマネーで菓子と飲み物を用意してくれた。
ここ数日一緒に練習に出ていた安澄も一緒に部室に来て打ち上げに参加した。
「中谷さんは?」
「帰った」
「いいのか?」
デートの日なのに。
そう思ったけど。
「中谷さん、明日も部活休みなんだってさ」
約束は一日延期したからいいよってことか。
俺が心配しなくてもちゃんと二人で調整してるんだなと思っただけで心臓がギュッと痛くなった。
「けど、英語の宿題があるんだよなぁ……明之も明日は部活休みだよね?」
ちょっと待て。
まさか宿題のためにデートをキャンセルするなんてことはないよな??
「中谷さんとは昼にも会うから、いいかな〜」
一人で納得して菓子を食べていたが、そういうことじゃないだろう?
「安澄、今から帰って宿題やるぞ」
「え? これから?」
安澄の手を引っ張って部室を出ようとしたが、水沢先生に止められた。
「なんだ、泗水。主役のくせに先に帰る気か?」
「安澄の英語の宿題が残ってるんです」
『英語』の部分だけを特大の声にしたのが効いたのか、先生は微妙な顔をしながらも快く解放してくれた。
「手間かけさせて悪いな、泗水。また練習に付き合ってくれよ」
「はい。ありがとうございます。じゃあ、お先に失礼します」
できるだけ愛想良く挨拶してから安澄と二人で部室を後にした。
「これで宿題も終わり〜」
帰る途中も安澄は妙に楽しそうで。
「これからやるんだぞ?」
「でも、終わったも同然〜」
まったく勉強をしにいく雰囲気じゃなかった。
「自分でやるんだぞ? やってやらないからな?」
しかも俺の話なんてぜんぜん聞いてない。
「すっげーよなぁ、明之ってさ〜」
並んで自転車を走らせながら、褒め言葉を並べ続けた。
家に着くと、安澄はいきなり姉貴をつかまえて八重歯を披露しながらしゃべり始めた。
「すっげー、カッコ良かったよ〜!!」
嬉しそうな声におふくろまで顔を出した。
「何かあったの?」
「やだな、おばさん。交流試合だよ。明之と恵実の」
「あら、そうだったかしら。ちゃんと勝てたの?」
おふくろの気の抜けっぷりにはいつものことながら脱力する。
「俺と恵実はね」
「良かったじゃないの。おやつ何がいいかしら?」
息子の結果には関心があっても剣道の試合そのものには興味がないので、勝敗だけ聞けば後はもうどうでもいい。
我が親ながら大変分かりやすい価値基準だ。
「打ち上げで少し食べてきたし、あんまりいらないよ。それにどうせすぐ夕飯だろ?」
安澄の分も作っておいてくれと頼むとおふくろの顔がパッと明るくなった。
「じゃあ、今日はご馳走にしなくちゃね」
『ご馳走』の一言は安澄の気分を更に盛り上げたようだった。
「なら、俺も張り切って勉強しようっと」
まったくもって無邪気そのもの。
俺の苦悩ちを少し分けてやりたい気分だった。
運ばれてきたおやつは紅茶とロールケーキ。
一時間もすれば夕飯なのに、安澄は丸ごと一本食べきるんじゃないかという勢いでパクついていた。
紅茶のおかわりを入れつつ、おふくろも安澄と話し込んでいる。
「それにしてもよく勝てたわね。恵実はともかく、明之はぜんぜん練習していなかったのに」
「朝稽古してただろ」
熱でもあるんじゃないのとか言ってたのは誰なんだ。
「そんな付け焼刃で勝てるなんて。弱い子が相手でよかったわね。叩かれたら痛いんでしょう?」
のんきすぎるコメントを聞いて、安澄が体を乗り出した。
「相手はインハイ常連の3年だよ? なのに面2本勝ち。しかも秒殺だったんだよ?」
熱のこもった声を聞いてもおふくろは「あら、そうなの?」って感じで。
「それって、すごいことなのかしら?」
自分以外は全員剣道をやる家庭にいながら、おふくろはいまだにルールも良く分かっていない。
我が親ながら素晴らしくマイペースだと思う。
「やだなぁ、おばさん。カッコ良すぎて卒倒しそうだったのに」
「面白いわね、安澄くんは」
どんなに一生懸命説明してものんきに笑うだけなのに、安澄はずっと試合のことをしゃべり続けていた。
おふくろが出ていってからもそれは同じで。
「あれ、すごかったよなぁ。絶対、脇を狙うって思ったのに――」
デート中もこうだとしたら中谷さんが拗ねるのも当たり前だ。
「明之」
「なんだ?」
不意に呼ばれて顔を上げたら、なんだか心配そうな顔の安澄と目が合った。
「嬉しくない?」
「何が?」
「勝ったこと」
俺のテンションが低いことには気付いたらしい。
だからってそんな顔をしなくてもいいのに。
「嬉しいよ」
安澄が応援してくれたから。
誰よりも祝ってくれたから。
嬉しくないはずなんてない。
けど、そんな気分も長続きはしなくて、どうしても中谷さんのことを思い出してしまう。
また、沈黙していると安澄が後ろに回りこんで纏わりつく。
ついでにムギュッと背中から抱き付かれ、俺は体をこわばらせた。
「そうだ。明之、お祝いしようか?」
身体の感触を意識してしまっただけでもかなりヤバいっていうのに。
この状況で普通の会話を強いられるのはキツい。
「なんの?」
「勝ったお祝い」
無邪気な笑顔が俺の肩に乗っていた。
思いきり横を向けば唇だって触れられる距離は容赦なくヨコシマな感情を肥大させたけど。
「試合に勝ったくらいでお祝いなんてしたことないよ」
大きく深呼吸をし、なんとか平常心を保ちつつ、教科書をめくった。
素っ気ない返事にがっかりしたのか、安澄は定位置に戻るとつまらなそうにノートを開いた。
うちでは勝って当たり前。
子供の頃からそうだった。
オヤジに「勝ったのか」と聞かれて「はい」と答えるだけ。
それを不満に思ったこともなかったけど。
「おまえんちではそういうことしてんのか?」
何気なく口にした質問に、安澄がどこか寂しそうな顔でうつむいた。
「……俺んちは、そういうの無関心なヤツばっかしだけどさ。明之んちなら、するかなーって……まあ、憲政なら言えば褒めてくれるけど……」
安澄から聞く家族の話は水沢先生のことばかりだ。
みんなでディズニーランドに行ったこともない。
部活の練習試合くらいでお祝いなどしたことがないというのも頷けた。
「そっか」
俺んちは確かに素っ気無いけど、それでも期待はされている。
安澄が憧れているのはきっとそういうものなんだろう。
家に帰ったらおふくろが台所にいて、賑やかな姉貴が「お帰り」と言う。
催促しなくてもおやつが出てきて、今日学校であったことを一通り聞いてくれる、平凡な家庭。
「……じゃあ、祝ってもらおうかな。どうせ安澄のためにすごい夕飯作ってるだろうし」
俺の返事を聞くと、安澄はダッシュで部屋を飛び出していった。
その後ろ姿を見送りながら、やっぱりそうなんだ……とため息をついた。
安澄は俺本人じゃなくて俺の家に憧れているだけなのかもしれない。
武道家の父と少し呑気なおふくろと男勝りの姉貴と引っ込み思案な弟。
特別どうってことはないけど、親とも兄弟とも仲はいい。
それに比べ、水沢先生以外は話し相手もしてくれないような安澄の家。
姉さんはいくらかマシなようだけど、年の近い勇吾先輩だってあの言われようだ。
理由は話してくれないけど。
安澄の家族があまり上手くいってないってことだけは確かだった。
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