宿題を放り出していった安澄は下に降りてたきり戻ってこなかった。
何をしているんだろうと思って様子を見にいくと、おふくろと姉貴に交じって夕飯の手伝いをしていた。
「おまえ、宿題しに来たんだろう?」
なんのために早く帰ってきたと思っているんだよ。
ったく、すぐに懐くんだから。
「安澄ちゃん、味見だからね。あ〜んして」
姉貴に言われた通り、大口を開けて肉を頬ばる。
幸せそうな顔を見ていると説教をする気も失せた。
「明之は部屋にいていいよ。できたら呼ぶから」
口をもごもごさせながら、俺にも味見をさせるべく爪楊枝に肉片をさして持ってきた。
「安澄が手伝ってんのに、俺が知らん顔できるわけないだろ?」
そもそも俺んちなのに。
「いいんだよ。今日は明之と恵実のお祝いなんだから」
安澄の後ろで姉貴がピンッと指を弾いていた。
どうやら出ていけという合図らしい。
安澄まで俺の背中を押すもんで、おとなしくそれに従った。
「おまえ、宿題どうするんだよ?」
廊下まで俺を押し出した後、戻ろうとする安澄を引き止めて聞いたけど。
「食べてからやるよ」
のんきな返事。
おふくろののんびりモードが移ったんじゃないかと心配になる。
「それじゃ遅くなるだろ?」
後で泣きついてきても知らないぞと思ったけど。
「おばさんに泊まってってもいいって言われたから明日の朝帰るよ」
おふくろのヤツ。
同じ部屋に泊まる俺の身にもなってくれよ。
これで明日は寝不足決定だ。
「安澄くーん、その棚から蚊取り線香出してちょうだい。お父さんの部屋においてこなくちゃいけないから」
まるで自分ちの息子のように安澄を使うおふくろもどうかと思うが。
「やっぱ、夏は蚊取り線香とカルピスとスイカだよねー」
嬉しそうに同意する安澄も安澄だ。
それにしても「カルピス」なんてここ十数年飲んでないなとなんとなく思った。
「なんでカルピスなんだ? 甘いだろ、あれって」
俺のイメージでは小さな子供が飲み物だ。
けど。
「だから、いいんじゃん」
甘いものも辛いものもなんでも大好きな安澄にとってはとても魅力的な物なんだろう。
うちでエラく可愛がられるのもそのあたりが理由だと思う。
おふくろに言わせると恵実は偏食だし、俺は何を食っても美味いなんて言わないから、ちっとも面白くないらしい。
俺も恵実もそんなことはどうでもいいから、態度を改めようなんて思ったことはなかったけど。
「安澄ちゃん、子供の頃、お母さんにカルピス作ってもらった?」
「うん。俺が5つの時に初めて退院してきて。その時に作ってくれた」
……退院? 初めて?
「あら、安澄ちゃんのお母さん、どこか悪いの?」
料理を作る手を止めたおふくろが心配そうに安澄を見る。
「うん。俺が生まれてからずっとね。今もまだ入院してるよ」
それまでニコニコ笑ってたおふくろと姉貴が急に黙り込んだ。
「退院してもまたすぐに入院するからあんまり家にいないんだ。あの時もまたすぐに入院しちゃって。その後は憲政兄が作ってくれた」
母親に作ってもらったのが忘れられなくて水沢先生にねだったんだろうか。
入院した母親の代わりに先生はせっせとカルピスを作ってやったんだろうか。
そんな光景が目に浮かんで、俺だけじゃなくおふくろも姉貴も涙ぐんでいた。
オヤジはともかく、恵実がいたらやっぱり同じ反応だっただろう。
……俺んちってベタだよな。
安澄はその後も別になんてことなさそうな口調でカルピスについて話し続けた。
「俺、子供だったからすごいなって思ったけど、実はあれって簡単なんだな。水入れるだけなんだろ?」
けど、安澄は姉貴の顔もおふくろの顔も、俺の顔さえ見なかった。
うつむいて口だけ動かして。
それがまた可哀想に思えたんだろう。
「明之、悪いけどマヨネーズ買ってきてちょうだい。あとバニラのアイスクリームね」
結局、おふくろと姉貴が涙を堪えられなくなって。
俺と安澄はお使いに出された。
「あ、あと、カンチューハイとビールね」
泣きそうな顔をしてるくせに、ここぞとばかりに重いものを頼むあたりが姉貴らしい。
それを聞いた安澄が目を丸くした。
「未成年に酒なんて売ってくれる?」
「大丈夫よ。知り合いのおうちだから。重いといけないから安澄くんも一緒にお願いね。道草食わずに早く帰ってくるのよ」
「は〜い。行こう、明之」
子供のような返事におふくろと姉貴が泣きながら笑ってた。
徒歩5分の距離にある酒店のおばちゃんには、やっぱりというか、
「偉いわね、お使い?」
などと子供扱いされたが、安澄は素直に「はい」と笑顔を返した。
「あらぁ、明ちゃんのお友達なの? 可愛いわネェ」
そんなことを言いながら、冷えると絵が浮き出るグラスを2個オマケに付けてくれた。
まったくもって子供の頃と同じ待遇だ。
「白熊とペンギンだ。明之、どっちがいい?」
こんな会話で遠慮なく俺の恋愛感情を遥か彼方に吹き飛ばす。
「安澄に好きな方をあげるよ」
「じゃあ、ペンギン」
この延長線上にゴールなんてあるんだろうか。
いや。
ゴールなんてなくていい。
ずっとこのままでいられるなら。
帰り道。
またいろんなことを考えてしまって、俺は鬱々としながら歩いていた。
安澄も珍しく長い時間黙り込んでいた。
それがあまりに長い時間なので、さすがに気になって顔を覗き込んだら照れたように笑った。
「なあ、明之、キスしたことある?」
あまりに唐突で息が止まりそうになった。
彼女がいるんだ。
そんなことだって考えるだろう。
「……あるよ」
中谷さんとキスをする安澄を思ったら本当に息ができなくなりそうだった。
「安澄、中谷さんと――」
キスしたのか……って。
聞けなかった。
けど、ちょっと歩調を遅くした安澄は困ったような顔でその先を話してくれた。
「中谷さんの友達に言われるんだよ」
「キスしたのかって?」
「ううん。なんでしないのって」
……してないのか。
あからさまに安堵してしまったが、街路灯の少ない場所だったせいか安澄には気付かれなかったようだ。
「けど、いくら友達だからってそんなことにまで口出すことないだろ?」
安心したら腹が立って、ついつい口調も厳しくなる。
「俺だってそう思うけどさ」
安澄を怒ってるわけじゃないのに、なんだか反省モードだ。
「そんなの真に受けるなよ。安澄がしたいと思ったらすればいいんだから」
でも、中谷さんはして欲しいんだろう。
だから友達に愚痴をこぼすんだ。
「……明之、いつした?」
「ん? ああ、去年かな」
「それが初めて?」
「じゃないけど。初めては……中1だったかな?」
我ながら冷たいと思うけど、あまり記憶になかった。
もちろん相手が誰なのかは覚えていたけど、中学入学直後からずっと付き合っていた子だったから、いつなのかは忘れてしまったんだ。
「そっか。みんなするもんなんだなぁ……」
みんなって、さ。
「俺を標準と思うなよ?」
「うん。明之はモテるからね」
誰にだって自分のペースがあるんだからそんなに急がなくていいのに。
何よりも安澄にはそのままでいて欲しいと思った。
もちろんそれは俺のわがままでしかないけど。
「それでさ、明之、」
「ん?」
「どうやってすんの?」
「は??」
キスの仕方を聞いてるんだろうか。
「したことないからさ」
もしかして、やる気満々なのか?
「どうやって……って、言われてもな」
家に帰ったら姉貴に映画のDVDでも借りてキスシーンを探せばいいか。
本棚の一段を占領しているくらいだ。ひとつくらいは該当するものがあるだろう。
「じゃあ、家に帰ったらな」
なんだか生殺しもいいところだ。
なによりも、安澄が中谷さんと……なんて考えたくなかった。
大騒ぎで夕食を済ませた後、客間のテレビを俺の部屋まで運び入れた。
姉貴が選んでくれた映画はわりと有名な恋愛ものだったが、安澄には退屈だったらしく、頻繁にあくびをしていた。
「けどさぁ、中谷さんの友達、なんで俺にそんなことばっかり言うんだろうなぁ」
安澄にしては珍しくストレートな愚痴。
けど、この場合、そんなことにさえ気付かない安澄のほうが悪いって気がする。
「そんな楽しそうでもないじゃん。ね?」
キスシーンで画像を止めたまま同意を求められた。
「そうかな」
「明之は楽しかったんだ?」
楽しいとか楽しくないとか、そういう次元の話じゃないんだけど。
安澄には『欲求』ってヤツがないんだろうか。
「まあ、安澄がしたいと思ってないならやめておけよ」
「なんで?」
「そんな気持ちでキスされても嬉しくないだろ?」
もっともらしく答えたけど。
この気持ちの裏側には嫉妬があるなのかもしれないと思う。
「そうだよなぁ。じゃあ、やっぱりやめとこうっと」
ほんの少しも関心なんてありませんって顔でポツリとつぶやく。
中谷さんとのことだけに当てはめるなら、俺にとって歓迎すべきことには違いないけど。
自分のことを考えると「それでいいのか?」って気分になる。
俺、安澄にキスしたいよ。
今すぐじゃなくてもいいから。
……という気持ちは顔に出ないよう努力したけど。
「好きじゃないのか? 中谷さんのこと」
「え? 好きだけど」
「だったら、普通はキスしたいと思わないか?」
たとえものすごく好きじゃなかったとしてもあんなに可愛いんだ。普通の男なら喜んですると思う。
なのに安澄は相変わらず。
「……ん〜、あんまり?」
男としての自覚が足りないか。
あるいはただ子供過ぎるだけなのか。
「明之は? キスしたい相手がいる?」
いきなりの質問で返事に詰まった。
けど―――
「……いるよ」
いないと嘘をついたほうが良かったのかもしれない。
あとからそんなことも思ったけど。
「ふうん。そんなに好きなんだ?」
「ああ」
その返事に何を思ったのか、安澄は「そっか」と呟いてリモコンをベッドに放り投げると姿勢を正してテーブルに向かった。
「映画、もういいのか?」
「うん。……宿題、やろうっと」
それからは無言で辞書をめくり続けるだけ。
もちろん中谷さんの話もしなかった。
その夜、安澄はものすごくはしゃぎながら俺のベッドのすぐ隣りに自分の布団を敷いた。
「お布団剥いで寝ちゃダメよ?」
おふくろが持って来たパジャマに着替えて、「はぁ〜い」と素直な返事をして。
「おやすみなさい」
俺にも可愛い挨拶をしてから楽しそうに電気を消した。
思った通り、しばらくは寝られなかったけど。
さすがに試合の疲れが出たんだろう。
身体が重く感じられ、だんだんと意識が遠くなっていった。
けど、あと少しで夢の中って時、頬に何かが当たってまどろみから引き戻された。
部屋は真っ暗だったけど、薄目を開けるとすぐ側に安澄がいるのがわかった。
安澄からは俺の顔なんてよく見えなかったんだろう。
俺が目を覚ましたことにも気付かず、首を傾げて何かを考えていた。
話したいことがあって俺を起こそうか悩んでいるんだろうか。
何をしたいのかわからないのでしばらく様子を窺っていたら、安澄の指先が俺の頬を押した。
やっぱり起こすつもりなのかと思ったけど、指はすぐに離れ、今度は唇を突ついた。
安澄はそのあともしばらく何かを考えていたけど。
おもむろにベッドに手をついて、顔を近づけてきた。
起きるべきか迷っている間に安澄の唇が頬に触れ、身動きはもちろん呼吸をするのさえ忘れてしまいそうになった。
温かい感触はすぐに離れていったけど。
心臓が高鳴って、もう寝たフリなんてできないと思った直後。
そっと唇が重なった。
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