ほんの一瞬。
掠めただけのキス。

けれど俺の心臓は壊れそうなくらいバクバクしていた。
これって、もしかして……？
安澄も俺のこと……？
期待していいんだろうか。
いや、そんなはずはない。
もっと冷静になって。
よく考えて。
とりあえず、どうすればいいんだろう。
今から起きるのも白々しいかもしれない。
このままだったら、もう一回くらいキスしてくれるかもしれない。
なんて。
一瞬のうちにグルグル考えている俺の耳に安澄ののんきな声が飛び込んできた。
「……口って、やわらかいんだなぁ〜」
その言葉に脱力した。
このキスに俺はもっと違う意味を期待していたのに。
どうやら実験台にされてたらしいことがわかったら、なんだかどうでもよくなった。。
しかもここで練習して、中谷さんとキスする気なんだろうなんて考えてしまったから、その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「おまえな……」
気がついた時にはもう安澄の手を掴んでいた。
「うわっ、起きてたの？？」
「普通、起きるだろ？ なにしてるんだよ、こんな夜中に」
わけもなく咎めるような口調になる。
「ちょっとさ、あのさ、」
うろたえている様子だって平静の時なら可愛くて笑えたんだろうけど。
ベッドから起き上がると、思いっきり腕を引き寄せ、そのままキスをした。
やわらかく唇を合わせて。
少しだけ離して。
「目閉じて」
最初、安澄は固まったままだったけど。
言われてから慌てて目を瞑った。
そっと角度を変えて、やわらかく唇を吸って。
舌先を安澄の唇に当てたら、驚いたのか、また目を開けてしまった。
「……安澄」
ほんの少しだけ離し、息がかかりそうな距離で言葉を続ける。
頬に手を当てて、もう一度さっきと同じように。
「目、閉じて」
それから、深く唇を合わせた。
カーペットの上に敷かれた布団にぺったりと座り込んでしまった安澄をそっと抱き締めながら。
離れられなくて、長いキスを続けた。
たかが、キス。
けれど。
今まで、こんなにドキドキしたことはなかった。
それから。
こんなに苦しかったことも。
「……ん…っ」
安澄の喉から少し苦しそうな声が漏れた。
拒まれる前に、早く離れないと。
何回も自分に言い含めて。
やっと腕を離した。
「……安澄」
呼びかけてもまだ目を瞑ったまま固まっていた。
「もう、キスの練習はおしまい。目、開けていいよ」
声を掛けられてこちらを見たけれど、その後もしばらく呆然としていた。
謝った方がいいんだろうか。
迷いながらも別の言葉を選んだ。
「大丈夫か？」
「……うん……」
安澄の頭の中はきっと真っ白になっているに違いない。
「もう、寝るよ？」
「……うん」
何度返事をしても座り込んだまま俺の顔を見上げてるから、そっと安澄の身体を抱いて寝かしつけた。
「おやすみ」
「……おやすみ」
タオルケットを掛けてやってから俺もベッドに入ったけれど。
どうやっても眠ることなんてできなくて、気付かれないようそっと背を向けた。
それは安澄も同じだったみたいで、しばらくしてから話しかけてきた。
「……明之、寝ちゃった？」
それもひどく心細そうな声で。
「なんだ？ 寝られないのか？」
「うん」
顔を向けると安澄は少しだけホッとした表情になった。
「びっくりしたのか？」
「うん」
素直な返事に罪悪感が募る。
だから。
「ごめんな」
結局、俺は謝っていた。
安澄はすぐには返事をしなかった。
きっと許す気がないんだと思った時、ようやく口を開いた。
「……明之、」
暗い部屋の中。
俺の方を見ていたけど、笑ってはいなかった。
複雑な表情で。
ただじっと見つめていた。
「……なに？」
少しうろたえながら小さな声で返すと、
「俺、わからなくなった」
ため息みたいな呼吸と共にそんな呟きが聞こえた。
「何が？」
聞き返したけれど、それについての答えはなかった。
ただ、
「もう寝るね」
頼りない声で告げた後は、鼻先までタオルケットを引き上げて目を閉じた。



眠れないまま朝を迎えて。
翌日はひどい寝不足だった。
「なによ、明之も安澄ちゃんも疲れた顔しちゃって。二人で夜更かしなんて、やらしいわね」
姉貴に突っ込まれた時、俺も安澄も一言も返せなくて、なんだかひどく気まずかった。




あれから数日。
俺の心配をよそに、安澄は不思議なくらい以前とまったく変わらない態度でうちに家に通っていた。
でも、あの日のことは一度も口にしなかった。

表面的には平穏な日々。
けれど、俺は少しおかしくなっていた。
安澄を抱いてる夢を見て、あわてて飛び起きて。
なのに、目が覚めてしまったことがひどく残念で。
夢でもいいから抱いていたかったと思った自分に呆れた。
まだ夜も明けてなくて、ぶつける先もないまま一人で安澄を思って果てた。
本当にもうダメだと思った。
キッパリ振られてしまえば諦めもつく。
もうこんなこともなくなるだろうって思ったから。
嫌われてもいいから『好きだ』って言ってしまおうと決めた。




さすがに家で言うのは無理だろうと思い、放課後に安澄のクラスまで出向いた。
一年の教室ではさすがに目立つのか、やけに周囲の視線を感じたけど。
「もう帰れるか？」
できるだけいつもどおりに声を掛け、安澄を外に連れ出した。
帰り道とは反対の方向。
みんなが通学路に使わないような通りを選んで河原まで来ると自転車を止めた。
「どうしたの？」
不思議そうな目がこちらに向けられていた。
少し不安そうにも見える表情だった。
だけど、すぐには返事ができなくて、コンクリートで固められた土手に腰を下ろした。
夏の名残の日差しが川面に反射して視界を焼いた。
何度も視線をさまよわせ、それでもまだ躊躇っていたけど。
沈黙をガマンできずに口を開いたのは安澄のほうだった。
「明之、悩み事？」
隣りに座った安澄が心配そうに俺の様子を覗っていた。
いつもと同じ子供っぽい表情。
「……っていうかな」
わざわざこんな所まで来たのに決心は鈍っていくばかり。
一度口に出してしまえばもう元には戻れないことも分かっている。
暴走気味な感情をごまかすことさえできれば、少なくとも今までどおり一緒に帰ったり、勉強したりできるんだから。
「……やっぱり、いい。帰ろう、安澄」
腰を上げようとした俺の手を掴み、安澄が代わりに立ち上がった。
「あのさ、俺、おやつ持ってるんだ。飲むもの買ってくるから明之はここで待ってて」
そう言ってさっさと自販機まで走っていってしまった。
ペットボトル二本を手に戻ってくると、また隣りに座ってバッグから菓子の袋を取り出した。
教科書の類はほとんど入っていないのに菓子だけは３種類くらい入っていて、妙に安澄らしいなと思った。
「はい」
菓子の袋を開けてからジュースを差し出した。
ぼんやりしたままそれを受け取って何気なくキャップをひねったら、プシュッという派手な音とともに泡が吹き出した。
「うわっっ！！」
幸い自分にはあんまりかからなかったけど、かなりの量がこぼれてしまった。
「安澄、途中で振っただろ？」
手を拭きながら尋ねると、安澄が無邪気に笑った。
「思いっきり振ったよー」
その時やっと、安澄がすごく心配してることに気付いた。
それから、恋愛感情じゃなくても思ってもらえるのは幸せなんだってことにも。
「明之、元気ないの、似合わないからさ」
パクパクとおやつを食べながら、それでも真面目な顔でそう言った。
「明之、食べなよ。おいしいよ？」
「……ああ」
これから先、安澄を忘れようとするたびにこんな場面を思い出すことになるんだろう。
そんなことを考え始めたら、もう一生安澄を好きなまま過ごすしかないような気になった。
……けど。
「じゃあさ、」
安澄の無邪気さはこんな時も相変わらずで。
「明之も彼女作りなよ。そしたらきっと楽しいよ」
またしても一瞬で俺は粉々に砕け散ってしまうんだけど。
「……そうだな。中谷さんみたいないい子だったら」
ペットボトルに残った炭酸を見ながら、これくらいどうってことないと心の中でつぶやいた。
「うん。すごく気が利くし、なんでも笑ってくれるし」
俺が気付かなかっただけで、安澄はちゃんと少しずつ大人になっている。
中谷さんが安澄に気を使ってることにも気付いて、彼女のいいところも分かるようになって。
一生懸命話をする安澄と、それを見て微笑む中谷さんが目に浮かんだ。
「中谷さん、安澄のこと好きだからな」
分かりきってることを口にして、自分に言い聞かせる。
選択肢はあるけれど、俺がそれを選ぶ事はできないんだってことも。
「でもさ、一番気が利くのはやっぱ明之だなって思うよ。俺の考えてること、なんでも分かるし」
一生懸命そう言ってくれることが今の俺には余計に痛いけれど。
「俺も……中谷さんに負けないくらい、安澄のことが好きだよ」
本当の意味はきっと分からないだろう。
「俺も明之が好きだよ」
無邪気に言いきれるのは、それが特別な意味を持たないからだ。
当たり前だけど。
俺の精一杯はあっけなく流されてしまう。
それでも。
「サンキュ。嬉しいよ」
今の自分にはこれくらいでちょうどいいのかもしれない。


「じゃ、遅くならないうちに帰ろうっと」
伸びをしながら立ち上がる安澄は、今日に限ってやけに大人びて見えた。
「俺んち来るか？」
「ううん。今日は早く帰るよ。ちょっと用事があってさ」
普通なら深読みしてしまいそうな断わり文句だったけど。
安澄は俺に嘘なんてつかないから。
「そっか」
ジーンズに付いた枯草を払って立ち上がる。
「な、明之」
水面に反射するキラキラを背に安澄が笑った。
「うん？」
「俺、中谷さんより明之が好きかも」
その言葉に一瞬気持ちが揺れた。
あの夜のキスの感触と甘い興奮が頭を掠めて。
でも。
―――そんなはずない
我に返った時、安澄は自転車の鍵を外してこっちを見ていた。
「帰ろ、明之。また明日おやつ食べにいくから」
『Ｌｏｖｅ』と『Ｌｉｋｅ』の区別がつかない安澄にそれ以上を求めるのは間違ってる。
「ああ。おふくろたちに言っておくよ」
「えへへ、楽しみ〜」
川沿いの道を並んで自転車を走らせながら、明日のおやつ予想を聞いて。
その合間に、夕暮れに色づく空に目を遣った。