こんなふうに、安澄との間にはときどき少し波が立つけれど、いつだってまたすぐに穏やかになる。
変わらない時間を望みながら送る日々の中、ちょっとヤバい夢を見たり、近づきすぎてクラッとしてしまったりすることもけっこうあったけど。
繰り返すうちにそれにも慣れてきて、妙に焦ったりすることもなくなった。
安澄はやっぱり変わらなくて、道場で遊んだり、おやつを食いまくったり、俺に英作文をやらせたり。
それがあまりに無邪気過ぎるから、どんなに魔が差してももう抱き締めることもキスすることもできそうになかった。
「な、明之。今日のおやつなんだと思う?」
今日も俺んちに来ると言う安澄はさっきから食べ物の心配ばかり。
本当にいつも通り。
「あれだけ冷蔵庫にいろんなものが入ってたら、何が出てくるかなんてわからないな」
大真面目に答えながら自転車置き場に向かっていると、同じクラスの堀内さんに呼び止められた。
「泗水くん、ちょっとだけいい?」
「何?」
足を止めてその場で返事をしたが、それじゃ駄目だという素振りで小さく首を振られた。
「すぐそこだから」
視線の先に見えたのは堀内さんと仲のいい本田さんの横顔。
「安澄、そこでちょっと待ってろ」
あまり深く考えずに自転車置き場を指差したけど、その途端、安澄のほうに向き直った堀内さんが少し冷たい声でそれを却下した。
「悪いけど今日は帰ってよ」
敵意でもあるんじゃないかと思うほど刺々しい口調だった。
そんな言い方しなくてもいいのにという気持ちが彼女への反感に変わってしまいそうだった。
「じゃあ、先に俺んち行ってろよ」
さっさと済ませて帰ればいい。
ほんの10分程度のことだ。
そう思ったけど。
「俺、自分ち帰ってもいいけど……」
安澄が珍しく口篭もった。
俺の顔も見ず、斜めに視線を外したまま。
「英語の宿題どうするんだよ?」
「……でもさ」
ちらりと堀内さんを見るとなんだか不機嫌そうだった。
だからって、先に約束していた安澄が遠慮することはないのに。
「とにかく帰って宿題始めてろよ。おふくろの話し相手なんかしてちゃダメだぞ?」
「……うん」
渋る安澄を先に帰し、堀内さんについていったけど。
用件は予想通り。
「付き合ってもらえないかな?」
本田さんはいつになくしおらしい口調でそう言ってくれたけど。
「ごめん。俺、好きな人いるんだ」
体のいい断わり文句に聞こえたかもしれない。
けど、本当のことなんだから仕方ない。
「でも、泗水、その子と付き合ってないんだよね?」
「もういいよ、堀ちゃん」
こういう時って、告った本人はさっぱりしてるのに付き添いが思いっきり不満そうな顔をするんだよな。
女の子同士の友情ってヤツなんだろうけど、今の俺にはちょっと面倒に感じられた。
勇気を出して「好き」と言ってくれた相手だ。
自分も好きになれたらどんなにいいだろうって思わないわけじゃない。
でも。
「ホント、ごめんな」
もう一度謝ってから、憂鬱な気分でその場を立ち去った。
家に帰るまでに気分を変えようと思い、思いっきり風を切って自転車を走らせてみたりしたけれど、まったく効果はなかった。
晴れない気持ちのまま門をくぐると玄関先に安澄が立っているのが見えた。
「番犬じゃないんだからそんなところで待ってるなよ」
「……うん」
普段なら「一緒におやつ食べようと思って」くらいのことは言うはずなのに。
「おやつ食ったのか?」
「まだ」
「宿題やってろって言っただろ?」
「うん」
なんだか口数が少ない。
様子のおかしい安澄を先に二階へ上げて、俺だけ台所に顔を出した。
「安澄、外で待たせないで家に入れてやってよ」
近所の手前もあるだろうなんてことも思ったんだけど。
「言ったのよ。おやつ食べて中で待ってて、って。なのに、安澄くん、あそこから動かないんだもの」
おふくろも首を傾げていた。
しかも。
「いつもはあんなにしゃべるのに、今日は話しかけても『うん』しか言わないでしょ?
何かあったの?」
どうやらおふくろにも同じ反応だったらしい。
「別になんにもないと思うんだけどな」
堀内さんに冷たく当たられたことが原因なんだろうか。
安澄ってそんなことで落ち込むような性格だったか?
「まあ、もうちょっと様子見るよ」
お袋が用意してくれたおやつとお茶をもって2階に上がると、今度は姉貴に呼び止められた。
「明之、あんた安澄ちゃんに何したのよ」
姉貴にまで同じことを。
「今日だって、遅くなったら泊まってっていいのよって言ったのに。黙ってブンブン首振るし」
さすがにそれには思いっきりため息をついてしまった。
あの夜のことなんてもうさっくり消去したのかと思っていたけど。
俺の前でだけ何もないような顔を装っていたのか。
「白状しなさい。何したの?」
「別になにも」
キスしただけだ。
……とはさすがに言えなかった。
「絶対嘘ね。けど、安澄ちゃんがこうやって今まで通りうちに来てるってことは嫌がってるところをムリヤリとかではないってことよね」
とりあえずそのくらいの結論で落ち着いてくれそうだったので「当たり前だろ」と答えておいた。
「じゃあ、安澄がおやつ待ってるから」
適当な言い訳をしてさっさと自分の部屋に逃げ込んだ。
ホッとしながらドアを閉めると、今度は安澄本人が待ち構えていて、しかもいきなり俺に詰め寄った。
「付き合うことにした?」
それも、ものすごく真面目な、むしろちょっと厳しいくらいの表情で。
けど。
その時の俺の頭はまだおふくろと姉貴の言葉に占領されていて、そのせいで安澄の唐突な質問についていけなかった。
「……何の話だ?」
おやつをテーブルに置きながら問い返したが、安澄は突っ立ったまま真剣な面持ちで質問を重ねた。
「好きだって言われたんだろ?」
帰る時はあんなに引き摺ってたのに。 「ああ、それな。……いいから、座れよ」
安澄の様子があまりに変だったから、そっちに気を取られてすっかり忘れてしまっていた。
俺って自分が思っているより薄情な性格だったんだな。
それよりもまさか安澄があの場の空気を読めていたとは。
正直びっくりだ。
「ホントにさ、好きだって言ってくれる子を同じくらい好きになれたら簡単なんだけどな」
愚痴なんて言っても仕方ないのに、無意識のうちにこぼしていた。
「ダメだよ、そんなの」
俺の真正面に座った安澄が口を尖らせ、テーブルに両手をついた。
「そんなことになったら好きな人がたくさんできて大変だろ?」
全員と付き合うわけにいかないんだから、なんて真顔で言われてしまった。
「まあ、確かにそうだけど。とりあえず最初に好きだって言ってくれた子とは楽しく付き合えるんだし、いいんじゃないか?」
非現実的なことを真剣に考えても仕方ない。
「そんなことより。安澄、腹減ってないのか?」
目の前にあるおやつに手をつけないなんて、珍しいこともあったもんだ。
けど、安澄は俺の質問には答えず、思いっきり不満そうな目を向けた。
「それでさ、明之」
「なんだよ?」
「つき合う事にしたのかって聞いてるんだけど」
ああ、そうか。
安澄の質問に答えてなかったんだな。
けど、今の話の流れで分かりそうなものなのに。
「いや、断わったよ」
答えた途端、安澄がバッタリと後方に倒れた。
「どうしたんだよ?」
「別になんでも〜」
気の抜けた返事をしたけど。
その後すぐにムクッと起き上がると、テーブルのおやつに手を出した。
「いただきまーす」
まったく。
何を考えてるんだか。
「別に俺に彼女ができてもちゃんと宿題は見てやるから。心配しなくていいんだぞ?」
こんな精神状態で彼女なんてできるわけないけど。
「うん。けどさ」
すっかりいつもの調子で大口開けておやつを食って、ときどき俺の顔を見て、少し笑って。
「剣道の相手もするし、うちの出入りだって自由だし」
「うん。そうだとしてもさ」
すぐ目の前、手を伸ばせば届く距離にいるっていうのに。
好きとは言えないまま。
本当に、いつまでこんなことをしてるんだろう。
俺が大学に行くまでか?
それとも安澄が?
社会人になって、結婚して?
……考えたくないな。
溜め息は無意識に出るものだ。
さっきからこっちを見ている安澄が首をかしげたのもそのせいかと思ったんだけど。
「あのさ、」
「ん?」
「なんでダメなんだ? キレイな人だったのに」
どうやらまた俺に彼女を作らせようとしているらしい。
「他に好きな人がいるからな」
このセリフも何度言っただろう。
「その人のこと、そんなに好きなんだ?」
おやつを食べる手を止めてじっと俺を見る。
「そうだよ」
中谷さんと付き合うようになって、こういうことにも興味を持つようになったらしい。
嬉しいような淋しいような複雑な気持ちだった。
「……もうこの話は止めな」
安澄はまだ少し不満そうな表情を残していたけど、「うん」と短い肯定を返した。
そのあとは黙々と勉強に励む。
辞書を引いて、ノートに書き写し、先生が作った問題をやってみる。
とても熱心に宿題を片付けているように見えたけど。
合間にときどき手を止めて何か考え込んでいるのが気になった。
「どうしたんだ? わからないところがあるなら聞けよ?」
でも、プリントの空欄は最後まで全部埋まっていた。
「ううん。なんでもない」
おふくろや姉貴が言ってたとおり、今日の安澄はちょっと変だ。
それがこの間のキスの後遺症だとしたら、やっぱり俺のせいってことだ。
突然ものすごく心配になってしまい、無意識のうちに安澄を誘っていた。
「メシ食ってけよ。遅くなったら泊まっていけばいいし」
下心なんかなかったのに。
安澄はきっぱりと答えを返した。
「ううん。明之の部屋にはもう泊まらない」
その言葉の衝撃で、安澄が帰った後もしばらく俺の目の前は真っ暗だった。
翌日の午後。
ただでさえショック状態の俺に、また心配事が降りかかった。
「え? 安澄が??」
「うん。さっき、一緒に階段上がって部屋に入ったよ」
「副理事長室に?」
久々にエロオヤジのことを思い出した。
「最近一緒にいるのよく見かけるし、何かやっちゃって呼び出されたっていうんじゃないと思うけど」
部活の途中だったけど、慌てて部室を飛び出した。
なんで安澄がアイツのところに行くんだよ。
姉貴にもあれほど気をつけろって言われてたのに。
しかも、よく見かけるだと?
「副理事長いらっしゃいますか!?」
ノックをしながら叫び、返事も待たずに勢いよくドアを開けた。
けど、俺の予想に反して、安澄とエロオヤジは二人でのんびりと麦茶を飲んでいた。
「いらっしゃい、泗水。部活が終わったからお茶飲みにきたのかな?」
どうぞと椅子を指し示した手は坊っちゃんらしい優雅な仕草だったが、口元はニヤけていた。
「そうじゃないです。安澄が……」
まだ息が切れていたこともあって言葉が続かなかった。
こんなに心配していたっていうのに。
「なに、明之?」
安澄はここでも菓子を食い散らかしてた。
ちゃんとしたデザートのように高そうな皿に並べられた上品なチョコレートに遠慮なく手を伸ばす姿を見ていたら怒る気も失せた。
「何してるんだよ、こんなところで」
口いっぱいに菓子を頬張っている安澄の代わりに副理事長が答えた。
「青少年の悩み相談室」
「……は?」
安澄の?
悩み?
そんなこと俺には一言だって話してくれないのに?
こいつには言えるのか?
視線を移したら安澄が思いっきり首を振ってた。
「そんなんじゃ……なんでもないって。ホントに」
それがどう見ても怪しい動きで。
「まあ、安心していいよ。泗水に怒られなきゃならないようなことは何もしてないから」
「……当然です」
エロ教師にそんなこと言われてもぜんぜん安心できないんだけど。
しかも、もうすっかり餌付けされてるし。
俺んちだって食い物で釣りまくりだけど。
他のヤツがやってると腹が立つ。
「相変わらず泗水に懐いてるんだなぁ。どこがそんなにいいの?」
俺の不機嫌を笑うかのようにまた余計なことを聞く。
妙なことを言い出す前に安澄を連れ帰らないと。
けど、俺の心中など推し量ることもなく、別の皿に手を伸ばした安澄は、ついでに機嫌よく答えを返した。
「全部〜」
菓子をめいっぱい押し込みながらニッコリ笑って。
「全部か。まあ、いいけどね。あえて一番好きなところを挙げるとしたらどこ?」
ニヤニヤしながら安澄のグラスにお茶を注ぐ。
「全部は全部だよ。明之、一個で全部だもん」
そんなぜんぜんわからない説明を副理事長は終始クックックッと笑いながら聞いていた。
「よかったねェ、泗水」
「何がですか」
「泗水の髪の毛の先まで余すところなく好きだって」
どうやったらそういう変換ができるんだろう。
安澄の返事も大概わからなかったけど。
こいつの頭の中はもっとわからない。
「安澄、帰るぞ」
「明之、部活は?」
「今日は終わり」
こんなところに安澄を置いておくくらいなら、サボって家に帰った方がいい。
「じゃあ、俺も帰ろうっと。またね、センセ〜」
すっかり仲良しな雰囲気で手を振り合ってた。
安澄はともかく。
いい年したオヤジがすることか?
「安澄、副理事長と何の話してたんだ?」
部屋を出て、ドアをしっかり閉めてから小さな声で聞いた。
返事によっては扉を蹴破って殴りにいくくらいの気持ちはあったけど。
「ん〜、べつに。世間話かなぁ……」
見え透いた嘘。
安澄が。
俺に。
嘘。
「俺には言えないってことか?」
まさかそんな、って思った瞬間。
本当に申し訳なさそうな「ごめん」が聞こえて。
またしても、俺の目の前は真っ暗になってしまった。
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