Forever You
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それ以来、安澄との間には微妙な線が引かれてしまったような気がした。
だからといって何かに支障があるわけでもないから、微妙な部分は微妙なまま放置されていた。
時々よそよそしさを感じることもあったけど、いつの間にかそれにも慣れ、このまま落ち着くんだろうなんて思いはじめた頃だった。

「ねえ、明之。安澄ちゃん、どうしちゃったのかしら?」
家に帰るとおふくろの第一声がそれで。
俺の部屋で勉強をしているという安澄を見にいくと、傍目にもはっきりわかるほどどんより沈み込んでいた。
ただならぬ事情があるんだろうと思い、遠慮しながら「どうしたんだ?」と尋ねたけど。
帰ってきたのは、「別になんでもないよ」という当たり障りのない返事。
また俺には話せないことなんだなと思ったら、無理に聞き出すことはできなかった。
おかげで夕飯の時も前のような賑やかで楽しい雰囲気はなくなってしまった。
なによりも安澄が頻繁にため息をつくので、俺にはそれがけっこう堪えた。
今までなら「宿題がわからない」とか「お腹が空いた」とか、そんな時にしか聞いたことがなかったのに。
「何かあったら遠慮なく言えよ?」
ふうっと息を吐き出すたびにそっと尋ねてみたけど。
「うん。ありがと、明之」
安澄はただ無理をして笑うだけだった。


――……このままってわけにはいかないよな
思い悩んだ挙句、事情がわかりそうな相手に探りを入れることにした。
今日聞いてしまわないと、明日からは研修会。学校には来ない。
放課後、部活をサボって職員室に向かった。
「水沢先生」
「おう、泗水か。剣道部に入る気になったか?」
いつもと同じ挨拶代わりの言葉。
けど、先生はなんだか疲れているように見えた。
「安澄、どうかしたんですか? 元気がないみたいなので気になってるんですが」
できるだけサラリと聞いたつもりだったけど、その途端、先生が困った顔をした。
「泗水に話すようなことでもないんだが……ずいぶん前から母親が入院しててな」
そのことは安澄から聞いて知っていたから、俺も黙って頷いたけど。
「先週末、急に容態が悪化したんだ」
愕然とする俺を慰めるように水沢先生はポンポンと肩を叩いて言った。
「泗水には心配かけたくなかったんだろう。実際、あまりいい状態じゃなくてな」
先生の言葉も重かった。
「すみません。俺、立ち入ったことを……」
「いや。いいんだ。それより悪いかったな、泗水。つまらん気を遣わせて」
「いえ、いいんです。少しでも力になれたらと思ったんですけど」
それが理由なら、どう頑張っても役には立てない。
「あの、もし、家事とか大変だったら、何か手伝いにいきますけど」
だけど、先生は首を振った。
「安澄が生まれてすぐの頃からずっとこの状態なんだ。家族はみんな慣れてるよ。ハウスキーパーが来てるから家の事は大丈夫だ。ありがとな、泗水」
先生の話によれば、安澄の姉さんは母親がいない家で家事をすることを嫌って大学入学と同時に家を出たらしい。
今、家には男兄弟4人と仕事で留守がちな父親だけ。
「どうにも家族らしい状態じゃなくてな。安澄が泗水の家に入り浸る気持ちもわかるんだが……」
それぞれが勝手な生活をしているから、家族揃って食卓を囲むこともない。
先生が早く帰れる時はともかく、そうじゃなかったら安澄はいつも一人で夕飯を済ませる。
「でも、小さい頃とか……どうしてたんですか?」
「今と同じだよ」
ずっと一人だったんだろうか。
「勇吾は小学生の時から塾通いをしていたから、安澄の遊び相手にはならなかったしな」
だから、水沢先生がずっと面倒を見ていたんだな、とか。
だから、あんなにおふくろや姉貴に懐いているんだな、とか。
いろいろなことが頭を駆け巡ったけど、やっぱり俺じゃ何もしてやれそうにない。
「安澄を産んですぐ入院したから、勇吾から『おまえのせいだ』言われ続けてな。勇吾が小学校に上がる前の話なんだが……安澄は、今でもそれを気にしてる」
先輩は安澄と二つしか違わない。
母親の入院は相当ショックだったんだろう。
安澄のせいにしなければ気持ちが収まらないくらい。
……だからって、それじゃ安澄が可哀想だよな。
「それで、あの……お母さんのご容態は?」
「まあ、いつものことだし、なるようにしかならないんだが。今日明日は要注意らしい」
先生はため息の後、俺に向き直った。
「泗水、悪いんだが俺の留守中、安澄のことを頼んでいいか?」
研修会は明日から金土日の三日間。
泊りがけだから家にも戻らない。
「もちろんです。俺で役に立てるなら」
姉は夏休みで旅行中。2番目の兄はゼミ合宿。勇吾先輩は金曜夜から泊まり込みの夏期講習。
「親父の帰宅は深夜だしな。しかも週末は出張だ」
そしたら、安澄は家に帰っても一人きりだ。
病院からの連絡を待ちながら広い家にポツンとしているのがどんなに辛いことかなんて考えるまでもない。
「どうしてもダメなら俺が泊まりに行きます。もちろん許可していただけるならの話ですが」
水沢先生がダメなんて言うはずはないんだけど。
「本当に頼んでいいか?」
「はい」
俺でよければ何でも言ってください、お兄さん!
そういう気持ちで引き受けた。
もちろんそんな能天気な雰囲気ではなかったけど。



その日、安澄は俺の誘いを断わってまっすぐ家に帰り、翌日は早退した。
それを知ったのが昼休みで。
すぐに安澄に電話をしたけど、何度かけても出なかった。
……ってことは病院にいるんだろうな。
どこの病院なのかは水沢先生から聞いていた。
こんな状況で突然押しかけるのは失礼だと思ったから、見舞いには行かないつもりでいたけど。
「悪い、俺、今日は用があるから」
部室に顔だけ出して断わりを入れ、できるだけ急いで家に帰った。
もしかしたら安澄がうちに来てるかもしれないって思ったからだ。
「ただいま」
玄関に安澄の自転車はなかった。
けど、ドアを開けた瞬間、リビングにいた姉貴が大声で叫んだ。
「明之、電話よ。安澄ちゃんから!」
あまりにジャストタイミングだったから、
「俺の動きが読めるのかな」
呑気にそんなことを言ったら怒られた。
「バカね。5回目よ。何かあったんじゃないの?」
まさか、容態が……?
カバンを放り出し、慌てて電話に出たが安澄の声は案外普通だった。
『あのさ、明之……今から会えないかな』
ちょっと暗いのは否めないけど。
「いいよ。今、病院か?」
俺の返事に安澄が驚いた。
『なんで知ってんの?』
「昨日、水沢先生に聞いたんだ」
電話の向こうで安澄が黙り込んだのを悟り、慌てて謝った。
「悪い、余計なことだったか?」
けど、それは安澄がすぐに否定した。
『ううん』
でも、ひどく小さな声だった。
「どこの病院かも聞いてるから、安澄が嫌じゃなければ今からそっちに行くけど。どうする?」
何かあった時のことを考えたら、少しでも母親の近くにいたいだろう。
『……来てもらってもいい?……ごめんね』
そんなに頼りない声を聞いたのは初めてだった。


病院の受付で名前を書いて面会バッジを受け取り、病室に向かった。
安澄は病室からすぐのところにある休憩スペースに俯いて座っていた。
「安澄」
出入り口に立って声をかけたけれど、何の反応もなかった。
聞こえなかったのかもしれないと思ってもう一度呼ぼうとした時、安澄はゆっくりと顔を上げた。
「……明……之」
ふらりと立ち上がると、いきなり俺に抱き付いた。
「だ、大丈夫か?」
うろたえる俺の腕の中で安澄が泣いていた。
「ごめ……家、誰もいなくて……」
「いいよ。昨日、先生から頼まれたんだ」
泣き続ける安澄の髪を撫でているうちに俺まで悲しくなってきた。
「今日は俺が水沢先生の代わりだからな。まあ、あんまり役には立たないだろうけど」
できるだけ明るく言ってみたけど、安澄からはもう一度「ごめん」という小さな声が返ってきただけだった。
看護師や見舞い客が気の毒そうに俺たちを見ていた。
病院で泣いてるなんて良い状況じゃないって言ってるのと同じだから。
ため息をつきそうになるのをグッと堪えて、安澄を抱き締めたまま壁際の目立たない所まで移動した。
「大丈夫だから。おまえもしっかりしろよ」
万が一最悪の事態になってしまったら、そのとき安澄はどうなるだろう。
子供の頃からずっと引きずってきたように、自分のせいだと思い込んでしまうんじゃないだろうか。
俺の気持ちまでどっぷり暗くして、安澄は泣き続けた。


なんとか顔を上げたのは10分くらい経った頃。
「……落ち着いたか?」
立ったままだと人目を引くと思い、隅にある長椅子に腰掛けさせたが、安澄はまだグスグスと鼻をすすっていた。
涙を拭いてやりながらぼんやり考えた。
あまりにも毎日のように俺の家に来るから、ずっと不思議に思ってた。
普通なら親が心配するだろう。
なのに水沢先生は俺に謝るばかりで、安澄を止めたりはしなかった。
可愛い弟だから少しだけ甘えさせてやりたかったんだろう。
今ならそれも分かるけど。
「あんまり寝てないんじゃないのか? クマできてるぞ」
「……大丈夫。ごめんね」
安澄の目に俺んちはどんなふうに映っていたんだろう。
武道家らしい強面だけど毎晩家族と一緒に夕食のテーブルを囲む父親。
のんきでおっとりした母親。
男勝りで賑やかな姉貴。
ちょっと内気な弟。
「ほんとに無理するなよ」
「うん……ごめん」
何度も何度もそればかり言うから、俺のほうがつらくなりそうだった。
「謝らなくていいから」
そんな言葉に小さく頷いたけれど。
ギュッと結んだ唇は少しだけ震えていた。

休憩室の大きな窓から見る夕焼けはとても夏らしい色で、こんな状況じゃなかったらどんなによかっただろうって思った。
鮮やかなオレンジの空に気付くこともなく、安澄は暗くなるまでずっと床についた茶色の染みを見つめていた。



すっかり日が落ちた頃、看護師が安澄を呼びにきた。
母親の容態はとりあえず落ち着いたので、今日はもう家に帰るようにとのことだった。
「何かあったらすぐに連絡しますので」
本当はこのまま残りたかったようだが、付き添いのための宿泊施設などない病院なのでそれに従うしかない。
「帰ろう、安澄。明日またくればいいよ」
沈み込む背中を押し、看護師に礼を言って病院を出た。
帰る途中、安澄は一言もしゃべらなかった。
俺から話を振ろうかと思ったりもしたが、また「ごめん」と言われそうな気がしてできなかった。
『じゃあな。ちゃんと寝るんだぞ』
安澄の家の前まで来たらそう言って帰宅するつもりだったけど。
まっくらな玄関を背に心細そうに立っている姿を見たら、一人で残していく気になれなかった。
「のど乾いたな。なんか飲むものもらっていいか?」
そんなわざとらしい言葉にも安澄はパッと顔を輝かせ、俺の腕を引っ張って家に招き入れた。
部屋は広くて隅々まで掃除の行き届いていたが、そのせいでよけいに殺風景に見えた。
誰かが無造作に置いた雑誌とか、ソファの上から転げ落ちているクッションとか、そんなものでもあればまだ少しはマシだったかもしれない。
人が暮らしていることを感じさせないほど片付けられた部屋。
誰だってこんなところで一人でメシを食う気にはならないだろう。
水を取り出そうと勝手にキッチンに入ると、戸棚にはレトルト食品が並んでいた。
温めればすぐ食べられる便利なものだけど、こんな日にそれも侘しい。
冷蔵庫には水沢先生が買ってきたと思われるつまみや野菜やハムなんかが入っていた。
「安澄、俺がなんか作ってやろうか?」
元気を取り戻すためには、まず腹を一杯にしなければ。
「え? 明之、料理できるの?」
本当に意外そうな表情で俺を見る安澄が可愛かった。
「俺の腕を疑ってんのか?」
疑ってるどころか、まるっきり信用してないって顔だけど。
「おばさんと陽子さんがやってくれるから必要ないかなって思って」
「ば〜か。恵実と俺しかいない時は俺が作ってんだよ」
こう言ってはなんだが、俺は姉貴より料理がうまいと思う。
『これからは男のコだって料理くらいできないとね』
そう言われて小学校高学年から仕込まれた。
今まで一度も「料理ができてよかった」などと思ったことがなかったが、よく考えたら安澄には効果絶大だもんな。
「とりあえず家に電話するから。メシは30分後な」
安澄が風呂に入っている間に家に電話をした。
「そんな感じだから。今日は安澄のとこに泊まる」
簡単に事情を説明したらおふくろが電話口で鼻をすすりはじめ、話ができなくなったのか途中で姉貴に替わった。
『それでね、明之、聞いてるの?』
あれこれと回りくどい注意事項をまくしたてたが、要約すると「こういう時には絶対手を出すな」ってことらしかった。
俺だってそこまでバカじゃないんだけど。
「それって一応俺を応援してくれてんのか?」
そんな性格じゃないってことは分かってたけど。
『ちっっっがうわよ。アンタなんかどうでもいいけど、安澄ちゃんが心配なの。あ〜あ、安澄ちゃんが弟だったらよかったな〜』
やっぱりだった。
だったら、すぐにでも水沢先生と結婚すればいいんだ。
そしたら本当に弟になるんだから。

電話を切ったとき、安澄が髪を拭きながらリビングに戻ってきた。
「明之もシャワー浴びてくれば?」
まだいくらか元気はなかったもののそれなりに落ち着いたようで、顔色も大分良くなり、表情もやわらいでいた。
「じゃあそうするよ。その間に箸と茶碗用意して。10分後にメシあっためて」
「うん。あ、着替え、風呂場に置いてあるから」
ちょうど食卓の準備が整った頃、安澄の貸してくれた服を着て風呂場を出た。
ありあわせのもので手早く炒め物を作り、インスタントの味噌汁を入れて一緒にテーブルにつくと、さすがに腹が鳴った。
「ちゃんと食えよ?」
「うん。ありがと、明之。おいしいよ」
俺んちだと自分の部屋にいてもおふくろや姉貴が邪魔をしにくるが、今日は本当に二人っきりだ。
安澄はそれどころじゃないだろうけど、俺はやっぱりこの状況が嬉しかった。




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