「後片付けはいいよ。どうせハウスキーパーさんが来るから」
安澄はそう言ったけど。
ボーッとしているよりは気が紛れるかもしれないと思って、一緒に皿洗いをした。
広い家に二人きり。
テレビでもつけていなければ寒々しく感じるほど静かに思えた。
「オヤジさんはいつ戻るんだ?」
「今日か明日だと思う。でも、普通の時も何時に帰って来てるのか知らないんだ。俺、もう寝てるし。勇吾の上の兄貴もおんなじ。最近、顔見てない」
安澄の話だとオヤジさんは日頃から深夜の帰宅で、しかも起きた時にはもう家を出た後だから、めったに顔を合わせることがないという。
俺にはものすごく不思議なことに思えた。
どんなオヤジなんだろう。
ちょっと見てみたい気もしたが、夜中まで起きてる根性は今日の俺にはなかった。
その夜、病院から電話が来ることはなかった。
はじめは落ち着かない様子だった安澄もそのうち気が抜けたみたいで、テレビのリモコン片手にソファでぼんやりしていた。
「俺、こんな時間まで起きてたことないなぁ」
アクビをしながらそんなことをつぶやいたのが10時半。
高校生が寝るにしてはずいぶん早い時間だと思うんだが。
「だって、家にいても一人だとやることないし」
それこそ思う存分バラエティー番組でも見て笑っていればいいのに。
俺ならきっと羽を伸ばしまくりだ。
「いつもは水沢先生や勇吾先輩もいるんだろ?」
「うん。でも、勇吾はいてもいなくても変わんないもんな。帰ってきてメシ食ったらトイレと風呂以外は部屋から一歩も出てこないし。憲政は家でも宿題やってるし」
「宿題??」
先生なのになんで、と思ったけど。
「テストの問題作ったり」
「ああ、そういうヤツな」
見た目も性格も体育会系だが一応数学教師だからな。
当然そんなこともあるだろう。
「忙しそうだからジャマできないしさ」
「その間、安澄は何やってんだ?」
「部屋でぼーっとしてる」
今日が特別ぼんやりしてるわけじゃないんだな。
ちょっと安心した。
「考え事してるのか?」
「うん」
宿題のこととか。
剣道のこととか。 中谷さんのこととか。
たまには俺んちのことなんかも考えたりするんだろうか。
聞きたいような、聞きたくないような。
「……安澄、いつもなに考えてるんだ?」
結局、口に出してしまうあたりが俺のバカなところだと思う。
質問の後、短い間があったけど。
「明之のこと」
安澄はそう答えた。
そんなにストレートな答えが返ってくるとは思わなくて、さすがにちょっと驚いた。
「……俺の……何?」
期待なんて。
絶対に。
しない。
自分に言い聞かせる冷静さは残っていたけど。
気持ちは勝手だ。
都合のいいことばかり次々と浮かんできた。
「ん〜……いろいろだよ。生徒会長で勉強もできて、剣道も空手も強くてトランペットが吹けて。優しくてカッコよくて。……なのに、なんで好きな子に好きだって言わないのかなって」
真っ直ぐ俺を見て、真面目な顔で尋ねる。
絶対に正直に答えられないようなことを聞いておいて、当たり前のように返事を待っていた。
本当に無邪気で天然で、思いっきり空気が読めないやつだ。
少し苦笑しながら、嘘にならない言葉を探した。
「振られるって分かってるからな」
自分の言葉で憂鬱になるなんて、バカもいいところだけど。
「なんで? 他に彼氏がいても、俺なら絶対明之と付き合うよ」
安澄が一生懸命慰めてくれるんだけど。
「……サンキュ。安澄が女の子だったら良かったな」
もしそうだったら、たとえまったく脈がなくても当たって砕けただろう。
「ふうん。そしたら、明之、俺を好きになったかな?」
「ああ。多分な」
絶対に現実にならない仮定の話なんて辛くなるだけなのに。
だったらよかったと本気で思っている自分に呆れた。
「もう寝ろよ。昨日もあんまり寝てないんだろ?」
疲れたのは自分なのかもしれない。
気遣ってやらなければいけない時なのに、余裕を持って話すことさえできそうになかった。
なのに、安澄ときたら。
「え? うん、でも、せっかく明之が来てくれたんだから、もうちょっと」
思わせぶりに感じてしまうような言葉をさらっと言って俺を見る。
一人じゃないことが嬉しいんだろうってことは分かったけど、俺の目には安澄もずいぶん疲れてるように映った。
「じゃあ、安澄の部屋でも見せてもらおうかな」
少しでも落ち着ける場所がいいだろうと思ってそう言った。
「いいよ〜。あ、でも、ちょっと散らかってる」
「男の部屋なんてそんなもんだろ」
「だよなー。恵実の部屋もあんまりきれいじゃなかったもんな」
案内されて足を踏み入れた安澄の部屋はリビングに負けないくらい殺風景だった。
家族の中では一番すっきりしているはずの俺の部屋が賑やかに感じられるほど。
「何にもないんだな」
勉強机とベッドとクローゼット。
脱ぎ散らかされた衣類とカバン。
「うん。あんまり部屋にいないから」
中学の時はどこで何をしていたんだろう。
ここに一人で座っていたんだろうか。
テレビも雑誌もゲームも何もない部屋で。
「座布団ないからそこに座ってて」
俺をベッドに座らせ、脱ぎ散らかした服を部屋の隅に追いやってから、自分も隣りに座った。
「明之、」
「ん?」
「今日、ありがと」
そう言った安澄はいつもの笑顔だった。
それだけのことに俺がどれだけホッとしたかなんて、気付くこともないだろうけど。
「そんくらいのこといつでも言えって」
俺の返事を聞きながら、コテンと俺の肩に頭をもたれさせて安澄が笑う。
「部屋に入ると眠くなるんだよな〜」
そんなことを言った一分後。
肩が急に重く感じられて。
そっと視線を移すと安澄はもう眠っていた。
安澄をベッドに寝かしつけ、自分は床に腰を下ろした。
ベッドにもたれかかったまま安澄の顔は普段以上に子供みたいだったけど。
「……なんだかな」
こんな時に魔が差してしまったらさすがにまずい。
安全策を取るなら帰るべきだと思って立ち上がりかけた。
でも、起きた時に一人きりになっていたら安澄はどう思うだろうって考えたら、結局それもできなかった。
「安澄、ごめん。一回だけ、な?」
答えるはずのない安澄に謝ってから、頬にそっとキスをした。
寝てる時にするなんて反則だけど。
「ごめん……やっぱ、もう一回だけ」
顔を近づけるとかすかに寝息がかかる。
そのやわらかな呼吸でさえ、愛しいと思った。
そっと唇を合わせて。
ゆっくり離れる。
ため息と。
軽いめまい。
これじゃ絶対寝られないと思ったけど。
自分が思っていた以上に疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めたときにはもうすっかり朝で。
俺はベッドの隣りに敷かれた布団の上にいた。
部屋はもう明るくなっていたけど、安澄はまだぐっすり眠っている。
音を立てないようにそっと下に降りていくと、やっぱり人の気配はなかったけど。
玄関に脱いであったスリッパを見て、オヤジさんが帰ってきてたことを知った。
何時に帰ってきて、何時に出ていったんだろう。
家族と顔を合わせない家庭がどんなものかってことを、俺もやっと実感した。
顔を洗って安澄の部屋に戻った。
ドアを開けたら、すぐ目の前に安澄が立っていた。
「おはよ、安澄。ちゃんと寝られたか?」
安澄からの返事はなかった。
「安澄?」
呼ばれてやっと瞬きをした。
「……いなくなったかと思った」
おまえを置いていくはずないだろって心の中で呟いて。
でも、違う返事をした。
「顔洗ってきただけだよ」
誰もいない家で目を覚ます。
一人で朝食を食べて出かけていく。
何年そんな生活をしてきたんだろう。
「オヤジさん、ずいぶん早く出かけるんだな」
「……うん。そうみたい」
安澄はその時、少しだけ俯いた。
「母さんが……入院なんてしてなければ、そんなに働かなくてもいいんだけどさ」
安澄は全て自分のせいって思っているんだろう。
自分が生まれて、母親が入院して。
だから、オヤジさんがこんなに働いて。
家族の顔も見られずに。
みんなバラバラになっていく。
何もかも全部自分が生まれたせいなんだ。
「安澄、」
呼んでは見たものの、なんて言ったらいいのかわからなかった。
のほほんとした家庭で苦労なく育った俺の言葉なんて、何の慰めにもならない気がした。
「……じゃあ、俺、家に戻るよ。安澄、ひとりで大丈夫か?」
「うん。大丈夫。ありがと」
安澄は午前中にもう一度病院に行くと言って支度をはじめたけど、布団を畳んでいる俺を見るとものすごく不思議そうな顔を向けた。
「明之、布団どこから出したの?」
「え?」
てっきり安澄が一度起きて用意してくれたんだと思ってたのに。
「目が覚めたら布団の上で寝てたんだ」
ってことは、オヤジさんが用意してくれたんだろう。
夜中に部屋に来て。
安澄の顔を見ながら寝てしまった俺を起さないように布団を敷いて。
「……オヤジさん、毎晩安澄の顔を見に来てるんだろうな」
昨日と同じように。
安澄がぐっすり眠ってるのを見て、安心してまた仕事に行くんだ。
「……そうなのかな」
俯いたままそうつぶやいた安澄はやっぱりどこか淋しそうだった。
「そんな感じだった」
家に帰って姉貴とおふくろに安澄の様子を報告した。
味噌汁をお椀に注ぎながら二人して涙ぐんでいた。
恵実とオヤジは稽古でいなかったけど、いたら4人で泣いてたかもしれない。
「ね、明之。大丈夫そうだったら、今日、安澄ちゃん連れてきなさいね?」
姉貴が涙を溜めたままで言うんだけど。
「今日はデートの約束してたはずだよ」
「あら、そうなの? でも、その後でもいいから……ね?」
おふくろはまたしてもご馳走を作ろうなんて思っているらしい。
いきなり冷蔵庫の中味をチェックしはじめた。
昨日の夜もメシだけは普通に食ってたもんな。
安澄を励ますにはそれが一番なんだろう。
「じゃあ、言うだけ言ってみるよ」
少しは元気になってるといいけど。
病院で泣いていた安澄がまだ頭に残っていて、思い出すたびに俺の気持ちまで沈んでいくようだった。
朝飯の後、安澄に電話をしたら、あまりにも簡単にOKの返事があった。
『うん。行くよ。母さん、もう大丈夫だから』
よかったな、って言ったものの。
「って、おまえ、今日、デートじゃなかったのか?」
『うん。そうだけど』
そうだけど?
『……なんか、そんな気分じゃなくって』
容態がいくらか落ち着いても、やっぱり手放しでは喜べないってことなんだろう。
彼女の前じゃ、泣くのはもちろんボンヤリしたりもできないだろうしな。
『中谷さん、きっと気を遣うから……なんとなく悪いだろ? だから、今日はやめにしたんだ』
簡単に事情説明をするため、昼過ぎに学校で会うことになっているらしい。
「……そっか」
『だから、明之んちに行くよ』
明るい声に安堵して、俺も笑顔になった。
「わかった。俺も午後は自主練あるから―――」
帰りは一緒にって言おうとしたけど。
それを察したのか、安澄が慌てて言葉を足した。
『あ、あのさ。でも、明之とは別々に帰ってもいい?』
思いもしなかった発言にちょっと慌ててしまった。
「なんでだよ?」
安澄は困ったように「ごめんね」と言った。
『……中谷さん、気にするといけないから』
そんな言葉にまた軽いショックを受ける。
少しずつだけど安澄はちゃんと成長している。
一人でちゃんと大人になっていくんだなと思ったら、なんだか寂しい気持ちになった。
『ダメ……かな?』
「いや、いいよ。じゃあ、適当な時間にうちに来いよ。俺が帰ってなくても上がって先におやつ食ってろよ? お袋も姉貴も待ってるから」
『うん』
まだ少し元気はないような気がしたけど。
まあ、これなら心配することはないだろう。
電話の向こうは多分いつもの笑顔。
もちろん俺との間に微妙な線はまだ引かれたままだ。
「安澄、」
頭を過ぎった言葉は自分でも予想外のものだった。
――――俺、おまえに必要か?
聞こうとして、けど。
聞けなくて。
やっぱり違う言葉を口にする。
「……気をつけて帰って来いよ」
『うん』
おふくろさんのことも中谷さんのことも安澄は真剣に考えている。
安堵と同時に罪悪感が募った。
夕べ自分がしたことを思い出したからだ。
安澄の気持ちなんて考えずに自分のためだけにした、ルール違反のキス。
「……まったく何やってんだよ」
大丈夫じゃないのは俺のほうかもしれない。
電話を切ってからそっとため息をついた。
|