氷が揺れるグラスの中を見つめたまま黙り込んでいると、エロオヤジが席を立った。
「この季節はいいね。いろいろなことを思い出すよ」
遠慮なく全開にされた窓から夏らしい熱気が流れ込んでくる。
「ああ。噂をすれば、だね」
ニヤニヤ顔に促されて俺も席を立った。
窓から見下ろすとなんだかものすごい勢いで安澄がこちらに向かっていた。
彼女との待ち合わせに遅れそうとか、そんな感じだろうと予想したが、どうやら外れだったらしい。
土足のままここにに続く通路に入った数秒後、一つ飛ばしに階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
「お迎えのようだね」
言い終わらないうちにドアは開いた。
「明之、帰ろっ!!」
俺の存在を確かめることもせず、いきなり大声で叫んだ。
「ここ土足厳禁だぞ。っていうか、なんでここにいるって分かったんだ?」
「一緒に帰ろうと思ってクラブハウス行ったら、明之が副理事長室に連れ込まれたって噂になってた」
なんの話をしてるんだよ。
……まあ、間違ってはいないんだけど。
「ちょっと語り合おうかと思ってね。安澄くんもコーヒー飲むでしょう?」
たとえば相手が水沢先生なら、噂になんてならないだろう。
やっぱりコイツの日頃の行いが悪すぎるんだな。
「ううん、もう帰るから」
そう言いかけたくせに副理事長が菓子の袋を取り出したら、簡単に態度を変えた。
「じゃあ、少しだけ。いただきます」
「安澄、おまえな……」
俺を心配してた来たわりには全くコイツを警戒してないんだよな。
あるいは警戒心より食い気が勝ってるだけなのか。
「お母さんのご容態は? もういいの?」
エロオヤジが真面目な顔で聞いたせいか、安澄は一旦おやつを置くと、らしくないほど丁寧な礼を述べた。
「もう大丈夫です。いろいろありがとうございました」
エロオヤジもいつになく教師らしい雰囲気を漂わせて穏やかに頷く。
「そう、よかったね。……泗水も、もう一杯どう?」
断わろうと思ってたのに、安澄がすかさず俺のグラスを差し出した。
性格はのほほんとしてるくせに、こういう時だけはやけに素早い。
窓が開いているせいで、冷たいものがいっそうおいしそうに見えるんだよな、なんてどうでもいいことを考えている途中でハッとした。
そう言えば旧体育館裏で告白されていた中谷さんはどうしただろう。
血相を変えてここに駆け込む安澄の姿を目撃していなければいいけど。
「あ、俺、これがいい。すっごい美味いんだよなー」
楽しそうに菓子を選ぶ安澄を見てると、真面目に心配するのがバカらしくなった。
ついでにさっきエロオヤジから聞いたことも全部きれいに吹っ飛んだ。
……そうだよな。
あんなの、きっと半分はコイツの作り話なんだろう。
「安澄、」
それでもやっぱりちょっと気になったから、家に帰ってそれとなく確かめようと思ったんだけど。
「帰ったら、明之んちでまたおやつ〜」
こんな無邪気な安澄に対してキスの話を蒸し返すことなどできそうにない俺だった。
エロオヤジと話した後、気持ちは少しだけ軽くなったけど、やっぱり安澄には何も聞けず。
ささいなことに一喜一憂しながら、半煮えの日々を続けていた。
こんなにボーッとしているのに、なぜか頻繁に女の子に呼び出されて。
告られて。
断わって。
たまには泣かれたりもして。
余計に滅入ってしまうという最悪の日々。
安澄は安澄でイマイチぼんやり気味で、前に比べると口数も減った気がした。
「はぁ……」
本人は気付いていないだろうけど、こんなふうに溜め息をつくのもしょっちゅうで。
なのに。
「安澄、悩み事か?」
「ううん、別にー」
相変わらず俺には言いたくないようだった。
部活中にそんなことを思い出して憂鬱になっていたら、
「泗水、愛しの安澄ちゃん、最近どうよ?」
同じクラスのヤツにいきなりそんなことを聞かれた。
「どうって。別に普通」
ホントは普通じゃないけど。
そこには突っ込まれたくなかったから、大嘘ついて適当に流した。
「なら、いいんだけどな」
口調が大変意味ありげな感じだったので、問いつめてみると不穏な噂が。
「振られそうだってホントかなって思ってさ。昨日も中谷さん、他の男と楽しそうに歩いてたし」
「え? 他の男??」
「うん。三年の先輩。この噂ももうけっこう広まってるし」
俺は初めて聞いたぞ。
「付き合ってるってわけじゃないんだろ?」
俺の希望的観測。
けど、安澄のため息がそのせいだとしたら、時期的にもぴったりだ。
「よくわかんねーけど。ちょっとアヤシイ雰囲気ってゆーか、相手が結構一途で強引な感じらしくて、中谷さんもまんざらでもなさそうだって言ってたヤツもいたんだよな」
そしたら安澄はどうなるんだよ。
中谷さんに聞いてみないと。
でも、俺に聞かれるのって大きなお世話か……。
じゃあ、安澄に?
でも、実は安澄がまだそれを知らなかったら?
俺からそれを聞くのはショックじゃないだろうか?
頭の中をいろんなことが回っていったけど、どんなに考えてもなんの結論も出なかった。
「泗水、大丈夫か? なんか顔色悪くなったぞ。おまえが落ち込んでどうすんだよ?」
もし、このまま安澄が振られたら、側にいて慰めてやらないと。
「泗水〜?」
それもなんだか嬉しいような、辛いような。
「……ああ、大丈夫だって……」
「ぜんぜん大丈夫じゃない顔で言うなよなぁ」
それよりも。
中谷さんと上手くいかなかったことが俺のせいだったりしたら、顔も見たくないだろう。
「泗水、おまえ心配し過ぎだぞ?」
「そんなことないだろ」
安澄にとってはきっと初めての失恋だ。
俺が慰めたくらいじゃどうにもならないかもしれないし。
「だいたいおまえの安澄ちゃん、お子ちゃまだしさ。上手くいくはずなかったって」
みんなそう思ってるんだろうな。
なんだか安澄が可哀想で、もっと憂鬱になってしまった。
そして、数日後。
噂は本当になった。
俺がそれを知ったのは安澄が振られた翌日の昼休みで。
しかも、例によってクラスの連中から聞いた。
「え……それっていつだよ?」
「昨日の放課後」
昨日は中谷さんとのデートの日だ。
俺は先に帰ったし、安澄もうちにはこなかった。
聞いてなくても当たり前だけど。
やっぱりショックを受けた。
振られた時くらい、真っ先に俺のところに来てくれるんじゃないかと思ってたのに。
「理由は?」
「そこまでは分からないけど。知りたいなら本人に聞いてみればいいじゃん。仲いいんだし」
その言葉に頷いた後、俺が向かったのは隣りの教室。
本人に聞いてみろって……安澄に聞けってことだよなと思ったのは、中谷さんの顔を見た瞬間。
もう手遅れだけど。
「話って安澄くんのこと?」
「うん。振ったんだって?」
実際、俺は気が動転していて、本当に申し訳ないくらいストレートに聞いてしまっていた。
「それって安澄くんから聞いたの?」
普通なら大きなお世話だと怒りそうなものだけど。
中谷さんはむしろスッキリした顔で微笑んでいた。
「いや。安澄には昨日から会ってなくて……さっきクラスの連中から」
一年の教室は隣りの校舎。
だからと言ってものすごく遠いわけでもない。
なのに、なぜか聞きにいくことができなかった。
「保護者だもんね、泗水くんは」
中谷さんにそう言われて、やっと少し頭が冷えた。
「それで理由を聞きにきたんだ?」
「え? あ、まあ、そうだけど……」
振られた時の安澄の様子が知りたかった。
落ち込んでたとか、泣いてたとか、怒ってたとか。
どれも想像したくはなかったけれど。
「……安澄くんに、『好き』って言い続けるの疲れちゃったんだ」
少し申し訳なさそうに俯きながら中谷さんは言葉を続けた。
「そんな時に逆に好きって言ってもらったのが嬉しくて、気が変わっちゃったの。勝手だなって自分でも思ったけど」
安澄を嫌いになったわけじゃない。
だけど「ごめんね」と告げた。
「それだけ」
『それだけ』……って。
そんなに簡単に変われるものなんだろうか。
「で、安澄は何て?」
キツイ口調になりそうなのを辛うじて押さえて様子を尋ねた。
その質問を聞いた時、それまで曖昧な笑みを浮かべていた中谷さんが不意に淋しそうな表情になった。
「……『ずっといい友達でいようね』って」
それは本当に安澄らしい返事で、中谷さんが淋しそうな顔をする理由はわからなかった。
けど。
「私、安澄君にとってはきっと彼女なんかじゃなくて、今までもずっと『いい友達』だったんだろうなって思っちゃったんだ」
告白して、ぎこちないながらも「うん」と言ってもらって。
少しずつ仲良くなっていければいいって思っていたのに。
何度『好きだ』って言っても安澄の態度が変わらないから。
中谷さんはきっと途中で諦めてしまったんだ。
「安澄は……そんなつもりで言ったんじゃないと思うけどな」
少なくとも中谷さんのことは特別だったはず。
だって安澄の生まれて初めての彼女なんだから。
「やだなぁ、泗水くん。ホントにそう思ってる?」
本当にそう思ってたけど。
あらためて突っ込まれると、急に自信がなくなった。
固まってしまった俺に中谷さんはニッコリと笑いかけて、
「そういうことなの。……振られたの、私だと思わない?」
そんなことを言った。
「いや、そんなことはないと思うけど」
できることなら、昨日のうちに安澄に会って直接聞きたかった。
うまく慰められなかったとしても、話し相手くらいにはなれたかもしれないのに。
無意識の溜め息を途中で遮ったのは中谷さんの落ち着いた声。
「ねえ、泗水くん」
「……ん、なに?」
首を傾げたまま俺を見上げている中谷さんは安澄が言うようにとても可愛かった。
「安澄くんのこと、よろしくね」
「え? ああ……」
気持ちがあっちこっちに飛んでいて、その言葉もまっすぐには入ってこなかったけど。
「泗水くんなら、安澄くんに無理に好きだって言わなくてもいいと思うんだ」
気がついたら、そんなことを言われていて。
「……え?」
これっていうのは。
「だって、気持ちがちゃんと通じているならそれでいいと思わない?」
俺の気持ちを知ってるってことだよな。
「今まで泗水君に心配してもらった分、応援するから」
その笑顔を見て、女の子には勝てないなと思った。
「……いつ気付いた?」
中谷さんはいたずらっぽくペロッと舌を出した。
「実はけっこう前なんだ。ごめんね」
女の子は恋愛に敏感だ。
俺も安澄を鈍いなんて言える立場じゃないな。
「俺こそ、ごめん」
気付いていたなら、それこそ不愉快に思うこともあっただろう。
それでも。
「じゃあ、安澄くんによろしくね」
中谷さんはふふっと笑って俺に手を振った。
笑顔がやっぱり可愛くて。
だから、新しい彼氏とはきっとうまくいくだろうって。
そう思った。
「とにかく……」
まず安澄を慰めるんだろうな。
それとも何かうまいものでもおごってやった方が……
午後の授業の間ずっと、俺は俺なりに悩んだんだけど。
「あっきゆき〜」
夕方、安澄は全くいつものように俺の教室に顔を出した。
予想に反して落ち込んでいる気配はカケラもなかった。
ある意味それは中谷さんに失礼じゃないんだろうか。
「帰ろ〜」
まだ教室に残っていた水沢先生が後ろに回り込んで安澄の頭を引っぱたいた。
「明日が休みだからって泗水の家に泊まるなよ?」
「わかってるけどさ。でも、おばさんに泊まってって言われると、泊まった方がいいような気がするんだよな〜」
「人のせいにするな。普通は遠慮するもんだ」
こういう時はすっかり兄貴の顔で安澄を咎める先生がなんだかおかしい。
「いいんです、水沢先生。俺んちのおふくろ、安澄が帰ると淋しがっちゃって大変だから。良かったら先生も今度泊まりにきてください」
言ったとたんに先生の顔が赤くなった。
忘れてたけど、うちには姉貴がいるんだもんな。
さすがに赤くもなるか。
まったく、いい年して先生も純情なんだから。
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