いつものように安澄と二人の帰り道。
「憲政だって、今日は剣道部の合宿じゃん。なんで俺にだけ外泊はダメって言うんだ?」
大声で不満を並べながら自転車を走らせる。
先生は俺んちに気を遣ってるだけで、外泊そのものを否定しているわけじゃないんだけど、今ひとつ常識というものを身につけていない安澄にはその辺りが分からないんだろう。
でも、まあ、先生が本気で姉貴を好きなら、一緒にうちに泊まっておふくろの料理でも褒めて、外堀から埋めていった方が格段に効果はあると思うんだけど。
「それよりな、安澄」
自宅の門をくぐり、屋根つきの駐輪スペースに自転車を収納しながら今日の本題に入る。
すでに概要は教えてもらった後だけど、こういうことはやっぱり本人の口から聞いておかないと、俺もあとあと話題にしにくい。
「中谷さんと別れたんだって?」
あまりショックでもなさそうなのをいいことにストレートに尋ねた。
安澄からの返事もすごく簡単で。
「うん。振られた。他に好きな人ができたって」
それだけだった。
何て返したらいいのかわからなくなるほどあっけない。
「そっか……残念だったな」
「うん」
間の抜けた会話だなと思いながらも一人で頷いていたら、不意に安澄がポツリと付け足した。
「でも、なんかホッとした」
意外な言葉のようでそうでもないような、少し不思議な感じで。
俺が「なんでだよ」と聞き返す前に、安澄はスッキリした顔で笑った。
「無理に時間作って会ったり、他の女の子と話して怒られたりするのも、いつまで経っても慣れなくてさ。だから、俺にはちょっと無理なのかなって思ってた」
多分そうなんだろうけど。
安澄がそんなふうに感じていたってことが意外だった。
まあ、なんにしても、落ち込んでなさそうで良かったけど。
俺がホッとした瞬間。
「それにさ、」
さっきまで笑ってたくせに、今度は急にふくれ面になった。
「中谷さんの友達、俺と明之が仲良すぎるとか言うんだよ」
それについてはちょっとヤバイと思った。
彼女と別れたあとだって、同じようなことを言うヤツはいるだろう。
俺のクラスのヤツとか、部のヤツとか生徒会のヤツとか。
他にもいろいろ。
「仲なんていい方がいいだろ? なのにさ、わざわざそんなこと言うんだ。良過ぎたらダメなんてことないよな?」
俺に答えて欲しそうなんだけど。
どう説明したらいいのか本当にわからない。
「そんなこと、ない……と、思うけどな」
結局、ものすごく曖昧な返事になってしまった。
「だよなぁ?」
安澄が流してくれたから、そこで終わったけど。
また誰かに同じことを言われてもう一度聞かれるかもしれない。
そのときまでにはちゃんと答えを用意しておこう。
密かにそんな決心をしたのだった。
家に着くと安澄は思いっきり元気良くドアを開けた。
「こんにちは〜」
自分が昨日ふられたばかりってことはもう忘れたらしい。
……まあ、落ち込まれるよりはずっといいけど。
「おばさん、俺、手伝うよ」
いきなり台所に立っておやつのための皿を出す。
それもすでに見慣れた光景だ。
「明之、どっちがいい?」
安澄の手に肉まんとたこ焼き。
「別にどっちでも」
「じゃあ、肉まん1個ずつとたこ焼き〜」
「遠慮しなくていいからいっぱい食べてね?」
おふくろも安澄が来るといつもの二倍は楽しそうだ。
俺も恵実も出されたものを黙って食うだけだから、どうせ持つならこういう息子がよかったんだろう。
「あれ、今日はおばさんだけ? あ、そっか。恵実は合宿だっけ。陽子さんは?」
「出かけてるわよ。安澄ちゃんにアイス買ってくるって」
「うっわ〜、すっげー。楽しみ」
アイスなんて学校帰りにいくらでも買えるのに。
おおげさなほど喜んだあと、安澄は俺の部屋にカバンを置きにいこうとしたけど。
「明之の部屋、さっきお掃除したばっかりだからまだ埃っぽいわよ。おやつ食べてからにしなさい」
「はーい!」
まるっきり子供みたいな返事におふくろが笑う。
「おまえ、元気良過ぎ」
「うちだと誰も話しかけてくれないからさ」
何気ない言葉。だが、安澄の家の事情を知ってしまった今は重く感じた。
唯一の話し相手である先生も今日は合宿の付き添いで留守だ。
自宅に帰っても一人でテレビを見るだけだろう。
そんなことを考えながらぼんやり突っ立っていた俺のカバンを取り上げて、部屋の隅に置いてから、安澄はレンジから肉まんを取り出した。
「食べよ、明之」
「明之も安澄くんを見習って、帰ったらすぐ手を洗ってね?」
このまま食っても腹なんか壊さないと思うんだけど。
手を洗うより、おふくろの小言を聞く方が面倒だから、黙ってそれに従った。
俺が手を洗って戻ってくる間に安澄は自分の分を食い終えていた。
相変わらず食うのが早いなと思いながら一口目を味わおうとした瞬間、安澄が横から俺の肉まんにかじりつく。
「やめろ、中味がこぼれるだろ?」
「お腹空いてるならすぐご飯にするわよ?」
俺とおふくろが叫んだのは同時だったけど。
安澄はおふくろに返事をした。
「ううん、明之が食べてるやつがおいしそうだったから」
「おまえが食ったヤツと同じ味に決まってるだろ??」
俺が何を言っても、安澄は聞いてない。
「おいし〜」
にっこり笑って、勝手に半分ちぎって持っていった。
「人のを取るな」
ああ、もう。
なんでいつまで経ってもこうなんだよ。
手の中に残った半分を口の中に押し込んでいると、後ろから姉貴の声が響いた。
「やぁね、あんたたち子供すぎるわよ。食べたかったらもっとチンすればいいでしょ?」
高校生にもなってと言いながら呆れる姉貴に、安澄はまってましたとばかりに満面の笑みを向けた。
「陽子さん、おかえりなさい」
肉まんの切れ端をぎゅうっと全部口に詰め込んで、レジ袋の中を覗き込む。
「アイスはあとでね。慌てて食べてお腹壊しちゃったら困るから」
「ぜんぜん大丈夫だよ。な、明之」
口の中のものは飲み込んでからしゃべれって。
誰にも構われずに育ったせいか、安澄はちょっと行儀が悪い。
もっとも、おふくろに言わせると「そこが男の子らしくて可愛いんじゃない?」ってことなんだが。
「心配しなくても安澄は食い物で腹なんか壊さないよ。で、俺にはアイスないわけ?」
袋ごとすべて冷凍庫にしまっているということは、中身は全部アイスなんだろうけど。
「ちゃんとあるわよ。あたしが実の弟を差別すると思う?」
「思うよ」
まったく無視することはなくても待遇差くらいはあたりまえのようにつけるだろう。
俺の読みは大当たりで、姉貴はよくできましたと言わんばかりに大きく頷いた。
「いろいろ買ってきたけど、安澄ちゃんが一番最初に好きなの選んでいいからね?」
どうでもいいけど、安澄を撫で回すのはやめろよな。
もうカンペキに近所のおばちゃん状態だ。
なのに。
「陽子さん、大好き」
安澄は懐きまくりで。
「ったく、食い物で釣ってんなよ」
「やぁね、人聞きの悪い。明之ってホント可愛くないんだから。それとも機嫌悪いの?」
そうかもしれないと思ったのは、その言葉がさっくりどこかに突き刺さったからだ。
安澄は中谷さんと別れたけど、だからって俺との間が変わるわけじゃない。
目の前の光景がイヤでもそう思わせる。
「いいじゃん、明之はカッコいいんだから」
「安澄ちゃん、趣味悪いわよ」
「そんなことないって。だって、明之、ここのところ毎日女の子に好きだって言われてるんだよ? どう思う?」
安澄はそんなどうでもいいようなことでムキになってた。
姉貴の返事はいつもと同じ。
「世の中って何かが間違ってるのよ。ね、お母さん」
同意を求められたおふくろの返事もいつもと同じ。
「不景気になるといろいろあって嫌ねぇ」
「……関係ねーよ」
ズレまくっててぜんぜん会話になってないんだけど。
安澄が楽しそうだから、放っておいた。
このままずっと楽しくやっていかれたらいい。
俺が願えることなんてそれくらいだ。
翌日、そんなことを考えながら部室に向かっていたはずなのに。
何故かまた副理事長室にいた。
うっかり近道をしたのがまずかったんだ。
途中で掴まり、また引き摺り込まれた。
「泗水は何がいい? 麦茶? アイスコーヒー? アイスティーもあるよ?」
「お茶飲みに来たつもりはないんで」
ケンカ腰ってほどでもないけど、ちょっと冷たい口調になった。
懐くつもりはないという意思表示のつもりだ。
「安澄くん、思ったより元気そうで良かったね。ま、泗水も頑張って」
一人でしゃべって、一人でニヤニヤ笑う。
教師がこんなではまずいだろうと思うんだが、どういうわけか生徒にはそこそこ人気があるから不思議だ。
「どうせもいいですけど、安澄には変なことを吹き込まないようにしてください」
予防線だけは張っておかないと。
返答しにくいことを突然聞かれるような事態になっても困る。
「うん、大丈夫、大丈夫。必要最低限のことしか教えてないから」
言葉の端々から溢れ出る不穏な空気。
目の前には慈愛に見せかけた悪魔の笑顔。
「それって、もう何か吹き込んだってことですか?」
必要最低限って、何をどこまでだ?
「そういうことはね、僕じゃなくて安澄くんに聞いてごらん。『先生にいいこと教えてもらったんだって?』って聞けば、すぐに答えてくれると思うよ?」
素直だからね、なんて笑ってんじゃねーよ。
「もしかして疑ってるのかな? 大丈夫。僕が保証するから、さらっと聞いてごらんよ」
……オマエに保証されても。
「でも、本当にちょっとしか教えてないから、その先は泗水次第だけどね」
だから。
“その先”って、どの先だよ。
「ですから、まず、安澄に何を言ったかを……」
焦らさずに教えて欲しいんだけど。
っていうか、コイツはイライラする顔を見て楽しむために俺を拉致したんだな。
「すぐに安澄くんも来るだろうから、ここで聞いてみたら?」
なんで安澄がこんな中途半端な時間にこんなところに来るんだよ。
って、思ったんだけど。
エロオヤジの言った通り、安澄は間もなく副理事長室に現れた。
「帰ろう、明之」
しかも、第一声がこれだ。
またしても俺を迎えに来たらしい。
「なんで俺の入るところが分かるんだ?」
安澄なら「匂いがしたから」とか言いそうだって思ったけど。
さすがにそんなことはなかった。
「朝、先生に言われた。放課後、明之を迎えにおいでって」
この場合の「先生」はエロオヤジのことなんだろう。
だとすると―――
「僕はね、予知能力があるんだよ」
「……嘘つかないでください」
最初から俺を捕獲する気満々だったんだな。
「俺、副理事長の茶飲み友達じゃないんですけど」
「いやぁ、いろいろ分かち合えることもあるんじゃないかと思ってね。わからないことがあったら、なんでも聞いてくれていいよ、泗水」
お兄さんだと思っていいから、などと言いつつ浮かべるエロエロ笑いが怖い。
妙な話をされる前にさっさと家に帰ろう。
「ごちそうさまでした。帰るぞ、安澄」
カバンを抱えて席を立つ。
「じゃあね、先生〜。これから英語の宿題なんだ」
安澄はおやつの誘惑に負けることなく、エロオヤジに右手を振った。
左手はしっかりと俺のシャツを掴んでいる。
部屋を出る時、「頑張ってね」という笑いを含んだ声がかすかに聞こえた。
アニメの歌を口ずさみながら自転車置き場に向かう。
安澄は終始笑顔だった。
中谷さんに振られたことなんて、もうすっかり忘れたみたいに。
「今日のおやつ何かな? 当てっこして英文日記の宿題賭けていい?」
成績はずいぶんと上がったのに、それでもまだ苦手意識があるらしい。
英語で日記を書いてそれについての質問と回答を3つ作るだけの簡単な宿題をいつも本当にイヤそうにやっていた。
「いいけど。俺が勝ったら何してもらえるんだ?」
うちのおやつについては安澄の方が詳しいだろうけど。
負けたところで15分もあれば終わる宿題だ。
「なんでもいいよ。明之の好きなこと」
軽い気持ちで「なんでも」なんて。
「……そんなこと言って俺を困らせるなよな」
希望はいっぱいあったけど。
どれも口には出せないのに。
「なんで明之が困るんだよ?? 何でもいいって言ってるのに」
ため息を飲み込んで、しばらく考えてから口を開いた。
「じゃあ、さ」
キスしてなんて言えないけど。
「土曜に俺とデートでどう?」
そんな誘いを安澄はどう受け留めるだろうって。
少し不安にもなったんだけど。
返事はやっぱり簡単で。
「え〜? マジ? どこ行く??」
言葉の意味合いなど全くどうでもよかったらしい。
「俺が賭けに勝ったらだって」
「俺が勝ってもそれがいいなぁ」
「それじゃ賭けになんないだろ?」
「いいじゃん、別に〜」
安澄がそんなことを言うから、賭けは流れた。
家に着くと安澄は姉貴とおふくろに挨拶をしながら階段を駆け上がった。
「安澄ちゃん、おやつは?」
「宿題してから取りにいく〜!!」
二人で部屋に駆け込んで週末の予定を立てる。
テレビで週間天気予報をチェックして。
「天気はバッチリ。やっぱ、遊園地行かねー?」
「野郎二人でなんて行ったら、ナンパしにきたと思われるぞ?」
「大丈夫だよ。前も平気だったじゃん」
安澄との最初のデート。
まだそんなに経ってないのになんだか懐かしい気がした。
「けど、断わるの面倒だろ?」
「じゃあ、兄貴連れてく? 車出してくれるし。陽子さんも誘って」
「そうだなぁ……」
俺は安澄と二人がいいけど。
「あ、じゃあ、川行こうよ。川。水遊びできるとこ」
「安澄、水に入りたいだけじゃないのか?」
「えへへ、当たり。まだ暑いからさ〜」
俺も安澄も学校に通うだけですっかり日焼けしてるのに。
その上、水遊びじゃ本当に真っ黒になってしまうだろう。
もうすぐ秋だぞ……って思うけど。
「いいよ、遊園地でも川でも安澄の好きなところで」
「うわ〜、すっげー、たっのしみぃ〜!!」
大はしゃぎしながら、地図を広げて考え込んでいる俺の背中に当然のように抱きつく。
少しでも振り返ろうとすると安澄の笑顔とぶつかりそうになるもんだから、うかつに首も動かせない。
「わくわくしてきた」
八重歯も笑顔も相変わらずで。
ちょっとため息をついたけど。
「……まあ、いいか」
「じゃあ、川〜。く〜っ、楽しい!!」
「そんなに遠くはダメだぞ、安澄」
笑顔のまま俺に抱き付いた腕に力がこもった。
頬に当たる唇が笑い声でつぶやく。
「おやついっぱい持っていこう〜っと」
背中から抱き付かれたまま後ろに手を伸ばして安澄の髪を撫でる。
地図を見るフリをしながら、手は無意識に安澄の頬に触れる。
柔らかくて、温かい。
このまま振り向いて抱き締めてしまいたいって。
気持ちが暴走しそうになる直前。
「な〜、明之、」
安澄ののんきな声で我に返った。
「なんか、眠くなってきた」
「……はしゃぎ過ぎだろ」
思わず苦笑して少しだけ振り返ると、安澄は俺の肩に顎を乗せたまま眠そうに瞬きをしていた。
「寝てもいいぞ。夕飯になったら起こすから」
まあ、安澄だからこんなもんだろうって。
思った時。
「明之、」
眠そうだった目が、何かを思いついたようにパッチリと開かれた。
「なんだ?」
「今日、泊まってもいい?」
唐突に聞かれて、俺はちょっと慌ててしまった。
「え?……ああ、いいけど。先生に止められてなかったか?」
「そうだけど。いいよ。憲政の言うことなんて守んなくても。……じゃあ、おやつ食べたらちょっと寝る〜。それまでに行き先決めよ〜っと」
そう言いながら俺の背中を離れて楽しそうに地図の前に戻った。
「安澄、宿題やんなくていいのか?」
けど。
呼びかけた時にはすでに机に突っ伏して寝息を立てていた。
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