卓巳くんが用意してくれたお粥をたくさん食べた。
けれど、そのあと、俺は卓巳くんと口を利かなかった。
「ガクちゃん? 具合悪い?」
あまりにも心配そうなので俺は首を振った。
「じゃあ、怒ってるんだ?」
何も答えなかった。
怒ってるんだろうか。
自分の気持ちがわからなくて悩む俺の複雑な心境など卓巳くんはお構いナシだった。
「じゃあ、ヤキモチ? だったら、嬉しいけどなあ」
パコンと卓巳くんの脳天を引っぱたいた。
卓巳くんは笑って俺を抱き締めた。
「俺、ガクちゃんが好きだよ」
頬をスリスリしたあと、キスをした。
「カゼ、うつるよ」
「いいよ。ガクちゃんのカゼなら、うつっても」
「そしたら増田さんにもうつるかもしれないよ」
俺はまだこだわっていた。
増田さんのこと。
抱き合っていたこと。
卓巳くんが気持ちよさそうだったこと。
「増田にはうつんないよ」
「キスしたら、うつる」
「キスはガクちゃんとしかしないから、他の人にはうつんないよ」
「だから、おやすみ」と言って電気を消した。
他の人と寝た後で、そんなことを言う卓巳くんはちょっと信じられなかった。
本当は俺の事なんて好きじゃないんだという気がした。
けど、増田さんに取られるのは嫌だった。
どうしても嫌だった。
卓巳くんはベッドの下に自分の布団を敷いて、ずっと看病してくれた。
そんなにダルくはなかったけれど、卓巳くんに甘えたくて具合が悪いフリを続けた。
子供の頃もそうだったなと思いながら。
カゼはすぐに治った。
だから図書館で増田さんに会うまでカゼを引いていたことを忘れていた。
「岳登くん、カゼもういいの?」
そう言いながら、俺のすぐ近くに座った。
「……あ……はい。もう、ぜんぜん……」
なぜか口篭もる。
あの日のことを嫌でも思い出してしまう。
また嫉妬心。
顔に出そうになるのを慌てて飲みこんだ。
……増田さんは卓巳くんをどう思っているんだろう。
本当に身体だけなんてこと、あるんだろうか。
「卓巳、元気?」
「え? あ、卓巳くんにはカゼはうつりませんでしたけど」
増田さんが困ったように笑った。
「やっぱり聞いてないんだな。卓巳と別れたこと」
「あ……?」
ぜんぜん知らなかった。
そんなことは一言も言っていなかったし、変わったところもなかった。
「すみません、俺、何も……」
「いいって。もともとそんな深刻な仲じゃないんだ。それより、卓巳はいちゃいちゃ看病してくれた?」
「まあ、過保護気味なので……」
「『あ〜んして』とかやっちゃうの? それとも口移し?」
「いえ、そういうことは……」
熱いからといってフウフウしてから食べさせてはくれたけど……。
「カゼ引いててもお休みのキスとかすんの?」
増田さんはあっけらかんと楽しそうにオヤジな質問をしてきた。
「……卓巳くんは、キス魔なので……」
子供の頃は「ママのキス」「パパのキス」から始まって、「卓巳くんのキス」が終わるまでそりゃあもう何度もおやすみのキスをされた。
途中で寝ちゃって起こされたこともあったっけ。
「やっぱ、そっかぁ。岳登くんにはするのか」
増田さんはゆっくりと席を立って去りぎわに言った。
「勝てないわけだな」
増田さんの笑顔は少し淋しそうに見えた。
ああ、やっぱり、そうなんだと思った。
胸が痛かった。
卓巳くんは増田さんの本当の気持ちを知らなかったんだろうか。
学食で卓巳くんが待っていた。
なぜか卓巳くんは、『カゼも治ったし、二人で出かけよう』と言って聞かないのだ。
しかもそんな打ち合せは家でやればいいのに、わざわざ学食でしようと言った。
「で、どこ行くつもりなの?」
「ガクちゃん、楽しそうじゃないね」
「……楽しいけど、家で話そうよ」
外なのに、ガクちゃん呼ばわりだし。
ぺたぺたくっつくし。
俺のミートソースにタバスコと粉チーズ。
思いっきり振りかけているところに、卓巳くんの友達が押し寄せてきた。
増田さんもいた。
「ホントだぁ、卓巳が粉チーズかけてる」
「そりゃあ、フラレるわけだよねえ、増田ぁ」
「なんだよ、おまえらまでついてきて。あっち行ってろ」
卓巳くんがムッとしている。
やっぱり外ではちょっと無愛想かも。
「いいじゃない。紹介してよ、卓巳。この子が噂の幼なじみクンなんでしょう?」
「いいから、さっさとどっか行けよ。レポート見せてやらないからな」
言葉遣いもいつもとちょっと違う。
卓巳くんてば、2重人格?
「はいはい。にしても、卓巳、過保護だよぉ? こんなになんでもしてあげちゃったら、一人で生きていけなくなっちゃうんじゃない?」
「いいんだよ。岳登には俺が一生世話焼いてやるんだから」
卓巳くんは真面目な顔でそう言った。
増田さんも友達も「やられた」なんて笑っている。
「卓巳って一途なんだなあ。初恋で初キスで14年間片思いって、あながち冗談でもないんだ?」
「いいから、邪魔するな」
面白がっている友人達に思い切り迷惑そうな顔を向けて立ち上がった。
卓巳くんに怒られると思ったのか、女の子たちがちょっと後ずさった。
「卓巳、振られたらいつでも私に言ってね〜」
「ずるい。カナったら抜け駆け」
「心配しなくても卓巳はおまえらの彼氏になんかならねーよ。俺が振られたくらいなんだからな」
そうだ。増田さんだって、俺なんかよりずっとカッコいいのに。
「あたし、増田よりイケてると思うけど?」
そう言ったのは、この間、卓巳くんに告っていた女の子だ。
「け、勝手にほざいてろ。じゃ、卓巳、ゼミでな」
増田さんは軽く手を上げて卓巳くんと俺に挨拶をすると、みんなの背中を押して出ていった。
「家でやればよかったな。ごめん、ガクちゃん。アホばっかで」
二人になるといつもの卓巳くんだった。
「いいよ。気にしてない」
「ほんとは増田だけが来るはずだったんだけどさ」
「え? なんで?」
「……まあ、なんていうかなぁ」
俺の頭上には大きな『?』が浮かんでいたに違いない。
「諦めたいから……ってさ」
ポツリと卓巳くんがつぶやいた。
だからいつもの通りに『ガクちゃん』って呼んで、いつもと同じにぺたぺたくっついていたんだ。
これで、いいんだろうか。
増田さんより俺の方が卓巳くんを好きだろうか?
卓巳くんを大事にしてるだろうか?
自信がなかった。
黙り込む俺に卓巳くんがちょっと淋しそうな笑顔を向けた。
「ガクちゃん、午後、授業は?」
「今日は午前中だけ」
「食べ終わったら、家、帰ろうか」
「なんで?」
「キスしたい」
卓巳くんの整った顔が少し近づいた。
さすがにここではしないだろうけど、ちょっと思いつめたような表情にドキッとした。
「……う、ん。食べたらね」
俺も今日は少し肯定的な返事をした。
増田さんの気持ちだって、卓巳くんはちゃんとわかってたんだ。
そんなことも今やっと気づいた。
きっといろいろ悩んで、それでも俺を選んでくれたんだろうってことも……
卓巳くんはさっさと食べ終えて、けれど俺を急かすこともなく、二人分のお茶を持ってテーブルに戻ってきた。
隣のテーブルでクスクス笑っている女の子たちは卓巳くんの知り合いなんだろう。
卓巳くんが二人に視線を投げるとペコリと頭を下げた。
「卓巳くん、俺たちっておかしい?」
「ガクちゃんがおかしいわけじゃないよ。いいから、食べてなよ」
卓巳くんがにっこりと笑う。
俺にだけ優しい。
こんなにあからさまでいいのかと思うほど。
そんな他愛もないことにドキドキした。
女の子に持っていた恋愛感情とはずいぶん違うような気がしたけど、もしかしたらそっちがニセモノだったのかもしれないと思うほどに、苦しかった。
けど。
それとこれとは違うのだ。
男の身体をそんなにスンナリ受け入れられるはずもなく。
家に帰るなり、俺はまた、卓巳くんの誘惑にうろたえていた。
「ちょっ……と、卓巳くんっ」
「上だけだって」
「なんでキスするのに、シャツ脱ぐわけ?」
「気分出るし」
なんの気分?
……なんて聞くまでもないか。
「ダメだって。ねえ、聞いてる? 卓巳くんってば」
それでも卓巳くんはせっせとシャツを脱がそうとしている。
「大丈夫。キスするだけだよ?」
「うそ。最近、卓巳くん、嘘つくよね?」
そこで卓巳くんはふふん、と笑った。
「わかっちゃった? ガクちゃんも大人になっちゃったね」
既に卓巳くんは下着以外何も着ていない状態。
「でも、ホントにキスだけだよ」
「じゃあ、なんでパンツしかはいてないのさ」
「ガクちゃんの肌、すべすべで気持ちいいから」
服だけ脱がせておいて、俺を羽交い締めにしたまま自分の部屋に連れていく。
「だって、キスだけなのに、ベッドなのっ?」
「カゼ、引くといけないし」
「それって理由になってる?」
「なってるよ。大丈夫だって。信用して」
「だってさぁ……」
「しないよ。ホントに。ガクちゃんに嫌われたくないから嫌がることはしない」
それはホントっぽい。
にっこり笑う卓巳くんに、ちょっと安心した。
そう。
卓巳くんは美人だ。
微笑まれると俺も弱い。
「……ホントに約束してよ?」
「約束するよ」
何度も何度も、俺が飽きても、困っても、卓巳くんはキスをし続けた。
「ガクちゃんがいつか、俺と同じ気持ちになってくれればいいなぁって思うけどね」
髪を撫でて、肌を合わせて、脚をからめて、キスだけを繰り返した。
微笑む卓巳くんに見とれながら、長いキスの後、俺も卓巳くんを抱き締めた。
……いや、さすがにそれ以上はしなかったけれど。
気持ちは少し卓巳くんに近づいていた。
「ガクちゃん、触って」
「またぁ……」
「ちょっとだけでいいから」
「もう……」
卓巳くんとぴったり同じ気持ちになるのは、まだ、ずいぶん先だと思うけど。
そんなこんなで数週間が過ぎた。
俺と卓巳くんの仲は不思議なほど進展しなかった。
じゃれ合うことはあっても、キスより先はしなかった。
とは言っても、ここ半月くらいはゼミの合宿やバイトのせいで、卓巳くんと擦れ違ってばっかりだったんだけど。
その日、俺はバイトがなかった。講義も遊びにいく予定もなかったから、結構早い時間に部屋に戻ってきた。
「ただいま」
卓巳くんの部屋から音楽が聞こえたが、返事はなかった。
「卓巳くん、いるの?」
そっとドアを開けるとベッドにひっくり返って天井を見つめている卓巳くんが目に入った。
夏を思わせる明るい曲が流れる部屋で、卓巳くんの周りだけがどんより曇っている感じだった。
「卓巳くん、元気ないよね? 何かあった?」
ドアから顔だけ出して遠慮がちに聞いた。
ベッドに寝転んでいた卓巳くんがダルそうに起き上がった。
「ガクちゃん、心配してくれるんだ?」
それだけでちょっと元気になった。
「そりゃあ、ね。卓巳くんが元気ないと心配するよ」
卓巳くんがにっこり笑った。
……なんだ、もしかして拗ねてただけ?
よくよく考えてみたら、昨日の夜なんて卓巳くんに話しかけられてもロクに返事もしなかった。
友達の代わりに行ったバイトがすっごく大変で、疲れてしまってぐったりしていただけなんだけど。
卓巳くんはすごく心配そうに「大丈夫?」とか「なんか飲む?」とか言ってくれたけど、返事をする気力もなくてそのまま自分の部屋に逃げてしまったのだ。
そのせいなんだろうな。
卓巳くんはきっと今日一日それを気にしていたんだろう。
今頃気付く俺って相当ダメかも。
ごめんね、と思う。
卓巳くんなら、疲れていてもにっこり笑って返事をするだろう。
「じゃあ、ね、ガクちゃん」
「なに?」
「慰めて」
卓巳くんはニコニコしながら俺の返事を待っていた。
「そう言われても、さ」
お詫びしたい気持ちはすごくあったけれど、どうしていいのかわからなかった。
だいたい、あんまり落ち込んだりすることのない卓巳くんだから、俺が慰める立場だったことなんてなかったのだ。
いや、本当は俺が気付かなかっただけで、落ちこんでる時だって何度もあったんだろうけれど。
……俺、また自己嫌悪だな。
「なに考えてるの、ガクちゃん。簡単だよ。俺が喜ぶことしてくれればいいんだから」
「卓巳くん、何が嬉しい?」
「いきなり俺に聞くの? ちょっとは考えてよ、ガクちゃん。俺の喜びそうなこと。ぜんぜん思いつかない?」
普段から相手のことを考えてたら、そんなのすぐに思いつきそうだもんな。
14年間も一緒にいるのに、なんでって思うのも無理はない。
自己嫌悪は後回しにして、一生懸命考えなきゃ。
「ん〜……」
あ……思いついた。
けど。
ちょっと悩んでから、卓巳くんの隣に腰掛けた。
卓巳くんはにこっと笑った。
的外れではないという意思表示だ。
俺はこそっと卓巳くんの頬に手を伸ばした。
キスくらいなら、いいよな……。
ためらいながら、でも、ちゃんとしたキスをした。
つまり、触れるだけとか、そんなんじゃないキス。
卓巳くんは嬉しそうに唇を開いて舌を絡めた。
もういいかなと思って唇を離そうとしたら、頭を押さえ込まれた。
唇を吸い、舌先が歯をなぞり、口の中を這い回る。
おかげで長い長いキスになってしまった。
その間、本当に落ち込んでるのかなと疑わしくなるほど、卓巳くんは楽しげだった。
「ガクちゃん」
「ん〜?」
やっと解放されたものの、身体は卓巳くんに拘束されていた。
その体勢で、再び唇が触れそうな距離で卓巳くんがトドメの一言を告げた。
「その先もして欲しい」
|