理想の子猫
-2-



「いってきます」
臣の会社まで一時間。
着いたらきっと臣が迎え出てくれるんだろう。
フロアにもちょっとだけ入れてもらって、臣の机なんかも見せてもらって、ついでに臣の椅子に座ってお茶なんかも飲んだりして。
臣はどんな顔で仕事をしているんだろう。
会社でもいつもみたいにヘラヘラ笑ってんのかな……
ワクワクしながら臣の会社の前に立った。
正面の入り口はシャッターが下りていたから裏口に回ったけどやっぱり鍵はかかってた。
どうしたらいいのかわからなくて、結局、臣に電話した。
『そこにいろよ。今、取りにいくから』
臣は早口でそれだけ言うとさっさと電話を切った。
……なんだか、冷たい。
5分くらい待ってから、ようやく裏口のドアのノブが回った。
てっきり臣が顔を出すと思ったのに、知らない女の人だった。
「島野くんに頼まれたんだけど。資料持ってきた子って、キミ?」
「はい、あの、これ」
黙ってそれを差し出した。資料を受け取る手がとてもキレイだった。
「ごめんね。島野くん、今ちょっと手が離せなくて」
俺はちょっとだけ頷いた。
いろいろ期待してきたから、本当はすごくがっかりした。
それに気付いたのか、女の人はにっこり笑って、
「せっかくここまで来てくれたんだから、コーヒーでも飲んでいかない?」
と俺を誘ってくれた。
なんとなく救われた気分になって、彼女の後をついていった。



広いフロアにスーツ姿の人が三人いて、なんだかとっても深刻な顔で話をしていた。
その向こうに立ったままでパソコンをいじっている臣。
会社の臣は全然緩んでなんかいなくて、俺の知らない人みたいにキリッとしてた。
それだけなのに、ドクンッと心臓が鳴った。
「臣、」
思わず名前を呼んだ。
小さな声で呼んだつもりだったけど、他の人まで振り返った。
『誰、この子』って顔が全部俺に向いてた。
「……紀和?」
臣が驚いて顔を上げた時、何故かこっちを見てた全員が「ああ〜」って頷きながら笑った。
俺を案内した女の人もニコニコしながら俺を見てた。
「島野くん、資料届いたわよ」
臣は顔を顰めながら静かに歩いてきて、そっと俺の背中を押した。
「用が済んだら帰れよ。みんな忙しいんだから」
不機嫌そうに言う臣を彼女が咎めた。
「持ってこさせておいて、そんな言い方ってひどいいんじゃない?」
「仕方ないだろ? それどころじゃないんだよ」
「じゃあ、紀和くん。こっちで一緒にコーヒー飲もっか。私、島野くんの同期で代田(しろた)って言うの。よろしくね」
代田さんはちゃんと自己紹介をしてからコーヒーを二つ入れてきた。
「すみません。忙しいのに邪魔して」
「ううん、いいのよ。私もコーヒー飲みたかったんだ」
代田さんは本当に優しそうな人で、一緒に話していても楽しかった。
近所に住んでいたのが臣じゃなくて、代田さんみたいな優しいお姉さんだったら、俺の人生はもう少しまともで楽しかったかもしれないのに。
臣はなんだかバタバタしていたけど、時々、チラチラと俺たちを見た。
「島野くん、こっちが気になるみたいね」
「俺が代田さんの邪魔してると思ってるんだ、きっと」
俺が顔を顰めたら、代田さんが「うふふ」と笑った。
「一緒にコーヒー飲みたいのかな。いつもはクールを気取ってるくせに意外と可愛いところあるんだなぁ」
臣がこっちを見て手でしっしっと俺を追い払うジェスチャーをした。
最初は無視していたけど、あんまりそれを繰り返すから、俺も面白くなくなって、「臣はショタコンで5歳の男の子にデレデレしてる」って言ってやろうかと思ったけど。
でも、ここは臣の会社だし、ガマンして大人しく座ってたのに。
「紀和、いい加減にしろよ」
最後通告と言わんばかりの厳しい表情で俺を見るから。
「……わかったよ」
ムクれたままさっさとコーヒーを飲んで代田さんにお礼を言って帰った。
会社の臣はカッコよかったけど。
でも、かなり意地悪だった。
もう何を頼まれても聞いてあげない。
それも、固く誓った。



その日の夜遅く、臣から電話があった。
もう0時を回っていて、俺はベッドに突っ伏してふて腐れていたところだった。
『紀和〜、俺』
いつもと同じ少し間の抜けた臣の声を聞いてなんとなくほっとした。
今日は仕事が忙しくて、きっと機嫌が悪かったんだって思ったから、会社でのことは許してやろうと思っていたのに。
俺が返事をするより前にいきなり謝られた。
『ごめん。明日、ダメになった』
無言で固まっていると、臣が言葉を続けた。
『仕事が終わらなくて、どうしてもまた行かなきゃならないんだ。ごめんな』
本当はもう目の前が真っ暗になっていたけど。
「……うん、わかった」
だって、仕事だって言われたら、そう答えるしかないよな。
『来週、絶対行くから。な? 行きたいところ考えておけよ?』
臣の声は優しかったけれど。
「……いいよ、もう」
『紀和?』
「ドライブ、もう、いい」
『でも、遠いところまでわざわざ届けてくれたのにさ』
「でも、もういいよ」
わざわざ届けたのは、ドライブやCDに釣られたからじゃない。


臣が、喜んでくれると思ったからだ。


「もう、いい……」
会社での素っ気無い臣を思い出した。
でも、臣がなんとなく冷たいのは今日に始まったことじゃなくて。
俺が高校生になった途端、急に変わったんだ。
前はどんなわがままも聞いてくれたのに。
今は仕事よりユウくんより、ずっと後回しで。
大きくなってしまった俺は、臣にとってはネコの手でしかなくて。

『紀和、だったらCD……』
臣の話はまだ途中だったけど。
俺は電話を切った。

高校生になんてならなかったら。
俺が小さいままだったら。
臣は俺のために時間を作ってくれたんだろうか。
臣の大切な子猫でいられたんだろうか。

今更。
『おかえり、さみしかった』なんて。
言えるはず、ないのに。




翌朝早く、臣がうちに来た。
「紀和、臣くんよ。起きなさい」
母さんに叩き起こされた時には、臣はもう部屋に入ってきていた。
8時15分。
スーツ姿。
臣はもう、会社と同じ顔。
「……会社、遅刻するよ」
のそのそと起き上がってベッドの隅に腰掛けた。
「休日だから出社は遅いんだ」
臣は立ったままで俺を見下ろしている。
「ふうん」
「金曜と月曜に振替休暇をもらえるんだ。土日でどこかに行こう。紀和の行きたいところ、どこでもいいから」
母さんが部屋に散乱した俺の服を拾い上げながら「いやねえ」って呟いた。
「臣くんも無理して紀和に付き合わなくていいのよ。まったくこの子ったら……。臣くんは紀和のお兄さんじゃないのよ」
母さんは俺にそう言いながら、両手一杯に洗濯物を抱えて部屋を出ていった。
臣が本当の兄さんだったら、こんな気持ちにはならなかったんだ。
子供を預かったって、休日に仕事でいなくったって、俺は落ち込んだりしなかっただろう。
「……そんなの、当たり前じゃん」
俺の独り言に臣がふっと溜息を漏らした。
「じゃあ、会社に行くから。行きたいところ考えておいて」
時計を気にしながら、俺の頭を撫でた。
面倒くさいなら、誘わなきゃいいのに。
臣はいつだって、いい顔したがるんだから。
「もう、いいって」
俯いたまま立ち上がって臣の背中を押した。
部屋から押し出して、バタンとドアを閉めた。
「紀和、帰りにまた寄るから」
ドアの向こうから聞こえた臣の声は、俺が子供だった頃と同じように響くのに。
臣の足音が遠くなってから、またベッドに潜り込んだ。


臣は今でも優しいけど。
時間が経てば経つほど俺は大人になって。
楽しかった頃に戻れなくなる。
分かっていても納得できなくて、臣を困らせてばかり。
なのに。
気持ちだけは、まだどんどん勝手に臣を好きになっていくから。

少しずつズレていく。



臣は言った通り、会社が終わってからまたうちに来た。
それも11時半とかいうものすごく遅い時間で。
うちの玄関の前をうろうろしているところを飲んで帰ってきた父さんに見つかったらしい。
「紀和くんに電話したんですけど、電源切ってるみたいで。……あ、いえ、結構です。もう遅いですから、ここで」
玄関から臣の声が聞こえた。
「紀和、臣くんだよ」
父さんが呼びにきたけど。
「いないって言って」
思いきり居留守にした。
「やだわ、紀和。臣くんに聞こえてるわよ。ケンカでもしたの?」
母さんが呆れてたけど。
「じゃあ、これを渡してください。昨日、資料を届けてくれたお礼です」
「あら、いいのよ、そんなの。どうせ家でゴロゴロしているだけなんだから」
臣は父さんと母さんに丁寧な挨拶をして帰っていった。
「後で臣くんにちゃんとお礼言っておくのよ」
母さんに怒られながらCDを受け取って、自分の部屋に引っ込んだ。
「大きな音でかけちゃ駄目よ」
母さんの声をヘッドホンで遮断した。
すごく欲しかったCDなのに。
音が通り過ぎていく。


CDよりも、臣に「ありがとう」って言ってもらう方が、ずっと良かったのに。



金曜の朝、もう一度臣から電話でドライブの誘いがあった。
「行かない」
『どうして? 紀和、ずっと行きたがってただろ?』
「でも、行かない」
『俺、何か紀和の気に障るようなことした?』
「してないよ。でも、行かない」
『理由を言ってごらん』
「行きたくないから」
埒の明かない遣り取りのあと、臣の溜息が聞こえて、俺も憂鬱になった。
臣だってホントは面倒くさいくせに。
公園で子供と遊んでる方が好きなくせに。
……無理なんかしなくていいのに。
「臣の可愛い子猫ちゃんとでも行ってくれば?」
捨て台詞みたいに一方的にそう言って電話を切った。
こうやって勝手に切るようになったのも、今年になってから。
でも、臣が怒ったことはない。
いつでも、後からフォローみたいな短いメールが来るだけ。
それもテレビの事とか夕飯のメニューとか、そんなどうでもいいような話だから、俺も返事なんて出したことはなかった。

臣からのメールは今日もすぐに来た。
タイトルもなし。
本文はたった一行。


『だから紀和を誘ってるんだろ?』


気まずい時だけ、こんなふうに期待させるようなこと言って。
ひどいよ……って思ったけれど。
やっぱり返事は出さなかった。
それでも。
明日、こっそり行って驚かせようと思って、カバンにおやつとCDを突っ込んだ。
そっと部屋に入って、まだ寝ている臣を起こそう……って。
わくわくしながらベッドに入った。




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