朝8時。
臣はまだ寝ているかもしれないと思いながら、合い鍵でそっとドアを開けた。
足音を立てないようにリビングに入ると、ソファに座ってテレビを見ている臣が目に入った。後ろから脅かしてやろうと思って近づいた時、子供の笑い声が聞こえた。
臣の膝にユウくんが座ってた。
「ダメだって。ちゃんと前向いて」
ユウくんを抱き直すついでにほっぺにキスをした。
ユウくんも臣にチュッと返した。
俺も小さい頃はやってたことだけど。
もう、そんなこともできないんだなって。
思ったら、急に、臣の顔なんて見たくなくなった。
気付かれないように帰ろうとしたのに。
ユウくんに見つかってしまった。
「にゃんこのおにいちゃんだ〜」
その呼び方が、俺の気分を逆撫でする。
指を差されて、ムッとしてたら臣が振り返った。
「紀和〜、来てくれたんだ」
ユウくんを抱いたまま立ち上がった。
臣の首にぶら下がってきゃらきゃら笑い転げるユウくんに臣が微笑みかける。
「じゃあ、紀和も来たことだし、三人でドライブに行くか?」
「いくぅぅ!」
ユウくんが楽しそうに返事をすると臣が目を細める。
「ホント、かっわいいよなぁ」
もう、とろけそうな顔で。
「そうだね」
俺は何の感情も込めずにそっけなく答えた。
「紀和も昔は可愛かったよなぁ」
臣の言葉にズキンと胸が痛む。
―――――……昔は、ね
「俺、もう高校生だよ」
高校生はもう完全に臣の理想からはみ出る年齢なんだろうって。
何度思っても、納得できないのに。
だからって、どうすることもできないのに。
「臣、」
「ん〜? なんだ?」
「やっぱ、帰る」
「え〜? なんでだよ?」
「ユウくんがいるんだから、いいじゃん」
そしたら臣はユウくんを膝から下して、「ちょっとここで待っててね」と頭を撫でた。
それから俺の手を掴んで、廊下に連れていった。
「どうしたんだよ、紀和。おまえ、最近変だぞ?」
「別に。普通だよ」
「学校でなんかやなことでもあったのか?……あ、もしかして俺が会社で冷たかったから怒ってるのか?」
ふて腐れて臣の手を払ったら、臣はホッとしたように笑って俺の髪を撫でた。
「そっか。だからなのか。悪かったな。そんなことで怒るなよ」
臣の手が俺の頬に触れた時、リビングから「うぎゃ〜んっ」という泣き声が聞こえた。
ドアを開けるとユウくんがソファから転げ落ちていた。
でも、下にはクッションが敷いてあったから、痛くはないと思うんだけど。
「おみ、ぃぃぃ〜っ!!」
呼ばれたらホイホイ行っちゃうんだもんな。
俺が怒ってたのなんてどうでも良いって顔でさ。
「どこが痛いの? ほら、見せてごらん?」
「ユウ、ちゃんと、すわ、ってた、のにっぃぃ、ひっく」
ちゃんと座ってたら落ちないだろ、って心の中で突っ込んだけど。
子供相手にムキになって。
俺って嫌なヤツだ。
「おみ、おみぃ、」
臣はニコニコしながらユウくんを抱き締めていた。
臣の事だから、すっかり泣き止むまでそうしているつもりなんだろう。
「臣、俺、帰るから」
ユウくんを宥める気になんかなれなくて、持ってきたカバンを掴んで玄関に向かう。
「ちょっと待て。紀和っ!」
臣が叫ぶから、ユウくんがまた泣きじゃくり始めた。
「ほら、泣いてるよ。ちゃんと宥めてあげないと。可愛い子猫ちゃんなんだから」
相手は5つの子なのに。
俺、最低だな。
「待てよ、紀和。おまえ、もう高校生なんだから、わけのわかんないことで拗ねるなよ?」
「だから、もういいって言ってるんだろ」
「おまえなぁ……俺を困らせるのがそんなに楽しいのか?」
俺の気持ちなんかわかんないくせに。
「楽しくないよ」
臣が冷たくなってから、ずっとこんな気持ちでいるのに。
「……臣といても、もう、ぜんぜん楽しくないよ!」
一人っ子で、俺が淋しがるから。
だから、ずっと一緒に居てくれただけなのに。
「……紀和」
なんで、俺、臣を自分のものだなんて思っちゃったんだろう。
俺の後ろでパタンとドアが閉まって。
ユウくんの泣き声も聞こえなくなった。
雨が降りそうだな、なんて思いながら、そのままフラフラ駅に向かった。
どうしても、家に帰る気になれなかったから。
途中で雨が降り出して、土砂降りになっても、俺はまだフラフラ歩いてた。
びしょ濡れで家に戻ったら、母さんに怒られた。
「さっき、臣くんが来たわよ」
「そう」
機嫌を取りにきたんだろう。
「あんまりワガママ言うんじゃないわよ。臣くんだって忙しいんだから」
「わかってるよ」
親と話す気にもなれなくて、また自分の部屋に篭もる。
少しだけ迷ったけれど、臣に短いメールをした。
『今、家に帰ったから』って。
それだけ。
だって、そうしないと臣が心配するから。
バカみたいに大騒ぎして、また俺んちに駆け込んできたりするから。
臣から返事が来たけれど、読まずに削除した。
どうせいつもと同じ。どうでもいい世間話。
削除キーを選択しながら、ふと、手紙を読まずに食べてしまったヤギの歌を思い出した。
それと一緒に、小さい頃、臣が手紙を書きながら歌ってくれたことを思い出した。
臣はずっと、いいお兄ちゃんだったのに。
俺、いつから、こんなふうに臣を好きになってしまったんだろう。
それから、電話はかかってこなくなった。
俺も遊びにいかなくなった。
臣が困り果てて溜息をつくのを見たくなかったから。
……ううん
本当は。
自分だけ好きでいることが、もう嫌になってしまったんだ。
つまらない週末がいくつも過ぎて。
俺はやっといろんなことに気付いた。
ドライブに連れていってもらえなくても、部屋でテレビを見ているだけでも、臣と一緒にいる方がずっと楽しかったってこと。
離れてたって、臣のことを忘れられないんだってこと。
淋しくて、何度も臣の部屋の前まで行った。
でも、臣の膝には新しい子猫が座ってて。
俺の場所なんてないんだって思ったら、どうしても中に入れなかった。
「臣くん、今日も会社なのね」
土曜の朝、新聞を取りに言った母さんが感心しながら戻ってきた。
「紀和によろしくって言ってたわよ」
母さんの言葉を受け流して、黙って朝ご飯を食べて、またベッドに潜り込む。
早く今日が終わって、明日が終わって、月曜になればいいと思った。
「紀和、また寝てるの?少しは運動しなさい」
母さんが俺の部屋を一周して洗濯物を拾い上げていく。
「ねー、今度臣に会ったら、よろしくって言っといて」
そしたら、いきなり毛布ごと布団タタキで叩かれた。
「自分で言いなさい。いつまでケンカしてるつもりなの?」
そうなんだけどさ。
俺、もうダメだから。
臣と会っても、きっと普通に話せない。
夕方、携帯が大音量で鳴った時も俺はベッドでぐずってた。
面倒くさいと思いながらしぶしぶ手を伸ばし、その瞬間ドキンとした。
青いウィンドウに『臣』の文字。
その光に急かされるようにして、迷う間もなく電話に出た。
『紀和くん? こんにちは』
臣だと思ったのに。
女の人の声だった。
でも、聞いた事がある。
『島野君の同期の代田です。もう忘れちゃったかな?』
優しい笑顔が頭に浮かんだ。
「あ、いえ、覚えてます」
『悪いんだけど迎えにきて欲しいのよ、島野くんのこと』
「え?」
『仕事の打ち上げで飲んでたら、まだこんな時間なのに潰れちゃって。家もわからないし、どうしようかなって』
時計を見たら、まだ5時半。
確かに酔っ払うには早すぎる。
『来てもらえないかな? 会社の二つ隣りのお店なんだけど』
「あ……はい、一時間くらいで着くと思います」
臣、やっぱり疲れてたんだ。
当たり前だよな。
土曜も日曜も会社に行って。
なのに、せっかくの休みまで預かった子供の面倒なんて見て。
俺にまで気をつかって……
『よかった。じゃあ、時間見計らってお店の前で待ってるから。よろしくね』
「はい」と短く返してから、お財布に小遣いを全部詰め込んで、大急ぎで寝癖を直した。
「あら、紀和。どこか出かけるの?」
「臣のところ」
「ご迷惑になるようなことするんじゃないわよ?」
「大丈夫だよ。いってきます」
この場合、迷惑をかけられてるのは俺だよな。
……迷惑だなんて思ってないけどさ。
転げるように家を飛び出し、駅まで走った。
酔ってるなら、会っても気まずくないと思って。
こっそり謝れたらいいなと思って。
それよりも。
臣に、会いたくて。
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