理想の子猫
<White Day>

-2-




翌日の昼前。
俺はまた臣の家に来ていた。
臣は珍しく起きていて、しかもちゃんと外を出歩ける服に着替えている最中だった。
「どっか行くのかよ?」
たまには一緒に出かけるのかと思って期待した俺がバカだった。
「コンビニ。紀和のおやつ買ってくるから留守番してて」
「……いいけど」
おやつなんて用意するくらいだから、今日も一日部屋でゴロゴロしているつもりなんだろう。
俺が中学の頃までは、落ち着いて家にいることなんてなかったのに。
いつから臣はインドア派になったんだろう。
ちょっと不満に思っていると、急に臣が俺の顔を両手で挟んでくいっと上に向けさせた。
「で。紀和、昨日の返事は?」
普段の臣は忘れっぽい。
ドライブの約束も映画の予定もみんな簡単に忘れてしまうのに、こんなことだけはしっかり覚えている。
「……まだ考え中」
答えた瞬間、昨日の臣の子猫ちゃんごっこの内容が頭を駆け抜けて、ぶわっと顔に血が上った。
「紀和、顔が赤い」
「臣が変なこと言うから……」
昨日は「どうしてもできなければしなくていい」みたいな譲歩案を出してたけど。
それで済むはずなんてない。
「なあ、あれを全部してくれとは言ってないんだから、紀和も軽い気持ちで―――」
いつだってこうやって適当に言い包めようとするんだから、その時になったら流されてしまうに決まってる。
「だから、考え中だって言ってるだろ?」
臣とはちょっと前にそういう関係になったけど、実際は一度もちゃんとできたことはなかった。
痛いとか苦しいとか、そういうことももちろんあったけど、とにかく恥ずかしくて。
自分でも見たことないような場所を見られているんだから当然だと思うのに、ヘンタイサラリーマンの臣はそういうのを全然分かってくれない。


とりあえず気分を変えようと思ってテレビをつけた。
今日返事をすると言った以上、帰るまでには結論を出さないといけないし。
「……どうしようかな」
思わず口から出た呟きをかき消したのは大音量のバラエティ番組。
『気持ちはわかるけどねー。でも、ちょっとくらいカレシのリクエストに応じてあげないと浮気されちゃうよ? せっかくのホワイトデーだから、カレシも張り切ってるだろうし』
能天気なコメントが容赦なく俺の心臓を貫通した。
臣の耳には聞こえていなかったみたいだけど、俺には「うぐっ」って感じだった。
もちろん臣がそんな理由で浮気をするわけないと思いたいし、万が一浮気したとしても相手が「子猫ちゃんごっこ」なんてヘンタイ行為に付き合ってくれるはずもないけど。
でも、世の中は自分が思っているよりもずっと広い。
今日もテーブルの真ん中にはしっかりとリボンがスタンバイされていて。
ついでに。
俺はそれを見ながら真面目に「子猫ちゃんごっこでバレンタインでーのお返し」を考えてしまっているわけで。
「……はぁ……」
何度目かの溜め息を吐いたとき、臣が財布をポケットに入れた。
「じゃあ、ちゃんと留守番してろよ。悪い狼が来てもドアは開けちゃダメだぞ」
こういう時の臣は昔のままで。
なんとなく懐かしい気持ちが蘇る。
俺がすごく小さくて、臣の読んでくれる絵本が大好きだった頃のこと。
けど。
今は違うわけで。
「……だったら、臣は部屋には入れないよ」
自分が狼のクセにって言ってみたけど。
臣はにっこり笑って、頬にチュッと軽いキスをした。
「俺は良い狼だって思ってるから紀和は遊びにきてるんだろ?」
「そうだけど」
どっちかっていうと「悪い狼だと分かっているけど遊びにきてる」っていうのが正しいような気がする。
でも、それを言ったら「だったら何をしてもいい」って都合のいい解釈をするに決まってるから黙ってた。
「紀和」
考え込んでいたら、臣が親指と人差し指で俺の顔をむにっとつまんだ。
「なんだよ?」
答えてる間もムニムニと頬を左右から押されて。
人の顔で遊ぶなって怒ろうとしたけど。
「好きだよ」
いきなりそう言われて、また顔に血が上った。
いつもこうやって俺を流そうとするんだからって思いながらも、気持ちは勝手にグラリと揺れる。
あと一押しされたら臣の子猫ちゃんごっこにも「うん」って言ってしまいそうになったけど。
「……その手には乗らないからな」
辛うじて冷ややかな答えを返して臣の背中を押した。

軽快な着信音が鳴ったのはそのすぐ後。
「ったく、なんだよ」
文句を言いながら臣がポケットに突っ込んでいた携帯を取ると女の人の声が漏れてきた。
「え? ああ、うーん……他に頼めるヤツいないのか?」
時計と俺の顔をチラチラ見てから、「仕方ないな」と答える。
「これから会社の奴が仕事持ってくるけど、紀和は気にしなくていいから」
すぐに済むから大丈夫だと言った臣は面倒くさそうに頭をかいていたけど。
その時にはもうニヤけてはいなかった。


それから15分。
『小貫でーす。三沢も一緒でーす』
元気のいい女の人が二人、インターフォンに向かって思いっきり叫んでいた。
二人いることにちょっと安心したのは、やっぱり心のどこかで「仕事なんて口実じゃないのか」と思っていたから。
『いつもはクールを気取ってる』って言ってた代田さんの話も俺はちゃんと覚えていた。
実際、会社での臣はぜんぜん普段と違ってちょっとだけカッコよく見えたし。
「小貫んちか三沢んちがこの辺にあるのか? ってか、なんで俺んち知ってんだ?」
ドアを開けて彼女たちを迎えた臣もやっぱり会社バージョン。
ちょっと冷たそうにも見えるくらいだったけど。
「社員名簿だよ〜ん。土日に三沢ちゃんと二人でやろうって思ったんだけど、マジでできなくって。島野、こういうの得意じゃん」
さすがに一緒に働いている人とは仲がいいみたいで。
なんとなく疎外感を味わってしまう。
「ほら、これ」
差し出したのはファイリングされた書類とパソコンのソフトみたいなもの。
「こんなにあるのか。ったく、他人の家にまで仕事を持ってくるなよ」
俺の知らない会社での臣。
それをとてもよく知っている人。
いつもこんな感じなんだろうか、とか。
どんな人と仲がいいんだろう、とか。
考えても仕方のないことばかりが頭を占領する。
ドアの向こうではまだ明るい笑い声が聞こえていたけど。
「っていうかー、なんで玄関に立ちふさがってんのよ。お茶とか出してくれないんだ?」
そう言われても臣は「あがって」とは言わなかった。
それどころか、
「終わったら持っていくから、そこのファミレスで待ってろよ」
あっさり外に追い出そうとしてた。
「えー、何その態度は。まさか彼女が来てるとか?」
「まあ、そんなとこ」
ショタコンだから当たり前だけど、臣は普段からぜんぜん女の子の匂いなんてしない。
そんな言い訳が通じるのかよ、って思ったけど。
「もしかして結衣ちゃん?」
小声になっていたはずのその言葉が俺の耳でドドーンと特大文字に変換された。
――――ユイちゃん?
会社で噂になってる相手がいるんだってことはすぐに分かった。
その瞬間、今まで味わったことがないほど息がつまったけど。
「……ユイって誰だよ」
臣の声は本当にどうでもよさそうで。
というか、本気で分かってなかったみたいで。
「本社の深江ちゃんだよ。同期じゃん?」
彼女の声が思いっきり呆れてた。
「ああ、そんな奴もいたな」
ものすごくどうでもよさそうに呟く臣。
さすがにそれはちょっと……って思うのは当然で。
「うわー、ひどーい。普通忘れるかぁ?」
確かにひどいんだけど。
臣はショタコンなんだから。
どんなに可愛くても女の子に関心がないのは仕方ない。
そして、会社には臣が膝に乗せたくなるような年齢の男の子は絶対に存在しない。
バカみたいだけど。
そんな事実に安心している俺がいた。
「まあ、それはともかく。『彼女が来てる』なんて見え透いた嘘はやめておきなって。女の子の靴なんてどこにも見当たらないじゃん?」
玄関には臣の靴と俺のスニーカーが乱雑に脱ぎ捨てられているだけ。
もちろん部屋にいるのも俺だけ。
入ってきたら臣のウソなんてすぐにバレるって思ったけど。
臣は堂々と説明を始めた。
「正確には彼女じゃなくて『彼氏』。靴はこれ。名前は紀和。分かったか?」
すっぱりとそう言い切って彼女たちの返事を待つ。
俺の方が緊張したけど。
すぐに戻ってきた声はちっとも驚いてはいなかった。
「うあ〜、そっかぁ。思い出したぞ。島野の『紀和』クンか。まだ続いてたんだ?」
「当たり前だ」
臣は酔ったりすると誰のことでも『紀和』って呼んでしまうから、職場でも俺の名前を知ってる人は多いってことは知ってた。
それもたいがいバカだよなって思ってたけど。
でも、こういう時はちょっと安心する。
「顔が見たければ紹介するよ」
「えー、マジで? 見たい、見たい」
彼女たちの笑い声が響く中。
すぐに「紀和ー、紀和、紀和」って犬か猫を呼ぶみたいな声が聞こえた。
あんまり気は進まなかったけど。
廊下とリビングの間にあるドアからちょっと顔を出してペコリと挨拶をすると、二人からはやけに慈愛に満ちた微笑が返ってきた。
「どうよ、俺の紀和は?」
可愛いだろう、って真面目に同意を求める臣を見て、片方の子は「ぷっ」って笑ってたけど。
ごく普通の男子高校生を「可愛い」なんて形容する臣は笑われて当然だと思う。
「いい子っぽいねぇ。二課の人たちが言ってた通り」
前に会社まで来たんでしょう、と聞かれて「はい」と答えたらまた微笑まれて。
「ね、紀和クン。島野、偉そうにあれこれ言いつけてるんじゃないの?」
「え? そんなことは……」
そういえば、会社での臣はちょっと偉そうだったな、とか。
そんなことも思い出したけど。
それはすぐに臣本人が否定した。
「悪いけど、俺、紀和には優しいから。……そういうわけで、邪魔すんな」
そう言ってまた彼女たちをドアの外に追い出そうとした。
けど。
彼女たちだって仕事で来てるんだし。
何よりもこんなことで臣が悪く思われるのは嫌だったし。
「……臣、俺、コンビニ行ってくる」
ジャマしないほうが早く終わるだろうっていうのもあったから、コートを持ってきて出かける準備をした。
「なんだよ。紀和が遠慮することないって」
「あ……うん。でも、見たい雑誌とかあるから」
俺だって、女の子が一人だけだったら部屋を出ようなんて思わなかったけど。
どう見ても心配するような雰囲気じゃないし。
「うーん……じゃあ、せっかく紀和が気を利かせてくれてるんだから、早く終わらせるか」
紀和の好きなもの何でも買っていいからって言って、臣は自分の財布を俺に渡した。
それから。
「ちょっと待て。寝癖ついてるぞ」
当たり前のように俺の髪をなでつけた。
その間、彼女たちの視線はこっちに釘付けで、俺は顔を上げることさえできなかったけど。
「OK、直った。じゃ、車に気をつけろよ」
左右をよく確認して横断歩道を渡るんだぞとか、そんなことまで言う臣に、また「ぷっ」って笑いが漏れて、
「島野、それはいくらなんでも高校生に言うセリフじゃないって」
すかさずツッコミが入った。
さすがに俺も「左右確認して」はどうかと思ったんだけど。
他の誰かに笑われるのはちょっと引っかかる。
「あの、そうじゃなくて……俺、この前、車に撥ねられたから」
だからそんな心配までしてるだけなんです……って。
一応そう説明すると、二人は顔を見合わせてからまたニッコリ微笑んだ。
「そうやってちゃんとフォローしてくれるのかぁ。いいなぁ」
「なんでこんないい子が島野と付き合ってるかなぁ」
それは別に質問ではなかったと思うけど、臣は「ふふん」ってちょっと得意そうに笑った後で、こう答えた。
「紀和がまだ幼稚園に行ってる頃から、昼寝のたびに『俺を好きになれ』って耳元で唱えたてたからな」
もちろん冗談なんだろうけど。
なんとなく聞き覚えのある響きに感じるのはなぜだろう。
「うわー、呪いの言葉。ってゆーか、犯罪の匂いがー」
「それは俺も否定しない」
靴を履く間も軽い口調で笑い合う声が聞こえたけど。
でも、もうそんなことは全然気にならなかった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけて」
臣が少し心配そうな顔で俺をドアの外まで見送って。
それを振り返りながら、ツキン、って胸が痛くなる。
「買い物済んだらすぐに帰ってこいよ」
「うん」
返事をしながら、『俺、紀和には優しいから』って言ってた臣の言葉を思い出す。
小さい頃からそれはずっと変わらなくて。
なのに。
遊びに連れていってもらえないとか、リボンをして欲しいって言われたとか。
俺はいっつもつまらないことばっかり悩んでて、臣には少しもお返ししたことがなかったって気付いた。



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