「びんぼーなワリには普通のアパートだな」
まふゆはアパートに着くと真っ先にそう言った。
見た目はまあまあだが、一言多いヤツだ。
可哀想だと思って連れてきたが、これなら充分一人で生きていけそうだった。
しかもシャワーを貸してやったら、いつまでたってもちっとも出てこない。
「おい、何してるんだ?」
返事がない。
「おい」
男のガキに遠慮する必要もないだろう。
ガラッとドアを開けるとすぐにペタリと座りこんでいるまふゆの身体が目に入った。石鹸で泡を立てた洗面器の中には着ていた衣服一式が入れられている。
洗濯をしていたのだろうが、疲れているのか途中で眠ってしまったようだ。
「バカ、カゼひくぞ」
声をかけられ、うっすらと瞼を開けたまふゆは眠そうな半眼のまま洗濯を再開した。
「そんなもん、後にしろよ」
「……明日までに乾かないもん」
そうだった。
着替えなんて持ってきていない。第一、あんな場所では服を洗うのだってままならないのだから、全部今夜のうちにと思うのも無理はない。
「ちゃんとあったまってこいよ」
「うん」
俺は一旦バスルームを出たが、水音はすぐにまたぱったり聞こえなくなる。
「だから、そこで寝るなって」
「……うん……」
返事はしたが目は開けない。洗濯をしていたはずの手も洗面器にどっぷり浸かったままだ。
「ったく、仕方ねーなあ……」
小さな身体にシャワーを当て、ザッと泡を流した。身体が温まったのを確認してから、抱き上げて拭いてやる。
その間もぜんぜん目を覚まさない。
あの公園であんなにエロジジイに狙われてちゃ、ゆっくり休めないんだろう。
なんだか同情した。
溜め息をつきながらも俺のTシャツとパジャマのズボンを着せ、一組しかない布団に入れた。
洗濯機にまふゆの着替えを放りこんでから、俺もシャワーを浴びて布団に入る。
「それにしてもよく寝てんなぁ」
ガキっていうのはずいぶんと柔らかくて甘い匂いがするものだ。そんなことを思いながらまふゆの隣で眠った。
コイツを養うためにはどれくらいの金が必要なんだろう。
うっかりそんなことも考えた。
翌日、まふゆは朝っぱらから洗濯物を干していた。
「かわくかなぁ……」
「今日1日あれば大丈夫だろ。どうせ鍵は持っていっちまうし、俺が戻るまでおとなしくここにいろよ」
「メシは?」
「あるものを適当に食っとけ」
その言葉が終わらないうちにまふゆはぺたぺた足音をさせながらキッチンまで走り、バッと思いっきり冷蔵庫を開けた。
「お、ビールがあるっ!」
真っ先にそれだ。まったく、子供のくせに。
「酒は飲むなよ。ガキなんだから」
「ちぇっ……」
「どこで酒の味なんて覚えたんだよ?」
笑いながら何気なく呟いた。けれど。
「抱く前に飲ませるヤツ、多いもん」
常に迷子だということを意識していないと、些細な言葉が不意にグサリと胸に突き刺さる。
まふゆが当然のように口にしたセリフが、重い現実を直視させた。
「……へえ、そんなもんか?」
辛うじて適当な返事をする。
今でもそんなことをしているんだろうか。
脳裏を過ぎるのは壊れた柵の隙間から出入りしている子供たち。
スーパーのビニール袋を持って戻ってくることもある。
管理局からは1日2回の食事が与えられているだけで、それ以外は何もない。衣服は? 雑貨は?
迷子区でも金がなければ生活はできない。そんな当たり前のことに今さら気付く。
「とにかく、ビールは駄目だぞ」
念を押して靴を履く俺の背中に子供らしい声が降ってくる。
「いってらっしゃい」
振り返ると嬉しそうに笑っていた。
その「いってらっしゃい」が、何故かズキンと胸に響いた。
何かを思い出しそうで思い出せない。
もどかしさが一日中俺を捉えて離さなかった。
仕事を終えて部屋に戻った時、まふゆは生乾きの服に着替えて隅にちょこんと座っていた。俺が警備をしているビルにある歯医者から貰ってきた古い雑誌をずっと読んでいたようだ。
「おかえりなさい」
俺が帰ってくるとそっと閉じて元の場所に戻した。それからすぐに立ち上がった。
「おじゃましました」
そんな一言のあとは玄関まで小走り。裸足のつま先に靴を引っ掛けたところを慌てて引き止めた。
「飯、買ってきたから食ってけよ」
「ネコも飼えないくらいビンボーだっていってなかったっけ?」
「一食おごれないほどは貧乏じゃねーよ」
「そう?」
いつのも可愛くない返事。
けれど、ビニール袋から漂ってくるしょうゆと砂糖の香りにまふゆの鼻がくんくんと動いた。
「腹減ってるだろ? 昼間、なに食ったんだ?」
冷蔵庫を開けるとビールとつまみがなくなっていた。
「酒はダメだと言っただろ?」
「うん、でも。飲んだらあったかくなるんじゃないかと思ってさー」
薄いシャツ一枚と綿のパンツ姿。外よりいくらかマシとはいえ、暖房のない部屋でじっと座っているのは辛かったんだろう。
「寒かったんなら、その辺のものを適当に着ればよかっただろ? ほら」
押し入れからくちゃくちゃのセーターを引っ張りだし、放り投げた。
まふゆは礼も言わずに受け取った挙げ句、「でか……」っと文句を言ってから袖を通した。
膝までかかるほど大きなセーターから、ちょこっと出た指先がまふゆのあどけなさを強調する。
迷子は可愛く見えない方がいい。これでは売り払ってくれと言わんばかりだと思い、きちんと袖を折ってやった。
その間もまふゆは黙って俺のすることを見ていたけど。
「どうも」
まくり終えるといつもの生意気な礼が返って少し笑った。
買ってきた牛丼とお茶をテーブルにおいて、まふゆを座らせた。
ものも言わずに食べる姿がなんともいじらしく、だんだん冷たい路地に帰す決心がつかなくなっていく。
「もう一晩泊まってけよ。明日、俺と一緒に出よう」
まふゆは食べながら顔も上げずに頷いた。
気持ち良さそうにシャワーを浴びて出てきた後、昨日のTシャツとパジャマに着替え、俺の布団に入る。
「あったけー」
嬉しそうに擦り寄ってくるまふゆの無邪気な笑顔に、不覚にも一瞬ドキッとしてしまった。
「なー、風斗、俺になんにもしねーの?」
「はぁ?」
唐突な質問に驚いて視線を移すと、まふゆが真ん丸い目でこちらを見上げていた。黒目がちの大きな瞳は何故か少し不安で、どんな返事をすべきなのか分からなくなった。
「抱かないのかって聞いてんなら、そんなことはしねえよ」
「俺、そんなに風斗の趣味に合わない?」
「はぁ??」
「俺、風斗ならいいよ」
びっくりするほどの超マセガキ。まあ、そういうところで無理やり働かされていたんだろうからコイツのせいではないんだろうが。
「残念だったな。俺は男には興味ない。ガキにも、だ」
一応そう答えた。
本当にそうなのかというと、必ずしもそうではなかったが。
「いいから、もう寝ろ」
まふゆはちょっと不満そうだったが、そのあとは黙って眠りついた。
ガキだと思って油断していたがなかなか侮れない。
こんな顔でこんなことを言われたら、コロッと引っかかる奴もいるだろう。
実際、ガキには興味がなかったが、こうして眠っているまふゆを可愛いと思わないわけでもなかった。
寒いのか、ぐっすり眠っているにもかかわらず俺が動く方向にぴったりとくっついてくる。そんなところも変に保護本能をくすぐられた。
本当は淋しいのかもしれないとか、俺のことを好きなのかもしれないとか、うっかり気を抜くとそんなことを考えてしまう。眠っているコイツにはそんな甘い空気が漂っていた。
「外で見たときはナマイキそうだったんだけどな……」
妄想に過ぎないんだと自分に言い聞かせて、俺も眠るしかなかった。
翌日、淋しそうな顔もせず、まふゆは靴を履いた。
「おせわさまでした」
ナマイキな口調で礼を言い、いつもの広場の辺りで消えていった。
何故か少し淋しい気分になった。
その後はなんだかそこを通るのがためらわれ、わざと遠回りして通勤した。
なのに、それから1ヶ月ほどした寒い日にしたたかに酔っ払ってうっかり近道をしてしまった。
いくらなんでもこんな日に、外に出て主人を捜してはいないだろうという安心感があったのかもしれない。
案の定、いつもなら迷子たちがたむろしている小さな広場には数人の人影しかなく、俺はどこかでホッとしていた。
だが、そのあとすぐにコンコンと咳き込む声がいくつも聞こえ、やっぱり通らなければ良かったと後悔した。
できるだけ急いで通り過ぎようと足を早めたが、あと少しでゲートというところで聞き覚えのある声が耳を抜け、思わず振り返ってしまった。
「金が欲しいんだろう?」
声の主はまふゆのところに通い詰めていたあの男だ。
ということは―――
男の求めに応じて唇を重ねているまふゆの姿が目に入った。
背中に回されていた男の手は、やがて当然のようにシャツの下に滑り込み、それに気付いたまふゆが思いっきりその体を突き飛ばした。
だが、その程度で逃れられるわけじゃない。
即座に手首を捕まれ、まふゆが上目遣いに男をにらみつける。
しばらくの沈黙の後、声を発したのはまふゆだった。
「金! 早く」
噛み付きそうな勢いで吐き捨てられて、男は名残惜しそうにまふゆから手を放し、大袈裟に肩をすくめながら、札を一枚取り出した。
「うちの子になればこれくらいの小遣いは毎日あげられるよ」
目の前でひらひらと揺れる紙幣をひったくると、まふゆはすぐに手の届かないところまで後ずさりした。
「なんでも金で買えると思うなよ!」
強気な口調とは裏腹にその口元は震えていた。
「買えるのはキスまで? それとも一晩くらいなら身体も売ってもらえるのかな?」
卑らしい笑みを制するようにキッと睨み付けたあと、小さな背中は倉庫の奥へと消えていった。
オヤジはキライだと言っていたじゃないか。
なんで、金なんかのために……――
無性に腹が立った。汚いとさえ思った。
あんなふうに簡単に誰かとキスをするようなガキと分かっていたら、家に連れてきたりはしなかった。
まふゆの過去など聞くまでもない。どこかのブローカーか買われた先から逃げ出してきたガキなんだ。
それだってまふゆが悪いわけじゃない。
むしろ被害者じゃないか。
どんなに自分に言い聞かせても、どうしても今夜のことが許せなかった。
俺の気持ちに追い討ちをかけるように、翌日もその翌日もまふゆは違う男と濃厚なキスシーンを見せつけた。
俺に気づくと眉間に皺を寄せ、苦しそうにぎゅっと目を瞑った。
夕刻の太陽の中で、絡み付く舌がなまめかしく映る。
そこから目を逸らしながら、もう二度と近道などするまいと誓った。
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