Maybe … "Yes"

-3-



「……最悪」
思わず呟いた時、永海がわずかに不機嫌な表情を見せた。
「それ、おまえだろ。俺はちゃんと自己紹介もするつもりだったし、名刺だって渡そうと思ってたんだぜ?」
何を言われても口を開く気にならなかった。
顔を背けて溜め息をついたら、腕を掴まれて、無理やり正面を向かされた。
その後で、笑いを含まない声が降ってきた。
「それとも、一晩限りの相手には人格もないと思ったわけ?」
抑揚のない声が突き刺さった。
認めたくはないけれど、その通りだ。
「やっぱり図星か。まあ、そうじゃなかったらあんなにお姫様な態度取れるわけないけどな」
吐き捨てられて、さすがにカチンと来た。
「ああ、そうだよ。2度と会わない相手なら、どう思われても良かった。ついでに言えば、あんたじゃなくても」
それだけ投げつけて出ていこうとしたら、今度は肩を掴まれた。
「言い当てられて悔しくなったら逆ギレのヒス? ホントにどこまでもお姫様なんだな」
真正面からそんな言葉をぶつけられて、また頭に血が上った。
「その呼び方は止めろって言ったはずだっ!!」
生まれてこの方、よく知りもしない相手に怒鳴ったことなどなかったけれど。
なぜか永海だけは全てが気に障って仕方なかった。
「ああ、そうだっけ? お姫様のご命令なら従いますけど?」
永海も不愉快な気持ちを隠さなかった。
険悪な空気はさらに悪化する。それに煽られて、またきつい口調で吐き捨てた。
「いい加減にしろよ」
寝不足のせいなのか、頭に血が上ったせいなのか、なんとなく目眩がした。
「いいよな、美人は。何をしても許されるって思っていられて……ま、そんなことだから振られるんだろうけどな」
昨夜と同じ。
無神経な言葉の連続。
「あんたにそんな事……」
言いかけたけれど。
続ける言葉がなくて、口を閉ざした。


言われなくてもわかっている。
自分の性格も。
別れた理由も。
あの少年のように素直に振る舞えたなら、彼はまだ自分の恋人だったかもしれないのに。


キュッと唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
そのままクルリと背を向けて出ていこうとしたら、ふらついて。
また、抱き留められた。
「……顔色悪いな。二日酔いか?」
吐息混じりの言葉が髪をくすぐって、抱きすくめられた途端に体から力が抜けた。
「大丈夫なのか? ちょっとここで休んでろよ。今、飲む物持ってきてやるから。その様子じゃ今日は仕事なんて無理だろ」
さっきまであんなに怒っていたくせに。
なぜか永海がとても心配しているように見えて、少しだけ気持ちが揺らぐ。
「よけいな……」
世話だと言いかけた。
もちろん永海からの反撃は予想していた。
けれど。
「余計じゃないだろ。顔色、マジで悪いって」
そう言って、永海はそっと額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど、風邪だとヤバイしな。事務所も今日は臨時休業なんだ。担当も帰っちまったし、電話も留守番メッセージ。もう誰も来ないから休んでいけって」
そんな言葉に少し呆然とした。
どうすべきかを決めかねている間に応接室に連れ込まれた。
「自分ちだと思って遠慮なく休んでいいから。なんなら毛布持ってこようか? あ、上着は脱いでその辺に置いておけよ。ついでにハンガーも持ってくるから」
ふざけているようで、案外真面目な顔で。
促されるままにソファに座った。
その途端に力が全部抜けて深く沈み込んでしまった。
もう、体を起こす事さえできそうになくて、不本意に思いながらどうすることもできなかった。

永海はすぐに戻ってきた。
「お茶しかなかったけど。なんでもいいよな?」
手にはペットボトルだけが握られていた。
グラスさえ持っていなかった。
「……そのまま出す奴なんて見たことないな」
呆れてつい口にしてしまったけれど。
永海はそれを厭味だとは思わなかったようだった。
「俺も普段は全部やってもらってるからな。どこに何があるのか見当がつかなくて。マジでコップのありかが分からなかったんだ」
ほんのりと笑って、キャップを開けてからペットボトルを差し出した。
こうしているとそれほど嫌な相手とも思えない。
だが、口が勝手に拒否を告げる。
「永海先生にお茶まで出していただけるなんて光栄です」
今回の仕事だって、ようやくOKを貰ったはずなのに。
心のどこかでこんな話はなくなればいいと思っていた。
「あのさ、」
永海はわずかに眉を寄せたものの、穏やかな口調で尋ねた。
「おまえ、俺の何が気に入らないわけ?」
気に入るとか気に入らないとかじゃなくて。
昨夜、最悪の気分で抱かれた相手が目の前にいる。
それだけで避けるには十分な理由だった。
「……別に。生理的に受けつけないだけです」
それに、関係を持ったことは他の誰にも知られたくない。
事務所の誰かに知られたら、いつかきっとあの人の耳にも入るだろう。
誰とでも寝るような人間だと思われたくなかった。


あの人にだけは―――


「あ、そう」
目の前の男は薄く笑って、けれど少し怒った口調で告げた。
「お姫さまのすることだから、大概は大目に見てやるけどな」
一瞬、笑みを消して。
真面目な口調で付け足した。
「口の利き方には気をつけろよ」
売れっ子のカメラマン。
誰もがちやほやするだろう。
言葉の端々に驕りが見えるような気がして、また刺々しい感情が込み上げる。
何にしても今の自分に威嚇など何の意味もない。
むしろ嫌われるのは歓迎すべきことにさえ思えた。
「……失礼致しました。でしたら、すぐに代わりの担当者をおつけ致します」
重い体を無理に起こして出口に向かう。
だが、ドアは永海の体で塞がれた。
「それじゃ、俺がこの仕事をOKした意味がないだろ?」
永海が仕事を引き受けた理由が自分だと言うなら、なおさらだ。
「そういうつもりなら余計にお断わり致します。2度とお会いしたくないですから」
きっぱりと言い切ったその言葉を聞いて、永海は一度目を伏せてから静かにドアを開けた。
「ああ、わかったよ。どうぞ、お姫さま」
これでようやく解放される。
そう思った時、目の前の男は恭しく一礼してから付け加えた。
「じゃ、打ち合わせはまた明日。二日酔いは治しておけよ」
ニヤリと笑ってから、強引に抱き寄せた。
「……ふざけるな」
思い切りそれを振り払ったつもりだったけれど。
体はまだ永海の腕の中だった。
「放せよ。気安く触るな」
仕事上はへつらわなければならない相手。
けれど、どうしても我慢できなかった。
「今朝は俺の腕の中で気持ち良さそうに寝てたくせに、なんでいきなりそこまで豹変するわけ?」
気に障ることばかり。
「ふざけるなと言ったはずだろ」
永海の口から漏れるどんな言葉も神経を逆撫でする。
「真面目に話してるよ。なんなら、証拠写真を持ってきてもいいけど? それとも明日、事務所に持っていってやろうか?」
ありがちな脅しだと思った。
だが、もしそれが本当だったら?
あの人に知れたら?
「写真なんて……」
撮られた記憶はなかった。
でも……―――
「デジカメだけどな」
永海の視線の先には小さなカメラ。
「ついでに一枚だけそこに飾ってみたんだけど。どうよ?」
指を差した方向にA4サイズの写真が飾られていた。
わざと白っぽく加工した写真。
モデルの顔もはっきりとは分からない。
だが、間違いなく自分だった。
「よく撮れてるだろ? 他にも何枚か撮ったけど、それが俺の一番のお気に入りなんだ」
全体的に白っぽい写真は妙にアンバランスで、左上は白いシーツが占領していた。
被写体は右下に見えるだけ。
それも眠っている横顔で、何も纏っていない肩や背中が白く浮いて見えた。
「羽が生えてきそうだと思わないか?」
ニッコリ笑って。
永海はそんなことを言った。
「……馬鹿じゃないのか」
人気カメラマンが聞いて呆れる。
こんな奴を口説き落とすためにうちの営業は何ヶ月もここに通っていたのかと思うと情けなくなった。
なのに、
「俺、こう見えて案外夢見がちな性格なんだ」
こちらの感情などお構いなしに、永海はそんな言葉と共に屈託なく笑った。
それが何故かとても眩しく見えて、無意識で目を逸らせた。
そのまましばらく黙って突っ立っていたら、永海にもう一度座るように促された。
「帰る前に打ち合わせしていけよ。すぐに済むから」
穏やかな声に流されて。
言われるままに再びソファに腰を下ろした。


その後はごく普通に仕事の話。
けれど、それが逆に気まずくて、つい余計な事を聞いてしまった。
「……寝ている間に名刺を見たんですか?」
多分、そうなんだろうと思って聞いたのに。
永海はあっさりと否定した。
「いや。昨日、事務所を出る時から尾行してた」
それも、とても真面目な顔で。
「尾行……? なんでそんな……」
仕事の依頼を撥ね付けておきながら後をつけるなんて。
「さあ。なんでかな? 強いて言うなら、『いいもの見つけた』って感じ?」
クスッと笑った顔は悪気など少しもないように見えた。
「な、笹原。俺には名刺くれないのか?」
いつの間にか勝手に呼び捨てにして。
一瞬、不愉快に思ったけれど。
それでも名刺を差し出した。
永海はしばらく何の変哲もない名刺の表を眺めていたけど。
「あのさ、」
不意にとても困ったような顔で口を開いて。
「……さっき、悪かったな。ちょっと言い過ぎた」
そんな言葉に妙に毒気を抜かれて、返す言葉を失った。
「でも、笹原もマジで口の利き方、気をつけた方がいいって。美人って、そうじゃなくても冷たく見られるから」
それだけ言って。
「……じゃ、打ち合わせするか」
その後はなんだか調子が狂ったまま。
必要なことだけを済ませて永海の事務所を後にした。



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