Maybe … "Yes"

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永海修也が仕事を引き受けたという噂はあっという間に他社にも流れた。
当面は永海が今までに撮り溜めた写真の中から適当に使わせてもらうだけだったが、仕事は次々と舞い込み、事務所は急に忙しくなった。
もちろんそれは喜ばしい事で、誰もがそれを歓迎していたから、日に10回はかかってくる永海の電話にも好意的だった。
「笹原、電話。永海センセから。いい加減、携帯の番号教えてやったら? そこまでキッチリ仕事とプライベート分けなくてもいいだろう?」
他人事だと思って軽く言うけれど。
「そうだよな。永海修也なら、これから先も使えるぞ? 親しくしておいて損はないんじゃないのか?」
課長も部長も毎日毎日同じ事の繰り返し。
もう、うんざりだった。
「なら、担当を替えてください」
何度そう言っても。
「いいから、早く電話に出て。機嫌を損ねるようなことは言うんじゃないぞ?」
流されるだけ。
永海からの電話は、10回のうち9回は用事とも言えないようなくだらない内容。
そのたびに苛々しながら対応しているというのに。
「お電話かわりました、笹原です」
できるだけ事務的な口調を心がけて、気持ちを悟られないようにしても、
『モデルの子がケーキ買ってきてくれたんだ。今から食いに来いよ。な?』
こんなわがままに何度も付き合わされるとさすがに切れる。
「相変わらずご冗談がキツイですね。私にも仕事がありますから、そういうお誘いはご容赦ください」
仕事中に電話をかけてきて「すぐ来い」なんていうのは日常茶飯事で、急いで行ってみれば「一緒に昼飯を食おう」とか、「写真を撮りにいくから付き合え」とか。
それに対して、「いちいち呼び出さないでください」と怒れば、「もうこの仕事は降りる」。
呆れるほどの我がままぶりだった。
今日だってそれと同じ。
『笹原ってさ、この仕事だけ滞りなくこなせばOKなんだろ? だったら、すぐに来いよ』
それは確かに永海の言う通りなのだけれど。
だからと言って振り回されたくはなかった。
「いい加減にしてください」
言い捨てて電話を切った。
その途端、課長と部長が血相を変えて飛んできた。
「今すぐ詫びを入れなさい。まったく、社会人としての自覚はあるのか?」
周囲も呆れ果てて遠巻きに眺めるだけ。
「……でしたら担当を外してください。何度もお願いしているはずです」
それで全て丸く収まるのに。
「笹原君を指名したのは永海先生自身だ。どうしてもと言うなら、永海先生のご承諾を……」
あんな軽薄な男に誰一人頭が上がらない。
その上、大手の依頼主が全て永海を贔屓にしてるというのだから一層始末が悪い。
そんなやり取りの間に、また永海から電話がかかってきた。
『なんでいきなり切るんだよ。笹原って新人の時にマナー研修とか受けてないわけ?』
怒っているようで、どこか呑気な口調に安堵したけれど。
「……先ほどは申し訳ありませんでした」
事務的に言葉を返すと少しだけムッとした声になった。
『おまえさ、ホントに俺と仕事する気ある? そういうの、慇懃無礼って言うんだろ?』
それでも永海は自分から電話を切ったりはしなかった。
「お気に障ったのなら謝りますが」
どうして突っかかってしまうのか。
分からないことにまた苛立って。
見かねた課長が電話を取り上げ、永海に何度も謝った。
けれどすぐに受話器を返してきた。
「笹原君に話があるそうだ。もう一度キチンと謝りなさい」
うんざりしながら、それを受け取った。
『で?』
永海の言葉にもう一度「すみませんでした」と謝ったけれど。
『そうじゃなくて。ケーキ食いに来るのかよ?』
あまりの馬鹿らしさに脱力する。
「怒ってないんですか?」
こちらが胃に穴が開きそうなほど苛々しているというのに、永海が楽しそうなのが腹立たしい。
『まあ、それは今後の笹原次第ってことで』
そんな思わせぶりな返事も気分を逆撫でした。
けれど、そんな気持ちは呑み込んで言葉を返す。
「お誘いは大変嬉しいのですが、今日はどうしてもお伺いできそうにありませんので、また後日ということに……」
まるで書かれたものを読み上げているようなセリフに、永海は、『あ、そ』とだけ告げて電話を置いた。



それからの日々も同じ事の繰り返し。
わがまま、仕事、わがまま、わがまま、わがまま……ときどき、また仕事。
朝の会議が終わった後、デスクの上に電話メモが7枚。
それも全部永海からだ。
メッセージは『すぐに折り返し電話をください』
急いでかけたところで、どうせくだらない用事なのだ。
「今日は何ですか?」
一緒に出かけないかとか、食事に行こうとか。
そんな言葉を予想していたけれど。
『今日、モデルしてくれよ』
こんな駄々も永海にとってはいつものわがままと同じレベルなのだろうけれど。
「お断わりします」
詳細も聞かずに即答した。
『なんで?』
カメラマンが永海だからとか、そんな理由じゃない。
ただ、写真が苦手なだけだ。
「とにかくお断りします」


あの人と付き合っていた時でさえ、その頼みを聞き入れたことはなかった。
『苦手だから』
そう言って断わり続けた。
あの人はいつでも少し淋しそうに笑って『無理に頼んで悪かったな』と謝った。
けれど、あの少年なら喜んでカメラの前に立つだろう。
あの人を見つめながら、気持ちの全部を向けて微笑むのだろう。


全てが、後悔になる。


『相変わらず冷たいヤツだよな。仕事の依頼してるくせに俺のスランプは救ってくれないわけ?』
受話器から聞こえる永海の声は、明かに少し落胆していた。
「そういうお話でしたら、モデル事務所にお繋ぎいたしますので……」
押し問答を繰り広げていたら、また課長が走ってきた。
機嫌を損ねるようなことはするなと釘をさされて、仕方なく当たり障りのない返事をした。
「……では、とりあえずこれからそちらにお伺いします」
ここで話していても埒があかない。
しかも、こんなやり取りを聞かれては、周囲から何を言われるかわからない。
そう思って逃げの返事をしただけ。
なのに。
『ああ、待ってるから。じゃあ、後でな』
永海の声は急に明るくなった。
OKだと思ったのだろう。
でも、この後、面と向かって断わらなければならない。
「……まいったな……」
それが妙に心苦しく感じた。
「何を揉めていたんだね?」
電話を切った途端にまた説教が始まりそうな雰囲気だった。
「別に。写真のモデルをしろと言うので断わったまでです」
手短に説明して、外出の準備をする。
「モデルねえ。いいんじゃないの? 笹原、せっかくの美貌なんだからどこかで活かさないとなあ?」
周囲からヤジが飛んで、また気分が悪くなる。
「そうだよな。永海センセを落としておいたら、この事務所も安泰だぞ?」
笑い声と冷やかしを聞き流して、
「行ってきます」
カバンと上着を掴んで事務所を出た。



永海の事務所まで電車で2駅。そこから徒歩4分。
事務所のあるフロアでエレベーターを降りると、ドアの前に永海が立っていた。
「ようこそ。お待ちしてました」
満面の笑みで、事務所の並びにあるドアを開けて、恭しく中に招き入れた。
ガランとした部屋にカメラと器材とライト。
「後はモデルとカメラマン……ってことで。笹原と俺」
楽しそうに器材の準備をしながら、ときどき振り返って微笑んだ。
悪戯っぽくて、でも、真っ直ぐで。
その笑顔がとても眩しく映った。
また、ズキンと胸が痛む。
けれど。
「……何度も申し上げましたが、それは私の仕事ではありません。プロの方にお願いしてください。永海先生の写真のモデルならいくらでも成り手はいるでしょう? なんならご紹介いたししますので」
たかが写真。
そうは思うけれど。
一番大切だったあの人の頼みを拒んでおいて、永海の依頼を受けようとは思わなかった。
「あのさ、俺、笹原に頼んでるんだけど?」
目の前の男が、また落胆の色を浮かべる。
「……そんな気はないって言っただろ」
仕事の口調にもどれなくて。
素で断わりながら、少し胸が痛んだ。
なぜ、自分なのだろう。
少しも永海に好意的ではないというのに。
「ああ、もう、いいから。とにかくそこに座って。服は脱がなくていい。雑誌でも読んで、お茶飲んで、楽にしててくれればいいから」
それでも永海は当然のように拒否の言葉を聞き流した。
誰からも拒まれたことなどないから、本気で断わる人間がいるなどと思わないのだろうか。
一人で勝手に話を進めていく。
それがまた気に障った。
「そういうことでしたら帰りますので」
自信家で、わがままで。
その気になれば手に入らないものなどないと思っている男。
やっぱり、あの人とは違う。
「断わることなんてできないぜ。俺が決めたんだから」
まるで王様気取りな言葉に思わず言い返す。
「何でも思い通りになると思うなよ」
最高に頭に来てるのに、引っ叩いて飛び出すこともできない自分にまた苛立ちながら。
永海はそれでも薄く笑った。
「いいね。社長以下全員が諂う相手にその口調。俺が上司なら即刻クビにするけどな」
売り言葉に買い言葉。
お互いが気持ちを逆撫でして。
「だったら、告げ口でもなんでもすればいい。そうすれば担当を外してもらえるからな」
どんどん嫌な方向に進んでいく。
永海との関係を断ち切りたかったなら、すぐに辞表を書いて事務所を出ればよかったのに。
それも今更。
「じゃあ、そうしようかな」
永海はニヤリと笑って付け加えた。
「俺、全てを思い通りにしないと気が済まない性質だから」
その言葉に完全に切れて、何も言わずに永海の事務所を飛び出した。



気持ちを落ち着かせるために途中でコーヒーを飲んでから次のアポ先に行った。
そこで簡単な打ち合わせを済ませた後、会社に戻った。
「遅かったな、笹原君」
まるで待ち構えていたかのように部長が出迎えた。
早速、永海が電話したのだろう。
呆れ果てたが、促されるままに応接室に入った。
腰を落ち着けて話をする必要もない。
ただ、「辞めます」と言うだけだ。
決心はついている。
心の中で繰り返して。
でも。
「お疲れ、笹原さん」
ドアを開けたら、そんな言葉で迎えられた。
ソファに座ったまま涼しい顔で挨拶をしたのは永海だった。
「例の広告も永海先生が撮ってくれることになってね。ついでに先方が指定してきたモデルの事務所も口説いてくれるそうだよ」
思い描いていたのと180度違う展開に、一瞬、状況が飲み込めなかった。
「ま、とにかく座ってよ、笹原さん」
永海に席を勧められて、またカチンと来た。
「ここは永海先生の事務所ではありませんが」
部長が顔を顰めたことも分かっていたけれど。
「じゃあ、次回以降の打ち合わせは必ず俺の事務所でするってことで。いいですよね?」
有無を言わさない威圧的な態度。
「ええ、結構です。どうぞお好きなように」
大人げないとは思いながらも、突っかからずにいられなくて。
永海がまたそれ以上に不機嫌な言葉を返す。
「笹原さんのこともお姫さま待遇でお迎えしますから、楽しみにしてて下さい」
そのやり取りの後、部長が慌てて口を挟んだ。
「すみません、永海先生。礼儀がなってなくて……もし、ご希望でしたら、担当を替えても……」
望むところだった。
だが、相手は永海だ。思うように事は運ばない。
「いえ。俺も礼儀知らずですから、それは全然構いませんが」
永海はそう言ってから、こちらを見てニヤリと笑った。
「ただ、これで当面はこちらの専属になるわけですから、それなりの待遇でお願いしたいものですね。まず、担当である笹原さんは明日から俺の事務所に出社。その他もこちらのスケジュールに極力合わせていただくってことで……いいですよね?」
そんなわがままに部長が頷くのを信じられない気持ちで眺めていた。
「あと、できればお手伝いなんかもしていただきたいな。簡単なアシスタント的業務ですけど」
そこでやっと永海の目的が分かった。
「私は素人ですから、一流カメラマンの先生の手伝いなど……」
婉曲に断わっても、永海はニヤニヤ笑ったまま。
けれど、強い口調で遮った。
「とにかく。担当は替えないで下さいね。笹原さんとは年も近いせいか気が合うし、相談に乗ってもらえるとやる気が出るんですよ。ついでに、」
次に来る言葉は予想できた。
「意欲向上のためにたまには写真のモデルなんかもしてもらえると助かるんですけどね。業務中でもそれくらいのお時間はいただけますよね?」
卑怯な男だと思った。
結局、全部を思い通りにするための策なのだ。
「それがダメなら、今後一切、こちらの仕事は引き受けません。笹原さんがこの事務所を辞めたとしてもそれは同じことです」
部長はにこやかに頷いて「どうぞ、ご自由になさってください」と付け足した。


決心してきたはずだったのに。
結局、『辞めます』という短い言葉さえ告げることはできなかった。



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