「本当に最低だな」
永海をエレベーターまで見送りながら吐き捨てた。
「そう言ったはずだろ?」
堂々と肯定されて、返す言葉がなかった。
「ま、長い物には巻かれておけよ。俺、こう見えて案外策士だからな」
華やかに笑いながらそう告げた。
厭味でもなく、高飛車でもなかったけれど。
「……だったら、なんだよ」
「次の手もその次の手も考えてあるってことだ」
こんな事態は予測さえしていなかった。
どうせ一晩限りのこと。
そう思っていたのに、こんなに振り回されるなんて。
「じゃあ、明日からよろしく。出社は9時。これ、事務所の鍵だから。誰も来てなかったら勝手に開けて入れよ」
差し出された鍵を受け取らずにいたら、手を掴まれて無理やり握らされた。
「土日は休み。月曜と水曜は俺と笹原だけだから、先に事務所の掃除とかしておいてもらえるとかなり嬉しいな」
ニッと笑って言われて。
「それのどこがお姫さま待遇?」
丁重にもてなして欲しいなんて少しも思っていなかったけれど、条件反射でそう言い返していた。
「じゃあ、俺が8時50分に来て事務所を開けて、コーヒー淹れて笹原さんをお迎えしますよ。それでよろしいですか?」
またふざけた口調になって。
でも、なんだかとても楽しそうに笑うから。
ツキン、と胸の奥が痛んだ。
「……永海先生にそんなことをして頂く必要はありません」
コップがどこにあるのかさえ分からなかった永海が。
そんなことをするはずはないと思ったけれど。
「あのな、マジでどうやって育つとこういう性格になるんだ?
お姫さまも嫌いじゃないけど、ちょっと可愛くなさすぎると思わないか?」
冗談のつもりだということは承知していたけれど。
『そんなことだから振られるんだろうけどな』
以前、永海に言われた言葉が頭を過った。
あの人は一度だって可愛げなんて言葉を口にはしなかったけれど。
永海に言われるようになってよくわかった。
拒まれるたびに少し淋しそうに笑ったあの人の顔が忘れられなくて。
隣りを歩いていた少年の笑顔を見つめていた瞳が離れなくて。
また、後悔になる。
「……言われなくても、自分の性格くらい分かって……」
その先を言い返す気力はなかった。
沈黙が流れて。
エレベーターのドアが開いても永海は乗らずに突っ立っていた。
「……お疲れ様でした。明日、9時に事務所にお伺いします」
永海の顔など見ずに頭を下げた時、
「あのな、笹原、」
永海らしくないうろたえた声が響いた。
「……なんですか」
エレベーターのボタンを押したまま、ぼんやりと返事をする。
「そこでヘコまれると俺も困るんだけど」
永海はいつもの半分くらいのトーンで、口の中でもごもごと呟いた。
自分とは違う種類の人間。
振られたこともなければ、落ち込むこともない。
「……ご自分でおっしゃったことでしょう」
そう思っていたはずなのに。
「そうだけどな……だから、そんなつもりじゃなくて、ただちょっとさ……」
エレベーターは音もなくドアを閉めて、また階下に降りていく。
なのに、永海はまだ所在ない様子で突っ立っていた。
「帰らないんですか?」
ようやく顔を上げて見た永海は、本当に困ったような顔を向けていた。
「って、おまえがさ……」
それが妙に真剣で。
母親に怒られたあとの子供みたいだったから。
なんだか少しおかしかった。
再びエレベーターが来て、ペコリと頭を下げたら永海はしぶしぶそれに乗った。
「それでは、」
言いかけた時、
「明日は笹原と俺しかいないからな」
永海がそんな言葉を返した。
少しだけ心配そうにこちらを見つめて。
だから。
「……8時45分に、お伺い致します」
その返事に永海がほんの少し笑った時、ドアは閉まった。
だからどうと言うわけでもなかったけれど。
その後、永海とはそれなりに上手くいっていた。
ちょっとした言い方でお互いが不機嫌になることはしばしばあったが、それにも慣れてきた。
けれど、傍からは険悪に見えるらしく、永海が事務所に顔を出すたびに部長がしきりと食事に誘っていた。
平たく言うならば、ご機嫌取りだ。
「どうですか、永海先生。いい店があるんですが、是非……」
何度目かに誘った時、ようやく永海が良い返事をした。
「ああ、あの店、俺もたまに行きますよ。座敷だと落ち着いて話せていいんですよね。えっと……今夜なら空いているんですけど、その先なら来月かな?」
そんな会話が通り過ぎていく。
なんだか体が重くて、いい加減帰って欲しいと思いながら聞き流していた。
「じゃあ、そういうことで。すぐに予約を入れて。いいね、笹原君?」
「……は?」
聞いていたはずなのにその言葉に反応できなくて。
すぐに部長が顔を顰めた。
「先生のご接待だよ。例の店で今夜7時」
そんな急な予約を受けるような店でもないのに。
「……はい」
ダメなら他を当たればいい。どうせ永海だ。なんとかなるだろう。
そう思って仕方なく頷いた。
「笹原さん、」
電話をかけるために立ち上がった時、不意に永海に呼び止められた。
「永海修也がカメラ持っていくから、いい部屋にしてって言っておいてよ」
そんなことを笑顔で言うのも気に障るのだけれど。
「……かしこまりました」
若い芸能人もよく使う店だ。永海の来店には弱いかもしれない。
溜め息を隠して応接を出て、言われた通りの言葉で予約を入れたら、あっさりとOKの返事があった。
夜、タクシーで永海を店に連れていった。
予想していた通り、今夜も永海は『絶対、上司は抜きで』と言い張り、二人きりの接待になった。
「わがまま言った甲斐があったな。笹原と二人だけで美味い物食えるなんてさ。正直言って、接待は苦手なんだけどな」
少し苦笑いをしてから、車を降りる。
「ちやほやされるの、好きじゃなかったんですか」
いちいち突っかかることはないのに、それも条件反射になっていた。
永海もそんな返事には慣れてきたらしく、最近はあまり言い返してこなくなった。
「そんな風に見えるのか?」
今日も穏やかな口調で、静かに問い返しただけ。
最初に会った時、浮わついた男に違いないと思った。
けれど、会う回数が増えるにつれてその印象も少しずつ変わっていく。
それを否定しながら、未だに嫌われる努力をしている自分にまた腹が立った。
永海のせいじゃない。
分かっているのに。
永海にわざと嫌な言葉を吐いて誤魔化そうとしているだけだ。
こいつなら傷つかない。
何があっても。
だから、大丈夫だと言い聞かせて。
「……見えますよ」
そんな返事にも永海は怒らなかった。
ただ、笑いもせずに「そうか」と言っただけだった。
ふと諦めたような表情を見せる永海の横顔。
またツキンと何かが心臓に突き刺さった。
自分の嫌な部分など分かっている。
それが原因で、一番大切な相手を失ったことも。
なのに、何も変わっていない。
目の前にいる相手を傷つけておいて、謝る事すらできないのだから。
店に着いて、恭しく案内されたのは特別な客しか通さないような奥の部屋。
静かで落ち着いていた。
今日に限って永海はあまりしゃべらなくて。
だから、余計なことばかりが頭に浮かんで消えていった。
あの人のこと。
永海のこと。
何を思い出しても後悔になる。
なんだかどんよりと落ち込んでいくのを感じて、溜め息が隠せなかった。
「笹原、食わないのか?」
永海が何度もそう聞いて。
「……食べるよ」
仕事で来ているというのに。
ビジネス口調にも戻れず、かと言って打ち解けた話もできないまま。
惰性で次の仕事のことを話して、なんとか流そうとしていた。
けれど、それさえままならず2時間を過ごした。
永海はその間、飽きもせずに写真を撮っていた。
笑うこともなく、話しもしないで、ただ俯いているだけの相手を撮ることに何の意味があるのか分からないけれど。
2時間、ずっとそうしていた。
会計を済ませた時、正直言ってホッとした。
「お疲れさまでした」
また、永海の顔を見ずに挨拶だけして。
「駅までお送りしますよ、お嬢さま」
相変わらず悪ふざけをする永海を無視して歩き出した。
「あのな、笹原ってさ、そういうところが……」
けれど。
10メートルも歩かないうちに足が止まった。
「……どうした?」
隣りを歩いていた永海に話しかけられて、ようやく自分が呆然としていたことに気付く。
「別に」
通りの向こうを歩いていく二人連れ。
「なんだ、笹原の知り合い? あ、もしかして2年も引き摺ってるっていう例の男か?」
永海が面白半分に興味を示す。
「ふうん、いい男じゃないか。ま、俺よりはちょっと落ちるけどな」
こんなセリフも。
自信家で弱いところなどなさそうで。
人の痛みなど分からない種類の人間だと思うのに。
「それにしても、可愛くて仕方ないって感じだよなぁ……相手の子、高校生くらいじゃないのか?
真面目そうな顔してんのに、やるなぁ、笹原のモトカレ」
あの人の隣りに笑顔の少年。
今日も顔一杯に笑って楽しそうに話していた。
それを見つめるのは、あの頃と少しも変わらない穏やかな微笑み。
あの人にこんなに年の離れた恋人がいることなど、自分の目で見たのでなければ信じなかっただろうけれど。
「相手の子も懐いてるみたいだし、いいカップルだと思うけど。笹原は気に入らないのか?」
あんな風に笑って隣りを歩くことができたなら、別れたりはしなかったのかもしれない。
勢いに任せて飛び出した後だって、あの人に追いかけてもらえたのかもしれない。
「……別に……なんとも……」
永海はさっきからずっとこちらを見て反応をうかがっている。
笑ってもいない。呆れてもいない。
「どう見ても割り込む隙はナシ。なのに、これを目の当たりにしても諦めきれないのか?」
永海に言われるまでもないこと。
けれど、返事ができなかった。
「彼氏、もしかして俺と同業者? そうだな。あの荷物。今、仕事の帰りって感じだ」
すぐ隣りに立って、通りの向こうを眺める永海の横顔。
『先生』と呼ばれて、世間からちやほやされて。
でも、こうして見るとごく普通の男。
「な、笹原のモトカレ、30くらい?
笹原といくつ違うわけ?」
覗き込む瞳もあの人のような無条件の優しさはなくて、好奇心が見え隠れする。
それでもどこか気になってしまうのは、あの人と同じ職業だから。
あの人と同じくらいの背格好だから。
ただ、それだけ。
「……そんなこと、どうでもいいだろ」
「それ、教えてくれたら、もう仕事中に誘ったりしないって約束してやるよ」
そんな嘘を信じたわけじゃないけれど。
「―――3つ」
なぜ、答えを返すのか自分でも分からなかった。
「ふうん。30手前ってところか」
「だったら、なんだよ」
「いや、別に」
永海は少し考えてから付け足した。
「笹原って、彼氏の許容範囲は前後何歳?」
「なんでそんなこと……」
「別に。ちょっとした興味」
会話を繋ぐための意味のない質問に答える必要などないのだけれど。
けれど、こんな他愛もない会話でも沈黙よりはましだと思えた。
「……年上ならいくつでも」
適当に流せばいいのに。
なんとなく正直に答えてしまって、自分でも呆れた。
「ふうん。さすがはお姫さま。しっかり自分を守ってくれる相手じゃなきゃダメってことか?」
そうじゃない。
3つ年上で、背が高くて。真面目で優しくて……
そんな相手を忘れられずにいるだけだ。
永海の目を見返す気力もなくて、口から出かかった言葉を辛うじて飲み込んだ。
「ってことは、同い年もダメなのか?」
質問はまだ続くらしくて、ときどき少し屈んでは顔を覗き込んでくる。
「……永海は、いくつなんだ」
悲しいとか痛いとか辛いとか。
そんな気持ちはなかったけれど。
かと言ってこんな会話にも永海自身にも興味などないはずなのに、なぜか聞き返していた。
「んー、内緒。俺、プロフィールは公開しない主義だから。でも、笹原よりは上だけどな」
永海はふっと笑ってから、そっと肩を抱き寄せた。
スーツの上から感じる手はずいぶんと温くて優しいような気がした。
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