Maybe … "Yes"

-6-



「なあ、笹原。今日、泊まっていけよ。明日、休みなんだろ?」
不意に投げかけられた言葉に我に返った。
「……いや」
無意識のうちに嘘をついた。
何とも思っていない相手なのに。
最初に会った日のように、流されてしまうのが怖かった。
誘いの言葉も、向こうに見えるあの人の笑顔も振り切るようにして歩き出したけれど。
永海は涼しい顔でついてきた。
「御社の課長に確認したら、『笹原は明日とあさってが休みなので』って言ってたけど?」
変に手回しがよくて。
最初からそのつもりだったことを知らされる。
相手の予定を裏で確認しておきながら、わざと気持ちを試すようなことをするなんて。
最低だと思った。
「な、俺ともう1回寝てみたら? そうすればもう少し打ち解けられるんじゃないかと思ってるんだけど。体は良かったんだろ?」
デリカシーなんて欠片もないその言い方に、告げても仕方のない言葉が口をついた。
「……彼なら……絶対そんなことは言わなかった」
もう、自分とは何の関係もなくなっているのに。
どうしても比べてしまう。


誰も勝てるはずなどない。
誰よりも好きだった人。


「そんなにそいつが好きだったなら、別れなければ良かっただろ?」
永海は不思議なくらい落ち着いた声でそう言った。
「……今さら、どうにもならないよ」
相手にするのさえ面倒だと思うのに。
なぜ答えてしまうのだろう。
「なるよ。今すぐ追いかけて奪ってくればいい。ダメでもともとなんだから怖くないだろ?」
そんな返事もあの人とは全然違う。
「……怖いよ。そんなことをして嫌われるくらいなら……」
このまま忘れたことにしてしまいたい。
少なくともあの人の中ではもう終わったこと。
中途半端な気持ちで誰かと付き合うような人じゃない。
考え込んだまま往来の真ん中で完全に立ち止まってしまうと、永海がそっと手を引いて邪魔にならない場所まで連れていった。
「なら、やめておけよ」
軽い調子で告げた後、誘いの言葉を変えた。
「で、俺んち来いよ。モデルの子からいい酒もらったんだ。『一緒にどう?』って言われたんだけど、笹原と飲もうと思って断わったんだぜ?」
馴れ馴れしく肩を抱く手。
鬱陶しいはずなのに体を預けてしまう。
「……恩着せがましい奴だな」
口をついて出るのはやはり自分の気持ちから遠い言葉。
「笹原はそういうところが可愛くないんだけどな」
笑って流してくれるのだって永海の気遣いなんだろう。
わかっていても素直になれずに口を閉ざす。
「ま、とにかくあんまり無理するなよ。……じゃ、行こうか」
そう言うと少し強引に腕を掴んでタクシーに引き摺り込んだ。
「勝手に決めるなよ」
言い捨ててやんわり手を振り払ったけれど、永海はかまわず運転手に行き先を告げた。
そして、前を見たまま独り言のように呟いた。
「落ち込んだ時は仲のいい友達に愚痴をこぼして慰めてもらう。メチャクチャに酔っ払ってハメを外して、次の日に二日酔いになって、また自己嫌悪に陥って、ついでに深く反省して」
そこまで言うとようやくこちらを向いて、少しだけ笑った。
「でも、また週末には同じようなことを繰り返して。そんな自分が嫌になって。それでも三年くらいたってから思い出したら、結構笑えて楽しいんだって。だから、な?」


そんな言葉に騙されたわけじゃない。
でも、気がついたときにはもう永海の部屋にいた。
「まあ、飲めって。あ、けど、笹原って酒はあんまり強くなかったよな」
ワイングラスに慣れた仕草で半分だけ赤い液体を注いで手渡す。
「馬鹿にするなよ」
「してないけどな」
言い返しながらも永海の存在に安堵する。
「な、笹原」
自分のグラスには口をつけずに、ただずっとこちらを見ていた。
そして。
「早く忘れろよ」
それだけ言うとそっと唇を塞いだ。
こんな気持ちで受け入れたくはないのに。
目を閉じたら、涙がこぼれた。
永海は呆れることも笑うこともなく、少し困ったような顔でつぶやいた。
「振られた時に泣かなかったのか?」
その声が信じられないほど優しく響いて。
だから。
「……戻れると、思ってた……」
本当の気持ちなんて、今さら話してもどうにもならないのに。
「バカだな。もっと早くそれをアイツに言えば良かったんじゃないのか?」
ゆるく回された腕にやわらかく抱き締められて。
「そんなこと、永海に……」
ただ、それだけのことに揺らいでしまう自分が嫌で。
嫌いだと言い続けている相手に慰められているのが悔しくて。
言い返したくてもそのあとは言葉にならなかった。

何故、別れてしまったんだろう。
嫌な事があるたびに思い出す。
あの人の瞳。
優しい言葉。
誰よりも信頼してた。
あのとき自分から追いかけていれば。
今、目の前にいるのは彼だったかもしれないのに。

「まあ、とりあえず泣いておけよ。今日は何にもしないでいてやるから」
いい加減で自信過剰で、人の気持ちなんてわからない男。
ずっとそう思っていたのに。
「けど、笹原にそんなに思われるヤツって幸せだよな」
ふわりと笑って抱き留めていた腕を少しだけ緩める。
嫌な奴でないことくらい、本当はもっと前にわかっていたのに。
「で、せっかくだから、その気持ちで次は俺のこと好きになってみるっていうのはどうよ?」
茶化したように口にするセリフも、少し前の自分なら気に障っただろうけれど。
「……シリアスな気分をぶち壊すようなこと言うなよ」
目の前の笑顔につられるように、少しだけ唇をほころばせた。



そのあとはただ飲み続けて。
別に何をするでもなく、それぞれ違うことを考えていたけれど。
「早いな、もう朝だ。面倒だから俺も休みにしようかな」
永海の横顔と。
その向こうから差し込む徹夜明けの光が、とても綺麗だった。




あれから3日。
永海には感謝していた。
けれど。
「先日はすみませんでした」
意を決して朝一で事務所に行くとすぐに永海に詫びた。
あの日、すっかり夜が明けたあとで肩にもたれて眠ってしまったせいで、目が覚めてから急に照れ臭くなり、永海が眠っているうちにそそくさと帰ってしまったのだ。
すぐに電話をした方がいい。
そんなことは分かっていたけど、結局、行動には結び付かなかった。
それどころか向こうからかかってきた電話を取ることさえしなかった。
そのまま時間は経過し、その間も相当気まずかったけれど、さすがにこのままというわけにはいかなくて今日やっと謝りにきたのだった。
「心配したんだぜ? こっちからかけても全然出ないし。笹原って電話嫌いなのか?」
怒っているようには見えなくて、それどころか本当に心配そうな顔をしていた。
それを見ていたらよけいに言うべき言葉が思いつかなくなって、また口を閉ざしてしまった。
ちゃんと自分から電話して詫びようと思ってた。
けれど、実際はしなかったのだから言い訳にならない。
いつもそうだ。


あの人の時だって―――


黙り込んでいると、突然シャッターを切る音がした。
「勝手に撮るなよ!」
こんな時くらいもっとやんわり受け止めればいいのに。
気が付いたら思い切り叫んでいた。
「なんだよ、またヒス? それともやっぱり朝はご機嫌斜めなのか?」
今度は永海も少しムッとしていた。
当然だ。
どう考えても悪いのは自分なのだから。
分かっていても素直に謝ることができない。
「笹原って変なところが強情なんだよな。弱ってる時は情緒不安定でも許してやるけど、仕事中くらい普通に接したらどうだよ。仮にも社会人だろ?」
それだって自分で嫌というほど承知していること。なのに、やっぱり言い返してしまう。
「放っといてくれよ。永海こそ、こっちが迷惑だって言ってるのに意味のない仕事ばかりさせて……何が楽しいんだよ」
立場上は単なる仕事相手。
本当なら表面的な付き合いだけで済むはずだった。
深入りなんてせず、当たり障りのない言葉を選んで口先で告げていれば良かったのに。
永海に限って、気持ちをぶつけずにいられないのは何故なんだろう。
「なんでそこまでツンケンするんだよ? もしかして自分は美人だから変な男に目をつけられやすいんだよなぁ……なんて思ってるわけ?」
相変わらずの無神経ぶり。
永海の言葉は時々何よりもカチンと来る。
気にしていることばかりを並び立てるからだ。
お世辞にも男らしいとは言えない自分の容姿に幼い頃からコンプレックスを感じていた。
人目を引くことも、美人なんて形容詞も大嫌いだった。
そう、あの人がそれを肯定してくれるまで―――

『なんで? 俺は笹原の顔、好きだけどな』

どんな場面を思い出しても優しかった。
比べて勝てる相手などいない。
だから、もうきっと誰も好きにならない。
そう思っていた。
別れた日から、ずっと。


「笹原」
永海の声で現実に引き戻される。
一瞬で消えたはずの呼びかけが優しい音で耳に残る。
そんなのはただの錯覚で、永海は単なる仕事先の相手だというのに。
「……失礼しました。では、先日お話致しましたG社の……」
まだ何となくすっきりしない気持ちで資料を取り出す。
「弊社に提出された先方のリクエストは、」
ためいきを飲み込んでそこまで言った時、不意に永海が席を立った。
窓辺まで歩いていくと、差し込む光がほんの少しかかる場所にかけられた白い写真の前で立ち止まった。
「……言っちゃいけないことってさ……大抵、言ったあとで気付くんだよな」
指先でフォトフレームのほこりを払って、写真をじっと見つめる。
とても大事そうに。
そして、愛しそうに。
永海はどんな気持ちでこれを撮ったのだろう。
ただ眠っている横顔と背中と、シーツの広がる空間だけ写真。
「言葉にするのが苦手でも、ちゃんと伝わると思ってた」
白い写真の中にいる自分は、今でもやはり知らない誰かに思える。
「これ、俺の最高傑作なんだけど……笹原は気に入らないんだよな」
あの日からずっとここにかけられたまま。
モデルの顔も撮った場所も何もわからない。
そこだけがなんだか幻想的で、不思議な空気をまとっていた。
「……全体が白く飛んでる上に背中しか見えない写真なんて……」
そう言いかけたけれど。
本当はこれが自分だということが気に入らないだけだ。
モデルが他の誰かなら素直に誉める事もできたかもしれないのに。


白くて、透明で、明るくて、柔らかで―――


「俺、高校の時からずっと撮り続けてきたんだ。十年たって少し余裕が出て、あらためて考え始めたら何がいいのか分からなくなった。だから、仕事を全部断わってしばらく休養して。俺が気に入った仕事しか引き受けないってことにしてさ……まあ、そんなのは言い訳だけどな」
業界に流れたスランプの噂。
仕事を選び過ぎるのは高飛車だとか、売れているから好き放題だなんて揶揄も飛び交った。
おそらくそれは永海の耳にも入っただろう。
「な、笹原。一番大事な物って何?」
そう言って振り返る永海の目はいつになく真っ直ぐだった。
「俺の大事な物はやっぱり写真なんだなって、これ撮った時に思ったよ」
プロなんだと思った。
そして、少しだけ気持ちのどこかが揺らぐのを感じた。
「まあ、この写真の場合はモデルがいいってことで30ポイントは上乗せされてるんだけどな」
やけにいたずらっぽい笑みを向けられたけれど、それを不愉快に思うことはなかった。
言葉を返すこともなく、ただぼんやりと白い背中の輪郭を目で追っていると、不意に明るい声で問われた。
「羽が生えてきそうだって見るたびに思うんだけど。笹原にはどう見える?」
このタイミングで感想を求められるとは思っていなかったから、少なからずうろたえてしまった。
慌てて考えてみたけれど、気の利いた言葉など一つも出てこない。
ただ、ここに写っているのが自分だとは思えなくて。
見るたびに不思議な気持ちになるだけで―――
やっと吐き出したのはあまりに投げやりな科白だった。
「……別……に」
いつだってこんなふうに、何に対しても否定的で。
暗くて無愛想でひねくれていて。
そんな自分しか知らないから。
白い空間に横たわっているのはまるで知らない誰か。
そんな気分がいつまでも抜けなかった。



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