「そっか……」
永海は少し淋しそうにそう呟いたけれど、静かにソファに腰を下ろした。
重苦しい沈黙の後、傍らのカメラを手に取った。
「な、笹原。少しでいいから笑って」
軽い口調とは裏腹になぜか差し迫って響く。
スランプの噂。
永海の言葉。
チラリと頭を過ったけれど。
「……モデルの件は、お断りしたはずです」
やはりそれしか返せなかった。
「ちょっとくらいいいだろ。撮っても他の奴には見せないから」
なぜ、自分なのだろう。
モデルならいくらでもいるのに。
「プロの方に頼んでください」
繰り返し同じ疑問が巡っていく。
「笹原じゃなきゃ、ダメなんだけど」
―――頼むから……
そう言われて、少し気持ちが動いたけれど。
「……お断りします」
そう告げた時、永海は溜め息をついて、暗い表情を浮かべた。
「じゃ、仕方ないから仕事の話でもするかな」
うつむき加減でそう呟いて。
後は普段通り。
ときどき悪ふざけとしか思えない冗談を言いながら打ち合わせをした。
「一応、これで引き受けるけど。俺、まだ少しスランプだから。あんまり期待するなって言っておいてくれよ」
ときどきあの写真に目を遣る永海の視線に気付くたびに苦しくなる。
永海の大切な一枚。
分かっていても、受け入れることはできなかった。
その日から、また永海との間に少し距離ができて、仕事以外の用事で話す事はなくなった。
以前は日に10回もかかってきた永海からの電話もプッツリと途切れた。
「笹原、例のヤツ、締め切り変更になったんだ。永海先生に少し急いでもらうように頼んでくれないか?」
なのに、周囲は勝手に上手くいってると思い込んで、本来ならかなり言いにくいことまで平然と頼んでくる。
「……わかりました」
気が重かったけれど仕方ない。
仕事だからと自分に言い聞かせて深呼吸をした後、受話器を上げた。
ちゃんとした用事があるのだから、必要なことだけ伝えて切ればいい。
「K'sの笹原です」
永海だって、もう口を利くのが嫌だから電話をしてこないのだろう。
そう思っていたのに。
『……よかった』
本当に安堵した声がそう告げた。
何がよかったとか、だからどうとか。
そんなことは言わなかった。
「あの……スケジュールが変更になりまして、申し訳ないんですが少し早めに写真を頂けないかと……」
事務的な口調。
自分でも冷たく聞こえるほど感情のない声だったけれど。
『いいよ、もうできてるから。夕方取りにきて。んで、晩飯奢ってくれ。分かってると思うけど、上司は連れてくるなよ』
いつもと同じ返事にほっと息を吐く。
「わかりました。5時にお伺い致します」
電話を切って交際費の申請を書いた。
その程度のわがままなど可愛いものだと言いながら部長は笑って書類にサインをした。
「いくらかかっても全額交際費で落としていいから。失礼のないようにしなさい」
妙に愛想良く送り出されて、嫌悪感が募る。
それなのに、ここで働く以外の道を選べない自分にも嫌気が差した。
柔らかく日が差し込む静かな事務所。
永海はやはりいつもと同じように出迎えて、依頼されていた写真をテーブルに広げた。
「さすがは永海先生ですね」
口先だけの賛辞とは別に、気持ちの奥でプロという言葉を噛み締めた。
何気ない表情。
けれど、人目を引く。
スランプだと言っていた人間が撮れる写真ではなかった。
「なんだよ、それだけ? やる気なくなるな」
永海は冗談とも本気ともつかない愚痴の後、写真を片付けた。
「……スランプじゃなかったんですか?」
永海は少し憂鬱そうに視線を上げて、不機嫌な返事をした。
「スランプだよ。見ての通り」
そう言われたものの、素人目にはどこにそれが表れているのか全くわからなかった。
たとえ永海が不満に思っているとしても、これを持ち帰ったら、部長も課長も大喜びするに違いない。
「私にはわかりませんが……」
正直にそう告げたら、永海は溜め息をついた。
「……笹原に言われてたよりも少ないだろ」
永海は面倒くさそうにまた写真を並べた。
最初の打ち合わせでは4枚の予定だった。
淋しそうな横顔、凛とした表情、ぼんやりした瞳、それから満面の笑み。
けれど、テーブルに並べられた写真は3枚。
笑顔の写真はなかった。
「大丈夫です。これで十分ですから」
もともと4枚くらいで、という曖昧なリクエストだったのだ。
これだけの写真があればどうにでもなる。
いや、正直なところ、どれか一枚でも十分だと思った。
「でも、なんで……笑ってる写真なんて撮りにくくないでしょう?」
単純に考えて笑顔の写真が一番撮りやすい気がした。
だから、何気なく尋ねたのに。
その言葉を聞いた永海は苦い表情を浮かべた。
「……笹原が俺に笑ってくれたら、そうなのかもしれないけどな」
冗談には聞こえなかった。
沈鬱な表情の永海にどう答えていいのかわからないままに言葉を返す。
「そんなこと、関係ないと思いますが」
もしかしたら、また突っかかってくるのではないかと身構えたけれど。
永海は口元に自虐的な笑みを浮かべて、「スランプだからな」と言っただけだった。
沈黙が流れて。
応接室に置いてある時計の秒針の音まで聞こえてきた。
重苦しさに耐えかねて、深く息をつく。
それに気付いて、顔を上げた永海が面倒くさそうに口を開いた。
「……で、これでオッケーならこのまま御社にお送りいたしますけど」
投げやりにも聞こえる言葉が頭上を通り過ぎた。
「もちろんOKです。お忙しいところ、本当にありがとうございました」
型通りの言葉に永海はまた素直にムッとした。
「あのさ、笹原の感想聞かせてくれよ。一応、担当なんだろ?」
それでも黙り込んでいたら、永海に詰め寄られた。
「何でもいいから。ちょっとくらいなんか言ってみろって」
少し焦りながら言葉を探したけれど。
社交辞令抜きで何かを誉めることなんてなかったから、適当な言葉が見つからなかった。
散々考えた挙句、一番短い感想を言った。
つまり、「いい」か「悪い」かだ。
「……いいよ、すごく。口も性格も最悪だけど、プロはプロだな」
もっと他の言い方だっていくらでもあるのに。
なんでこんな言葉しか出てこないのだろう。
自己嫌悪一歩手前で目を逸らせた時、永海はいつもの笑みを浮かべた。
「ふうん。そう……ま、言ったのが笹原だってことを考えれば5段階評定で4は貰えた感じかな」
そう言って、窓辺の写真に同意を求めるように、ふわりと穏やかな微笑を投げた。
「じゃ、行くか。交際費で落とす予定なら、それなりのところに行くけど、どうする?」
急に元気になった永海は、写真をアシスタントに渡してさっさと帰り支度を始めた。
「そのつもりです。ご接待ですから……どちらがよろしいですか?
永海先生のご希望があればなんなりとおっしゃってください」
事務的な口調を崩さないまま答えるとクルリと振り返って眉を寄せた。
「その呼び方、止めろって。笹原ってホント扱いにくいよな」
そう言われて、また固まりそうになっていたら、背後から咳払いが聞こえた。
立っていたのは最初にここに来た時に対応してくれた担当者。
いつ見ても物腰の柔らかな落ち着いた人だった。
「すみません、笹原さん。永海、日本語が正しく使えなくて」
笑顔で詫びる。
その様子も厭味なところなど少しもない。
「小池さん、それって酷くない?」
永海が子供のようにムッとするのを彼は苦笑しながら見ていたけれど。
「だって、そうでしょう? そう言う時はせめて『付き合いにくい』って言うべきじゃありませんか?
扱いにくいなんてことを言うから、世間の人に高飛車だとか何様だと思っているんだとか言われるんですよ」
「そんなの、言わせておけばいいだろ」
小池さんは永海の返事に少し肩を竦めたけれど。
「だいたい仕事なんですから『永海先生』って呼ぶのは普通でしょう?
永海君こそ相手の方を呼び捨てにするってどうなんですか?」
穏やかな笑顔を崩さずに永海をたしなめる。
「いいんだよ、それは。な?」
永海がチラリとこちらを見たけれど。
何の反応もできなかった。
「よくないでしょう? 笹原さん、永海君よりも年上じゃないんですか?」
今度は小池さんに尋ねられたけれど、永海の年など知らなかった。
でも、それを聞いた永海は少し得意げに答えた。
「それはハズレ。俺の方が上だよ」
そう答える永海が普段よりも子供っぽく見えて、ほんの少しだけ笑いが込み上げる。
「あ、そうなんですか。笹原さん、落ち着いていらっしゃるから……というよりは永海君が大人げないんでしょうけどね」
にっこり笑われて永海がふてくされるのもなんだか微笑ましく思えた。
「でも、俺の方が年上なんだって。笹原、26だろ?」
誰に聞いたのか知らないけれど。
永海はちゃんと年齢を知っていた。
「……はい」
「じゃあ、やっぱ俺が上」
永海の見た目と、口の利き方、笑い方。
それら全部がなんとなく子供っぽく思えたから、年下かもしれないと思っていたのに。
「……上だったんですか」
ボソッと呟いたら小池さんに笑われた。
「ほら、みんなそう思いますよ。その言葉遣いとか。笹原さんもたまには注意してあげてくださいね」
そんなことまで言われたけれど。
「無理だって。笹原、俺より社会不適合だから」
永海がすぐに否定した。
「だから。それがダメなんですって。いつも言ってるでしょう?」
なんだか大人と子供の会話のように聞こえるやり取りを少し羨ましく思いながら聞いていた。
永海はこの人をとても信頼しているのだろう。
一人の時は決して見せない表情にそれが窺えた。
「……いえ、私は……本当に上司にもよく注意されるので」
永海を庇おうとか、そんな気持ちはなかった。
でも、小池さんはそう受け取ったようだった。
「いいんですよ、永海を甘やかさないでくださいね。気づいたことがあったら何でも言ってやってください。こんな性格ですから、かなり言い続けないと直らないかもしれませんけど。ちやほやすると本人のためにならないので」
永海はこうやっていつも小池さんに注意されているんだろう。
当たり前のようにその言葉を受け止めていた。
「まあ、人に言われないとわかんないこともあるしな」
さらりと笑顔で答えて掛けてあった上着を取った。
「それより、笹原。メシ食いに行こう」
さっさと帰り支度をして人のカバンまで取り上げる永海を小池さんはずっと笑って見ていた。
永海がカメラマンを始めた頃からずっとマネージャーをしていた人。
きっといろいろなことを知っているのだろう。
「あの、もしご都合がよろしければ小池さんもご一緒にいかがですか?」
少しでも話が聞けたらと思った。
なのに。
「ダメに決まってるだろ??」
永海がムキになって断りを入れた。
「なぜですか? 小池さんにはいろいろとご尽力頂いておりますので……」
そう永海に言い返す間も、小池さんは笑い続けていたけれど。
ひとしきり笑った後で穏やかに口を開いた。
「笹原さん、けっこう天然ですか?」
「……え?」
予想していなかった質問に戸惑っていると、代わりに永海が答えた。
「ああ、そうだよ。天然なくせにお姫様で、それなのにすぐヘコむんだよ。しかも、意地っ張りだし、口の利き方知らないし。ほんっと話すだけでも大変なんだぜ?」
小池さんはそれさえ笑いながら聞いていたけれど、その後、静かに言った。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔しようかな」
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