永海は店に着いた後もずっと文句を言っていた。
「小池さんってさぁ、自分のしてること分かってる?」
ホントにジャマなんだよ、と何度も言う永海を笑いながら、小池さんは手際良く食事の手配をした。
「もちろん分かってますよ。永海君こそ、本当に笹原さんと二人きりで食事がしたいなら、仕事上の立場なんて利用しないで自分の努力でOKをもらったらどうです?」
「……んなことができるくらいだったら、こんな姑息な手は使ってないんだよ」
小池さんにからかわれて、ふて腐れながら箸をいじっている永海がなんだか少し可愛く思えた。
「人の失恋を喜んでいるからですよ」
「俺、振られたことなんてないからな」
最初に会った日と同じ科白。
あの時は厭味な男だと呆れ果てたけれど。
「永海君のは、好きな人に『好きだ』って言えないだけじゃないんですか?
だったら振られることもないですもんね」
「うるさいよ」
仲睦まじく交わされる会話に入っていくこともできなくて。
少しだけ疎外感を味わいながら、永海が赤くなっているのを不思議な気持ちで眺めていた。
一時間くらいで軽く夕飯だけと言っていたはずだったが、時間はあっという間に過ぎていった。
接待される側だというのに、小池さんは常に配慮を怠らなくて、永海と二人だったらぶつかってしまうような場面でも、にっこり笑いながらさりげなく軌道修正をしてくれた。
永海が誰よりも彼を信頼しているというのも解かる気がした。
「え? 永海君がですか? う〜ん、信頼っていうか、甘えてるだけですよね、永海君のは」
「うるさいな。だいたい小池さんがいつまでも俺を子供扱いするから……」
仕事上は二人ともお互いを呼び捨てにしていたけれど。
プライベートでは『永海君』と『小池さん』なのも、なんだかとても微笑ましかった。
そんなことを思いながらうっかり笑っていたら、永海と目が合って。
ムッとするかと思っていたのに、思い切り笑顔を向けられた。
それに対してどうしていいのか分からなくて目を逸らせた時、小池さんに尋ねられた。
「笹原さん、前にお付き合いしていた方とはどちらで知り合ったんですか?」
穏やかな声と笑顔が心地よくて。
そんなプライベートなことを聞かれても不思議と不愉快ではなかった。
「彼も以前はうちの事務所で働いていて……今は独立して自分のオフィスを持っているんですが……」
話しながら、彼と出会った頃のこと、好きになった時のことがスッと頭の中を抜けていった。
「どちらが先に好きになったんです?」
小池さんは自分と奥さんとの馴れ初めなんかも話しながら、さらりとそんなことを聞いた。
彼の隣りに座っている永海は、そんな話題には関心などないという表情で酒を飲んでいた。
「……好きだって、自分から言いました」
生まれて初めて、自分から告げた言葉。
こんなことを言ったら、もう二度と顔を合わせられないかもしれないと思って、辞表まで用意して告げた言葉だった。
あの人は少し驚いていたけれど。
嫌な顔も、困った顔もしなかった。
『えっと……今すぐ返事って言われると困るんだけど……』
そう言った時も少し照れているように見えて。
ひどく安堵した。
『……とりあえず夕飯、食べに行こうか?』
会社にいる時と少しも変わらない笑顔を見せて。
そんな返事をしてくれた。
「それで? その後、どうして付き合うことになったんですか?」
小池さんが尋ねる傍らで永海は黙々と箸を進めていた。
そんな話など聞いていないのかと思ったのに。
返事に詰まっていたら、不意に顔を上げた。
「嫌なら無理に答えなくていいからな」
ムスッとしたままだったけれど。
気を遣ってくれているのが分かった。
「嫌ってわけじゃ……」
ただ、思い出して感傷に浸ってしまうだけ。
『友達からでいいなら』
あの人がそう言って。
その後も何度か二人で食事をして。
それから、部屋に行くようになって。
週末を一緒に過ごすようになった。
キスをして。
抱かれて。
当たり前のように少しずつ。
でも、ちゃんと受け止めてくれた。
いつでも気遣ってくれた。
そして、嘘なんて一度も言わなかった。
「そうですか。優しい方だったんですね」
話し終えて、少しぼんやりしていると小池さんがほうっと溜め息をつきながらそう言った。
それから、永海に向き直って肩を叩いた。
「永海君。わかりましたよ」
「……何が?」
一人で酒を飲みながら関心なさそうに聞いていた永海が問い返した。
「笹原さんにモデルの件をお願いするに当たって、永海君に致命的に足りない物です」
小池さんは笑いながらグラスに酒を注ぎ足した。
「んなもんないって」
永海から返ってきたのは、いつもの自信過剰な返事。
けれど、小池さんはさらりとそれを聞き流し、こちらに同意を求めるように言い切った。
「包容力。足りないというか、永海君には全くありませんからね」
その言葉を永海は口の端で笑って、すぐに言い返した。
「そんなの、笹原がもうちょっと大人になればいいだけだろ。相手に甘えてんのがミエミエなんだから」
永海の言葉は相変わらずまっすぐで、痛い所ばかり突いてくる。
表面的な付き合いをしている相手には絶対に言わないこと。
けれど、もし本当に相手を思い遣るなら、告げてやるべき言葉。
永海に悪気がないことは分かっていた。
普段、自分が小池さんに言われていることだから他人に言うのも遠慮がないだけなんだろう。
だから、素直に受け止めようと思っていたけれど、やっぱり永海は間髪入れずに小池さんにたしなめられた。
「ほら。そういうところが」
ついでに、少し厳しい口調で付け足した。
「そんな態度でモデルなんて面倒な頼みごとをしようっていうのが甘いんですよ、永海君」
それを聞いても永海は不機嫌になることもなく、大真面目な顔で言い返した。
「甘くないって。笹原がわけのわかんない言い訳で断わってるだけなんだぜ?」
言い訳も何も「お断りします」の一点張りだから、永海はどうしても納得できないのだろう。
それでも小池さんはそれも永海が悪いのだと言って、こちらに笑顔を向けた。
「本当に。永海君って大人げないんですよね」
同意を求められて少し躊躇ったが素直に頷いた。
「それ、笹原にだけは言われたくないよな」
永海がそんな言葉を返すと、小池さんは苦笑いしていたけれど。
「永海君と笹原さんって、二人きりの時はどうやって会話してるんです?
まさかその横柄な態度で話してるわけじゃないんでしょう?」
永海の顔とこちらを見比べながらそんなことを聞いた。
「このまんまだよ、俺も笹原も。……だからって、うまくいってないわけじゃないって。な、笹原?」
永海が少しムキになって同意を求めるから。
「……そうですね。多分、傍から見るほど険悪ではないと思います」
とりあえずそう答えたら、小池さんはなぜか本当に嬉しそうに笑顔を向けた。
三人ともほどよく酔った頃、会社から電話が入って席を立った。
「ええ、大丈夫です。それは例の件で……もう対応していますので」
こんな時間にかけてきた割にはたいした用事でもなくて、一分ほどで済んだ。
座敷の前まで戻った時、またメールが入って、面倒くさいと思いながらもその場で何通かやり取りをした。
小さなボタンを押しながら、そっと部屋を覗き込むと永海と小池さんの背中が見えた。
「な、小池さん。あんな人が目の前で眠ってたら、小池さんだったらどうする?」
永海はもうかなり酔っているようで、心なしか声が緩んでいた。
「それで永海君は思わず写真を撮ったの? 本人の承諾なしに?
いくら眠ってるからってそれは失礼でしょう?」
小池さんは笑って永海の返事を待った。
「だってさ、羽が生えてきそうだと思わない?」
それが答えになっているとは思えなかったけれど。
小池さんはクスクスと笑って、
「大袈裟だね」
そう返した。
「けど、小池さんだってあの写真見て驚いただろ?」
返事を求める永海の声はとても弾んでいて、まるで子供が今日学校であった出来事を母親に話しているようだと思った。
「ええ、もちろん驚きましたよ。もしかして永海君、無理なことしちゃったのかなって」
小池さんはどこまで冗談かわからない返事をしながら、やはり穏やかに笑って永海に酒を注いだ。
「どういう意味だよ」
「長い付き合いですから。永海君の好みくらい把握してるってことですよ」
その言葉に永海は少しだけ笑って。
「無理なことなんてできないよ。だってさ、」
そこで言葉を止めた。
それから、何かを思い出すように少し目を細めたけれど、それ以上は何も言わなかった。
「それで、あの写真のモデルは笹原さんなんですか?
それとも、あの写真の人に似てるから笹原さんにモデルを頼んだの?」
小池さんの問いに、永海は「教えない」とだけ答えて楽しそうに笑った。
その後、短い沈黙が流れて。
でも、すぐに永海がちらっと小池さんを見上げて口を開いた。
「でさ、」
酷く言いにくそうにグラスを口に運ぶ。
「なんですか?」
たぶん、小池さんはその先の言葉も予想できていたのだろう。
「笹原なんだけど……どう言ったらモデル引き受けてくれると思う?」
微笑んだままで聞いていたけれど。
「さあ? いろいろ考えて頑張って口説いてみたらどうですか?」
サラリとかわして、おしぼりでテーブルを拭いた。
「小池さん、今回ヤケに冷たいよな。いつもなら代わりに説得してくれるだろ?」
永海の甘えが見え隠れする口調に、小池さんは苦笑していたけれど。
「撮った写真を仕事で使う気があるのでしたら口説いてもいいですけど?」
少しだけ厳しい口調で言った後、永海を見つめた。
永海はしばらく沈黙していたけれど。
「……だったら、自分で言う。小池さん、今日は俺たち残して先に帰ってくれよ」
きっぱりと断わって、またグラスに口をつけた。
「いいですけど。笹原さん、明日もお仕事では?」
小池さんも手帳を開けて永海のスケジュールを確認したけれど、すぐにパタンと閉じてしまった。
「笹原、明日は休みだよ」
また得意げにそう言ったけれど、それさえも小池さんに注意された。
「永海君、もしかして、それで『明日休みにしろ』なんて言ったんですか?」
それでも永海は何も答えずに笑っていて、小池さんに呆れられていた。
「まあ、永海君もたまにはゆっくり休んだ方がいいとは思いますけどね。でも、いくら気になっても相手の事を調べるのは失礼ですよ?」
毎回こうやって礼儀を教えてくれる人が近くにいるのに、永海があんな性格なのはどうしてなんだろうと不思議に思うけれど。
「笹原のスケジュールは向こうから勝手に教えてくれんだよ。メールで自動的に入るんだぜ?」
咎められても気にする様子もない。
「そうですか。まあ、仕事の関係なら担当者の不在は教えてくれるかもしれませんけどね。……じゃあ、笹原さんの年齢も、会社の方が勝手に教えてくれたんですか?」
そう聞かれた時、永海は真顔で口を尖らせた。
それから、気まずそうに言い訳をした。
「……笹原、年上としか付き合わないって噂だったからな」
その言葉が耳に入った瞬間、何故か急に息苦しくなった。
なんとなくその場にいられなくなって、そっとトイレに行った。
メールの内容をもう一度すべて確認して、顔を洗った。
気持ちを静めて二人のところに戻った時には、永海は座布団を枕にして眠っていた。
「寝てしまったんですか?」
「すぐに起きると思いますけどね……飲んでいても飽きると寝てしまうんですよ」
小池さんは少しだけ苦笑いをして眉を寄せた。
でも、永海を見下ろす瞳は優しかった。
「……飽きると、って……」
ちやほやされてきたのだろうなと思ったのが顔に出てしまったのか、小池さんはもっと苦い表情を浮かべて呟いた。
「甘やかし過ぎたみたいですね。笹原さんにもいろいろとご迷惑をお掛けしているのでしょう?」
そう尋ねられて、最初に会った日から今日までの事を思い返してみたけれど。
「……いえ、こちらこそ……」
どう考えても永海のことをとやかく言えないような気がした。
それどころかこれまでのやり取りを思い出して、また自己嫌悪に陥りそうになる。
居たたまれなくて俯いていたら、不意に小池さんが口を開いた。
「ね、笹原さん、」
「はい」
少し身構えたけれど。
小池さんは笑顔のままで他愛もない話を始めた。
「うちの事務所の応接に飾ってある白っぽい写真、ご覧になりましたか?」
「……はい」
「永海君のお気に入りなんですよ」
おそらく、あのモデルが誰かなんて、この人は最初から分かっているのだろう。
「そう伺いました」
「笹原さんにも『羽が生えてきそうだと思わない?』なんてふざけたことを言ってました?」
傍らで眠っている永海の顔と、こちらを交互に見ながら。
少しだけ笑みを浮かべた。
「……はい」
気まずくはなかったけれど。
少し照れ臭いような気がした。
「綺麗に撮れているでしょう? お客さまの評判が良過ぎて、永海君、あの写真を自分のデスクにしまい込もうとしたんですよ。他の人に見せるのがもったいないって」
バカみたいですよねと言いながらも楽しそうに笑う小池さんを不思議な気持ちで眺めていた。
「あの写真、笹原さんに似てますよね?」
分かっているはずなのに。
あえて確認するのは何故なんだろう。
「そう、ですか」
そんな曖昧な返事もただ笑顔で受け止めて、さらりと付け足した。
「ええ、羽が生えてきそうなところが―――」
そう言って、しばらくクスクスと笑った後、小池さんは少し真面目な顔を向けた。
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