打ち合わせに出向いた永海の事務所。
オフィスのドアを開けるとすぐに、受付の女性に笑顔で迎えられた。
「おはようございます、笹原さん。先生、朝からずっとお待ちですよ」
適度な広さのオフィスには受付と事務がそれぞれ一人ずつ。
あとはマネージャー兼秘書の小池さんと「有名カメラマンの先生」である永海の4人だけ。
永海がどういうつもりで自分を担当にしているのかはここの全員が知っている。だからこそ身内のように扱われるのだが、それがかえって気恥ずかしくて、時折り返事に詰まる。
「……失礼します」
わざと他人行儀に挨拶だけをして通り抜けようとしたのに。
「いやだ、笹原さんたら。もういいかげん普通に話してください」
本当におかしそうに笑われてしまった。
応接室の前に立つと、開けっ放しのドアの向こうに朝から待っていたという男が踏ん反り返って笑顔を見せていた。
「おはよ、笹原」
およそ仕事中とは思えないラフな服装。
しかも、パッと見はひどく横柄な態度。
それでも、楽しそうに手招きされると腹を立てる気も失せてしまう。
「あのさ、笹原。どうでもいいけど、もっと早く来いよ。待ちくたびれただろ」
仕事などする気はなさそうなのに、傍らには愛用のカメラ。
これだけはよほどのことがない限り手放さない。
十年という長い時間を第一線のカメラマンという肩書きで送ってきた男。
自信家で鼻につく時もあるけれど、それがかえって人を引きつける。
仕事柄トップモデルとの付き合いもあるし、相手に困るようなタイプでもない。なのに、なぜ自分なのだろう。
今でもそれだけは分からないままだ。
「……お約束は11時のはずですが」
時計を見たら11時5分前。文句を言われるような時間ではなかったけれど、それさえこの男には関係ない。
「アポイントがいつかなんてどうでもいいんだよ。朝の仕事が終わったらすぐに来いって言ってんの」
一緒にいる時間が短くなるだろ、と真顔で告げる。
同い年だからなのか単なるポリシーなのか、こちらがどんなに真剣に仕事の話をしても絶対に丁寧語を使わない。
おかげで一緒にいるとひどく調子が狂う。
「では、打ち合わせを―――」
とにかく仕事の話を進めなければ。そう思って資料を広げたが、タイミング悪く事務の女性がお茶を乗せたトレイを持って入ってきてしまった。
「美味しいリーフを頂いたので今日は紅茶にしてみました。海外旅行のお土産なんですけどすごくいい香りなんですよ」
口元に笑みを湛えて温めたカップをテーブルに置くと、ポットから優雅な仕草で紅茶を注ぐ。
無理にでも仕事の話をするつもりだったのに、湯気とともに香りが広がると思わずほっと息をついてしまう。
永海にはあれこれ文句を言うけれど、正直なところここは自分の会社よりずっと居心地がよかった。
「ありがとうございます。なんだか本格的ですね」
ポットにティーコージーをかぶせる様子にまた見とれていたら、「旅行はお好きですか?」と唐突に聞かれた。
ここ数年旅行らしい旅行などしていなかったなと思った時、踏ん反り返っていた男が腕組みをしたまま口を挟んだ。
「とか言って、笹原を誘うなよ」
女性相手にその言葉。
しかもひどく真面目な顔をしていることにも呆れ果てた。
「永海……おまえ、何言ってるんだよ」
言われるこちらがどれほど気恥ずかしいかなんて少しも考えないらしい。
「笹原は俺のものだからなって言ってんの」
そんなふざけた台詞さえ真顔のまま告げて、彼女に「はいはい、わかっています」と笑顔で流された。
溜め息をつく自分の隣では、小池さんが笑いをかみ殺していて、
「冗談はそれくらいにして、打ち合わせをしましょうか」
すぐに軌道修正を図ってくれたけれど。
「ああ、いいよ。打ち合わせだろ。笹原、金曜の夜、空いてる?」
永海はあくまでもプライベートモードから離れる気はないらしく、今度は週末の予定を話し始めた。
「……仕事の打ち合わせをしてください」
不機嫌のメーターが振り切れそうになっているこちらの内心などお構いなしに、永海は普段通り余裕の笑みで切り返した。
「それは笹原に任せるよ。内容を決めてから持ってこいって」
打ち合わせ嫌いは今に始まったことじゃない。
それは承知しているけど。
「先方は永海先生が撮りやすいものでと仰ってくれているのですから、基本的なことくらいはちゃんと……」
クライアント側の『カメラマンサイドが思うままに撮った写真なら、出来も最高に違いない』という発想もたいがい安易だとは思うけれど。
だからと言って、「打ち合わせは嫌いだからそっちで勝手に決めてこい」はないだろう。
言いたいことは山ほどあったが、それさえ途中で遮られた。
「どんなリクエストでもちゃんと撮ってやるから大丈夫だって言ってんだよ。第一、それって超一流カメラマンに対してする心配じゃないだろ」
こんな言葉だって決して冗談で言っているわけではない。
いつまで経っても永海とのことに結論が出せないでいるのも、この性格についていけないせいなのに。
「じゃ、そういうことで。それより、いい店教えてもらったんだ。雰囲気も良くて、いい酒が揃ってる。今はモデルの子なんかがこっそり通う程度だけど、きっとすぐに雑誌に取り上げられて有名になるから、その前に行ってみよう。週末は空けておけよ」
誰が相手でもこんな調子だから、マスコミに叩かれたことも一度や二度じゃない。
その度にサポート役の小池さんはひどく苦労しているというのに、永海本人は「言わせておけばいい」と吐き捨てて終わり。
どんな中傷にもめげることはない。
何事にも動じない神経には感心するけれど、自分が対等に付き合える相手とは思えなかった。
「……お誘いは嬉しいのですが、あさっての夜は仕事の打ち合わせが入るかもしれませんので」
そんな断り文句もいつもと同じ。半分は本当で半分は逃げだ。
けれど、やっぱり永海は怯むこともなくサラリと先に進めてしまう。
「じゃあ、打ち合わせが入らなかったらOKってことで。店予約しておくから、都合が悪くなったら言えよ」
遠慮などという言葉には無縁の男だから、こんな調子で今日も押し切られてしまう。
おかげでここ何週間かは週末のたびに永海と一緒。
だからと言って何があるわけでもなく、ただ食事をして別れるだけなのに。
「……わかりました」
渋々頷いてから話を仕事に戻そうとしたけれど、永海は依頼書を見るわけでもなく、くつろいだ姿勢のまま次の質問をしてきた。
「金曜の打ち合わせって、もしかして笹原のモトカレの事務所と提携してやるっていうヤツ? どこまで進んでんの?」
その予想は当たっていたけれど。
『モトカレ』なんていう言葉を使われると思っていなかったので、意味もなくうろたえてしまった。
「……え……そう、だけど……まだ、連絡もあまり……」
2年も前に別れた相手。
すっかり終わったことなんだと永海には何度も言ったはずなのに。
「なんなら俺が代わりに電話かけてやろうか?」
未だに余計な気を回しているのか、それとも先ほど返事に詰まってしまったせいなのか、少し心配そうにそんな言葉を口にした。
「……そんな必要ないよ」
子供じゃないんだからと言いかけて、隣りで小池さんが笑っていることに気づく。
急にためぐちになってしまった自分を笑ったのかと思ったけれど、どうやらそれが理由ではなかったらしい。
「なんだよ、小池。俺は別に笹原がモトカレと二人で話すのが嫌で言ってるわけじゃないんだからな?」
子供みたいに突っかかる永海に小池さんはにこやかな笑みを向け、やんわりと嗜めた。
「誰もそんなことは言ってませんけどね。だいたい笹原さんからちゃんとOKを頂いていないのに恋人気取りはいただけませんよ、永海君」
こちらから言ってしまったら険悪になりそうな言葉を、小池さんはいつだってきちんと永海に伝えてくれる。
お礼の代わりに少しだけ頭を下げたら、やわらかな目線を返してくれた。
わがまま放題の永海を注意できる唯一の人。自分にとってもその存在はありがたかった。
もっとも永海がその言葉をちゃんと聞くのは五回に一回くらいで、ほとんどの場合何の効き目もないのだけれど。
案の定、今日も永海は少しもめげることもなく切り返してきた。
「ふうん。じゃ、その話からするか。笹原も毎日聞かれるのに飽きただろ? もういいかげんOKしろよ」
できるだけ先送りにしたいと思っている自分とは反対に、会うたびに必ず一度は返事を求める永海。
「……するわけないだろ。そんなこといいから、仕事の話しろよ」
毎日毎日同じ事を聞かれて、同じ答えを返す。
半ば無意識で口から出てくるほど習慣化されてしまった遣り取りだけれど、永海は笑いながら明るい口調で話し続ける。
「俺もそんなに待つつもりはないからな。さっさと『うん』って言っとかないと後悔するぞ」
口から出る言葉はいつだって呆れるほど強気だけれど、週末に二人で会っても一緒に飲んだり話したりするだけで、それ以上を求めることはない。
どんなに投げやりな『No』を告げても、それに焦れて切れたこともない。
「まあ、永海君も多少の我慢ができる程度には大人になったってことですね」
小池さんが楽しそうに笑いながら茶化して。ついでに、
「まあ、相手が笹原さんじゃ仕方ないですけどね」
そんなふうに付け足すから、こちらもつい「すみません」と謝る。
それだって、もう何度繰り返されたか分からないような遣り取りなのに。
「ああ、もう、笹原。こういうタイミングで暗い溜め息つくなよな。仕事の話してやらないぞ」
上手くいくかどうかなんて分からないことをいつまでもグズグズと決めかねている自分に心底嫌気が差す。
「さ、さ、は、ら。俺の話聞いてるか?」
何の進展もないまま、ただ過ぎていくだけの日々。
「……聞いてるよ」
自分でもうんざりするほど優柔不断だと思うけれど、どうしても"Yes"のひとことが言えなかった。
週末のこと、永海のこと。
少しでも時間があるとつい考えてしまう。
考えたからといって何かが変わるわけでもないのに……―――
「ただいま戻りました」
見慣れたフロア。自分の席について、コーヒーを入れて。
それから、お決まりのようにまた溜め息をつく。
ふと我に返って時計を見たのは5時を少し回った頃。
「……仁科さん、もう帰ってきたかな」
仕事の用事なのだから電話くらい堂々とかければいい。
そう自分に言い訳をして、少し緊張しながら名刺の電話番号を押した。
今はもうただの仕事相手。
けれど、以前は特別な関係だった人。
―――もう、引きずってなんかいないのに……
そう思った瞬間、浮かんできた永海の顔に気持ちが緩んだ。
「……見かけによらず過保護なんだよな」
らしくないほど心配そうに「代わりに電話してやる」と言った永海。
思い返すたび、なんだかくすぐったい気持ちになる。
ぼんやりと今朝の遣り取りを反芻していたら不意に電話が繋がって、慌てて社名と苗字を告げた。
「仁科さんはいらっしゃいますか?」
名前を呼んでも、もう気持ちが痛むこともない。
あんなに好きだった人。
一生忘れられないと思っていた相手。
こんなに普通に話せる日が来るなんて、あの頃は想像さえできなかった。
『お電話替わりました。仁科です』
受話器の向こうから優しい声が告げる。
「笹原です。ご連絡が遅れてすみません」
そう答えると、向こうからも詫びの言葉が返ってきた。
『俺の方こそ悪かったな。朝も電話もらってたのに折り返しできなくて……仕事の途中でかけようと思ってたんだけど』
「……いえ、いいんです。今日は一日出かけてましたから」
一緒に働いていた頃は、いつでも無意識のうちに目で追っていた。
電話の相手が目の前にいるかのように微笑んで話す人で、そんなところがとても好きだった。
『金曜なら3時で大丈夫だけど、直前までここで打ち合わせなんだ。悪いけどこっちまで来てもらえるかな』
立ち上げたばかりの彼の事務所で忙しいのは承知している。こちらのことなど気遣う必要はないのに。
「……はい。結構です。では、明後日の午後3時にお伺いします」
そう答えた瞬間にクスッという笑い声が届いた。
『笹原、相変わらずだな。普通に話していいのに』
ここでも同じことを言われてしまったなと苦笑しながら。
でも、少しだけ温かい気持ちになった。
変わらないのは彼も同じ。
穏やかな声も、やわらかな口調も。
電話では見えないはずの笑顔さえはっきりと目に浮かぶほど、本当に何も変わっていない。
『じゃあ、金曜に』
耳元で優しく響く声に微笑みながら、ただ「はい」と返して受話器を置いた。
変わったのはお互いの気持ちだけ。
その事実に淋しさは残るけれど。
でも、大丈夫。
やっとそう思える自分に安堵していた。
手帳を広げ、金曜15時の欄に彼の名前を書き込んだ。
打ち合わせそのものは一時間もあれば済むだろうけど、向こうの事務所には彼以外にもお世話になった先輩が何人かいるから、予定が合えば昔のようにみんなで飲みに行くかもしれない。
そう思って、永海には断りの電話を入れた。
「金曜の件ですが……遅くなるかもしれないので―――」
彼とゆっくり過ごしたいとか、そんな気持ちは少しもなかったのだけれど。
『ふうん。まあ、いいけど』
永海はやはり要らない心配をしているらしく、不満を隠さずにそう答えて電話を切った。
「……そういうところが大人げないんだよな」
彼と永海を比べてしまうのもいつものこと。
同年代の人と比べても格段に落ち着いている彼と、どちらかと言わなくても子供っぽい永海を比べるのがそもそも間違っているのだとは思うけど。
「だから同い年なんて嫌だって……―――」
そんなことを呟きながらも、口元には笑みが浮かんだ。
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