Maybe … "Yes"

Sweet,sweet,bitter sweet
-2-



約束の金曜日。
急いだつもりはなかったのに、予定より少し早く着いてしまった。
どこかで10分くらい時間を潰そうかとも思ったが、彼の事務所をゆっくり見たい気持ちもあって、そのままドアをくぐった。
「K'sの笹原と申します。仁科さんと3時にお約束を―――」
受付で受話器を上げて到着を告げたのが2時45分。
『はい。お待ちください』
答えたのは確かに男性だったが、ずいぶんと可愛らしい声だった。
バイトか何かだろうと思いながら、綺麗にディスプレイされた受付を眺めた。
電話の横に洒落た小物が置かれていたり、柔らかい色の照明があったり。
センスが勝負の職業だけに、たかが受付と言っても気は抜けないのだろう。
そんなことを考えていたら、不意に「お待たせしました」と声がした。
振り返った時、目の前に立っていたのはあの少年。
―――彼の、新しい恋人だった。

「すみません。仁科さ……あ……仁科はまだ来客中なので、少しお待ちいただきたいとのことなんですが」
いかにも今覚えてきたばかりといった感じのたどたどしい様子だったけれど、それがまた年相応で愛らしく映る。
「こちらが早く着いてしまっただけですから、どうかお気遣いなく」

最初に彼がこの子と楽しそうに歩いているのを見た時、目の前が真っ白になった。
心のどこかで予想していたはずのこと。
なのにどうしても受け入れられなくて、ふらりとバーに入り、投げやりな気持ちで永海と関係を持った。
全てがどうでもよかった。
後のことなんて考える気力もなかった。
その場限りの関係だったはずの男は遊び人風で、自信家で――
それは今でも変わっていないけれど。
でも、もうずっと昔のことのような気がした。

「こちらにどうぞ」
その声ではっと我に返った。
「……あ、はい」
彼のことを考えていたはずなのに。
いつの間にか永海の笑顔に摩り替わっていたことに気付いて頬が火照った。
変に思われないだろうかと心配したが、少年は言われた通りの応対をするのに精一杯らしく、こちらの様子を不審に思うほどの余裕はなさそうだった。
「お掛けになってしばらくお待ちください」
案内されたのはオフィスが見渡せる打ち合わせスペースのような場所。
明るい事務所にはデスクが8個あったが、人の気配はなかった。
「みなさん出払っているんですね」
「はい。今いるのは幹……仁科さんだけで、僕が電話番をしてます」
カチャカチャと不慣れな手つきでお茶を出す。
茶托と茶碗を見つめる表情も真剣そのもので本当に微笑ましい。
「どうぞ」
少年はまだ高校の制服姿。
なのに、耳にはピアス、手には細いシルバーリング。
今時の子って感じだなと思いながら何気なく話を繋いだ。
「学校は休みなんですか?」
言ってしまってから、場合によっては厭味にも聞こえるかもしれないと思って、慌てて別の質問を捜したけれど。
「今、テスト期間なんです。今日は午前に2科目あって、午後はお休みでした」
見とれてしまうほど華やかな笑顔でそう説明すると、トレイと布巾をサイドテーブルに置いた。
人見知りなどしない性格なのだろう。受け答えも明るくてはきはきしている。
何もかもが自分とは違う。
そう思ったとたんに意味もなく暗い気持ちになって、また溜め息をつきそうになったけれど。
そんな様子に気づくこともなく、男の子は笑顔のままペコリとひとつ頭を下げて自己紹介をした。
「僕、桐原司と言います。幹彦さんから笹原さんのお話を聞いてから、ずっとお会いしたいと思ってたんです」
それも本当に真っ直ぐな笑顔で。
「……そう」
やっとの思いで言葉は返したものの、なんとなくいたたまれなくて視線を逸らした。
たとえば、彼と今日まで続いていたとしても、きっとこの子には勝てなかっただろう。
今さら張り合う必要などないのだけれど、そう思っただけで気持ちは次第に滅入ってくる。
何度目かのため息を飲み込んで、下降気味の気分のまま名刺を取り出した。
「わあ、名刺いただけるんですか?」
代わりに返ってくるのは明るい笑顔と弾んだ声。
差し出された紙切れを恭しく両手で受け取って、キラキラした瞳を向ける。
「こんなにちゃんと名刺もらうの、生まれて初めてです」
素直な言葉とともに、また惜しげない笑みを見せた。
「……そんなに喜んでもらえるようなものじゃないんだけどね」
見た目が可愛いだけじゃない。
その笑顔も仕草も、全て。
彼が惹かれた理由が分かるような気がした。




彼の打ち合わせは予定よりも長引いているらしく、3時を過ぎても応接室から出てくる気配はなかった。
その間、ツカサ君は高校生らしい好奇心でこちらの仕事のことを聞いてきた。
「わー、じゃあ、写真のお話をしたりもするんですね。すごいなぁ。僕、今カメラの勉強中だから憧れちゃいます」
ただこうして向かい合っているだけなのに、なぜかまた少しずつ気が滅入っていく。
「写真は……あんまり詳しくないんだけどね」
彼と付き合っていた頃もカメラのことなど勉強しようとは思わなかった。
それどころか、モデルを頼まれても引き受けることさえなくて、何度彼を落胆させただろう。
「でも、有名なカメラマンの先生を担当してるんですよね? 仁科さんが言ってました」
屈託のない笑顔で投げかけられる質問さえ、憂鬱さに拍車をかける。
自分が永海を担当している理由を聞いたら、この子だって呆れ果てるだろう。
「どんな人ですか? 僕も会ってみたいなって思って、今日――……あっ!」
話の途中で、ツカサ君は大きな目をさらに見開いて口を押さえた。
「……どうしたの?」
その声に驚きながらもなんとか問い返したけれど、無意識のうちに小さな子に話しかけるような口調になっていて思わず苦笑した。
子供っぽく見えても17か18。それほど幼いわけでもないのに。
屈託のない笑顔や素直な言葉、そんな全てを『子供らしさ』なんて括りで片付けようとしている自分が見えて、また嫌悪感に囚われた。
俯きかけた時、ツカサ君が慌てたような顔で詫びた。
「すみません。言うの忘れてたんですけど……あの、さっきナガミさんっていう人から笹原さん宛てに電話があって、『ちょっと遅くなります』って……もしかして永海先生だったのかな……だったら、なんだか友達みたいな話し方しちゃったかもしれません」
詫びの時でさえ明るく響く。
その声が気持ちの中を通り抜けて言った。
「その人、ナガミって名前だったんだ?」
「はい。笹原さんがいらっしゃるちょっと前です。お兄さんっぽい明るい感じで……」
ツカサ君の説明を聞きながら先日の遣り取りを思い返してみたけれど、永海と約束をした記憶はなかった。
第一、こんな場所で待ち合わせるはずがない。
「その人、ちょっと偉そうな感じだった?」
永海をイメージしながら聞いてみたが、ツカサ君は首を振った。
「とっても紳士的な感じの人でした」
その言葉と永海がどうしても重ならなかったが、どんな漢字を当てても『ナガミ』という知り合いは一人しかいない。
「ありがとう。あとで電話してみるよ」
永海のことだから、どうせ「なんとか都合をつけて一緒に食事をしよう」という程度のつまらない用事なのだろう。
そう思った瞬間、控えめな音でサイドテーブルの電話が鳴った。
点滅しているのは「受付」と書かれたボタン。
「あっ、お客さま! 僕ちょっと行って……あっ!!」
慣れない接客に緊張しているのか、ツカサ君はなんだかひどく慌てていて、立ち上がった瞬間に勢いよくお茶をひっくり返してしまった。
「うわっ……ごめんなさいっ、どうしよう……」
オロオロする手に布巾を渡して、
「大丈夫、慌てなくていいから、まずお茶を拭いて」
そう指示をしてから、鳴り続けている電話を取った。
「大変お待たせ致しま……」
まだ途中だと言うのに、
『あ、笹原?』
聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「……永海?」
聞き返したと同時にパーティションの向こうでガチャンと音がして、次の瞬間には受付を通り過ぎてきた永海の満面の笑みが覗いた。
「悪いな、遅くなって。伝言聞いたか?」
「……聞いたよ」
話の途中で電話を切った挙句、他人の会社に勝手に入り込んで、しかも。
「まったく、笹原のところの部長、また接待どうかって……あ、もちろん笹原と俺の二人だけで……って言ってたけど。おまえ、いつもそうやって上司に身売りされてんの?」
いきなりの会話がそれだ。
「……そんなわけないだろ」
およそデリカシーなんてない永海を『紳士的』と言ったのは、きっとあの子なりの社交辞令だったのだろう。
とりあえずそう理解することにした。
それよりも問題は今永海が目の前にいるという事実なわけで。
「……それで、何でこんなところに?」
少なからずわざとらしさを感じていたから聞いたのに、永海からの返事は予想外のものだった。
「仕事。今朝、笹原のモトカレから頼まれて。これから写真撮りにいくんだ」
その言葉に思わず首を傾げた。
写真なら仁科さんが自分で撮ればいいはずなのに。
「どうしてわざわざ永海に……」
そう思いながらも、永海の差し出したものを受け取った。
それはごく普通のファックスの送付状。
そして、見覚えのある文字は確かに彼のもの。
送信日時は今日の朝10時。
「いつの間にそんな約束を―――――」
どうやら仁科さんが依頼したというのは嘘ではなさそうだったけれど、永海があえてそれを自分に教えなかったことが少しだけ引っかかった。
いつもなら真っ先に電話をしてきそうなものなのに。
「笹原、なにカリカリしてんだよ。ちょっと言い忘れただけだろ?」
確かにそうなのかもしれないけれど。
返す言葉を考えている間に、永海はテーブルを拭いてるツカサ君を手伝いに行ってしまった。
その間、自分はファックスの字面を眺めながら突っ立っていた。
「オッケー。でき上がり。じゃあ、手洗ってくるか」
二人がテーブルとその周辺を拭き終えて洗面所に行った後、意味もなく疎外感を味わった。




布巾を片付けて戻ってきた時にはもう永海はもうすっかりツカサ君と打ち解けて話をしていた。
「わあっ! じゃあ、本当に永海修也先生だったんですね。若いんだなぁ。それにカッコいい」
キラキラした瞳が永海を見上げている。
なのに永海は相変わらずで、ツカサ君に笑顔を返してやることもなく、こちらを見て話を始めた。
「な、笹原」
そんな失礼な態度を取られてもツカサ君はニコニコしたまま永海とこちらを見比べている。
「どこかで見た顔だと思ったら、こいつって笹原のモトカレの今の彼氏だよな?」
こんな場所で、しかも今日が初対面の相手を捕まえてその質問。
しかも、本人が目の前にいる時に聞くなんて……と思う自分とは対照的に、
「はい」
ツカサ君はなんの屈託もなく元気よく返事をした。
普通に考えたらかなり不躾な質問だと思うのに、満面の笑顔は少しだけ頬の辺りが染まっていた。
それを見ながら永海が笑い出して。
「で、学校サボって手伝いに来てんの?」
ついでにまた失礼な質問をしていたけど。
「違います。今日はテストなので午後はお休みなんです。明日は学校もお休みだから、そのまま幹彦さんちにって……あ……」
そこまで一息に言ってから「しまった」という顔になる。そんな仕草も表情も本当に愛らしくて、永海も微笑んでいた。
「そこでいきなりのろけられてもなぁ、笹原?」
笑いながらツカサ君の頭を小突く永海に、ぺロッと舌を出した。
まるでずっと前から知り合いだったかのように親しげに話す二人を見ながら、また無意識のうちに溜め息をつく。
仕事で来たはずなのに、何故こんなことで落ち込んでいるのだろう。
「なんだよ、笹原。機嫌悪い? それとも元気ない? あ、昼飯食ってないとか? じゃなかったら、仕事でミスった?」
相変わらず遠慮など欠片もない永海は、会話の輪に無理矢理こちらを引き込もうとする。
「そういうわけじゃ……」
冗談など言い返せる気分でもなくて、ぼんやりと次の言葉を捜した。

二人でいる時、永海はこんなふうに笑うだろうか。
冗談を言ったりはしゃいだりしたことがあっただろうか……

仕事中なんだからと自分に言い聞かせてみても、頭の中を自己嫌悪だけが巡っていって、まともな受け答え一つできない。
「笹原、また落ち込み中か? おまえって大変だよな」
いいから俺に話してみろよと軽く笑われて、また口ごもった時、静かに応接室のドアが開いた。
ツカサ君の顔がパッと輝いて、その視線につられて顔を上げると、客と話をしながら部屋を出てくる彼の姿があった。
「では、ラフができたらご連絡します。その後、もう一度打ち合わせを――」

落ち着いた声、穏やかな笑顔。
少し前の自分なら、それだけで胸が痛かっただろうけれど。

「笹原、大丈夫か?」
隣りで心配そうに顔を覗き込んでいる男に気付いて、あわてて頷いた。
「……仕事中なんだから、よけいな気を回すなよ」
他に適当な言葉も思い浮かばなくて、必要以上に素っ気ない返事になる。
彼とは終わったのだと何度も言ったはずなのに、それでもまだ本気で心配している永海の気持ちが今日は少し苦しかった。
「よけいじゃないと思うから聞いてんだけどな」
そんな言葉を告げる時も全面的に不満そうだったけれど。
そのあとはただ口を閉ざした。



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