ロイヤルミルクティ・ブレンド

<4>



せっかく高也が戻ってきて、夕方まで楽しく過ごせるかなと思ったのに、なんでこんなことになってるんだか。
「高也、あのさ」
こんな空気のまま帰ってしまったら嫌だなと思ったから、慌てて話を変えてみた。
「……バレンタインだけど……チョコレートクッキーとブラウニーってどっちが楽なのかな」
その質問を聞いても高也はダルそうに頬杖をついたままだったけど。
「ああ、手作りってことか。クッキーならそれほど面倒でもないだろ。……俺にくれるのか?」
お約束のようなボケは、たぶん仲直りの合図。
でも。
「違うよ」
俺としてはそういうホモくさいネタじゃなくて、もっと返事のしやすいボケが欲しい。
まあ、それはちょっと贅沢かもしれないんだけど。
「じゃあ、なんだよ?」
「ねーちゃんをさ、嫁に出そうって話しただろ? で、この間のさ―――」
高也も入れて三人で夕飯を食べた時に、姉貴がポロっとこぼした言葉。
『で、そいつが"一度でいいから手作りとか、もらってみたいですね〜"みたいなこと言ってたんだよなぁ』
その時だって姉貴は『いい年して食い物に釣られるヤツってヤバいよな』って笑ってたけど。
「もし本当にそいつのことが好きだったら、手作りだって言って渡せるようにって思って」
そう言いながら、俺って案外いい弟かもしれないと自分で思ったけど。
「なんだよ、おまえ、あの話を真に受けたのかよ?」
「……まあね。だって、姉貴がそんなこと言うの、聞いたことなかったし、もしかしたら一生に一度かもしれないだろ?」
気にならない相手のことだったら言うはずない。
姉貴は昔からそういう性格だから。
「だったら、うまくいって欲しいよなって」
もちろん、姉貴がいつか結婚して、可愛い子供ができれば両親だって安心するだろうなんていう下心も込み込みだけど。
「バーカ。今どき手作りチョコが欲しいなんて言う男、きっとすっげー冴えない奴だぞ? おまえ、自分の兄貴になる男がそんなでもいいのか?」
冴えない男と、男前の姉貴。
そんなカップルってどうなんだろうとか、そんな贅沢を言う気はまったくない。
「……姉貴が好きな相手ならどんなでもいいよ」
そうじゃなくても俺はあんまり器用じゃないんだから、本当はクッキーなんて作りたくないんだけど。
「そんで、姉貴のこと大事にしてくれる人だったら、それでいい」
こんな時でもないと俺の家庭教師代を払ってくれてる姉貴に恩返しもできないし。
けど。
「……やっぱ、そんなんじゃムリかな」
話してる間にまた一人で諦めモードに入ってしまった俺を高也はすぐ隣りでじっと見てた。
漂ってくる空気からしても笑ってる気配だったから、またシスコン呼ばわりされるんだろうなって思ってたけど。
「おまえさ」
その時、またグリグリ頭を撫でられて。
「なに?」
「意外と健気だったりするんだな」
ついでに頬をツンツン突かれて。
「あー、もう。人が真剣に相談してるのになんでふざけるんだよ」
ちょっとムカついたから、高也の手をビシッと払い落として、でも、話はそのまま続けた。
「健気なんかじゃなくてさ。母さんだって孫の顔見れなかったら可哀想だし、姉貴が結婚してくれたら、俺が一生独身でも諦めもつくかなって」
そんなことのためにクッキーを作って相手の男を騙すのは本当に自分勝手なことだと思うけど。
「俺、他にできそうなこと、思いつかないしさ」
問題集の角を折り曲げながら、「もう、高也にはどう思われてもいいけどさ」とひとりでブツブツ言ってみた。
その間も高也はやっぱり笑って見てたけど。
「それを健気って言ってんだけどな」
後からそんな返事が付け足された。
実はバカにしてるのがありありと分かるニヤニヤ笑いだったのがものすごく気に入らなかったけど、でも、そのあともちゃんと相談には乗ってくれて。
「でも、あんまり手の込んだものは作るなよ。いかにも料理は苦手ですって女がやっと作った感じのほうがグッとくるかもしれないだろ」
男って単純だからなって言われて。
「うん、そうだね」
本当は真剣に考えてくれてるんだなって思ったら、やっぱり少し嬉しかった。
だから、
「……ありがと、高也」
心の底からそう言ったのに。
「じゃ、その感謝を体で表現してもらおうか?」
こんなセリフを言いながら、目線の先は俺のベッド。
それがどういう意味かなんて聞くまでもない。
「……俺、もう一生高也には感謝しない」
ついでに、さっきまでの素直な気持ちもすっぱりと忘れることにした。
「いちいち真に受けるなって」
また笑い転げる高也の横で一気に紅茶を飲み干しながら、
「っていうか、大人のクセに高校生をからかうなよ」
なぜかまたベッドを見てしまって、慌てて目を逸らした。


「じゃ、トモ。来週またな」
「うん」
高也を玄関まで見送ったのは、もう日も暮れた後。
今日も家族の帰りは遅い。
一人になった家の中は妙にガランとしていて。
「つまんねーの」
何にもする気にならなくて、ぼんやりと考えたのは高也のことだった。
たとえば姉貴のこととか、学校のこととか、そういう話なら高也はいい相談相手だと思うけど。
「……別の悩みも増えてる気がするんだよな」
なんでいつもからかわれてしまうんだろう、とか。
なのに、どうしてこんなに気になるんだろうとか。
「それにさ……」
頬に触れた高也の唇の感触を思い出すと、少しだけ苦しくなってしまうのはどうしてなんだろう――――
「まあ、いいか」
モヤモヤした気持ちになりかけて、その疑問に答えを出すことをやめてしまった。
このままでも十分楽しいんだからそれでいい……なんて、曖昧な結論で終わらせることにして。

なのに。
そんな生ぬるい感情が突然音を立てて崩れたのは、その翌週の土曜日のことだった。


「じゃあ、トモ。次はそのページの問題全部な」
いつもと同じ家庭教師タイム。
「えー、5問もあるよ」
「文句は言わない」
嫌々ながら数学のテキストを広げる俺の横には高也が座っている。
ときどき家の前を走り抜けていく車以外の音は全く聞こえない静かな部屋で、俺も黙々と問題を解いていた。
その間も高也はすぐ隣にいたけれど、これといって注意やアドバイスもなくて、だから本でも読んでいるんだろうと思っていた。
けど。
「わっかんねー。高也、これって、どの公式……」
そんな何気ない質問の途中、いきなり「トモ」と呼ばれて。
眉間にシワを寄せたまま隣を見たら、高也と目が合った。
「なんだよ?」
パンクしそうな頭のままで反射的にそう尋ねたけれど。
高也はそれに答えることなく、しばらく俺の目をじっと見てた。
それから、突然俺の頬を押さえて。

―――唇に、キスをした。

「何してるんだよ」とか「悪ふざけが過ぎるだろ」とか、そんなことを思うより前に、初めて味わう柔らかな感触が脳を占領して、あとは何も考えられなくなった。

唇は本当にそっと触れて、すぐに離れていったけど。
「……な……ん……だよ」
パニックを起してしまったのは、さっきまで数学の公式が絡まっていた頭がついていけなかったせいかもしれない。
でも、それ以上に、
「『なんだ』ってなんだよ?」
高也の態度はあまりにも平然としすぎていて、俺の理解の範囲を大きく超えていた。
本当にまるっきり当たり前みたいな顔で、何事もなかったかのように俺の隣に座っていて。
「だって、キスなんて……」
自分の言った言葉が頭の中でエコーする。
「だから、それがどうしたよ? まさか初めてとか言うんじゃ……ああ、そうなのか。わりい。まあ、軽く流してくれよ」
軽く、流して、くれ?
「……って……それだけなのかよ?」
出来心とか、魔が差したっていうならまだしも。
「高也、もしかして、俺のことからかって――――」
それについての返事はなかった。
つまり、否定されることもなかったのだった。
「なんだよ、それ……だって、普通はそういうこと……」
相手の許可がいるんじゃないのかとか、「わりい」の一言で済ませていいわけないだろとか、今更そんな不満をぶつけてみても仕方なさそうな空気だったけど、それでも何か言わずにはいられなくて、
「だって高也なんて教師のクセに……それに、高校生はダメだって―――」
パクパクと口を動かしていたら、少しだけ不機嫌な表情が返ってきた。
「おまえさ、キスされて落ち込むってのは俺に対して失礼なんじゃないのか? 第一、本気で嫌なら避けろよ」
えらそうに言うんだけど、理屈が通っていない。
「どう考えても勝手にするほうが失礼だろ!?」
いつになくブチ切れて、真隣りにいる高也に向かって思い切り叫んだけど。
そしたら。
……また、当たり前のようにキスされてしまった。

今度はさっきよりも少しだけ長いキス。
「……ん……」
嫌なら避けろと言われたけど、そんなこともできなくて。
しかも、抵抗しないとなんて、そんなことも思わなくて。
結局、そのまま抱きすくめられた。
何秒間という程度の短い時間なのか、それとも何分かが経過していたのかは分からないけど。
「……あのな、トモ」
俺の耳元。
不意に聞こえた高也の声はいつもよりもずっと落ち着いていた。
「……なに……?」
その時もまだ「俺はなんでこんなことしてるんだろう」って考えてたけど。
「おまえ、やっぱりそういうところが朝子に似てるんだよな」
高也からはいきなりそんな聞き捨てならないセリフが降ってきて。
「高也、まさかねーちゃんにも―――」
焦って叫んでみたけど。
「バカ。朝子に手なんて出せるかよ」
殴られて終わりだぞって言われて、俺も冷静になって。
ホッとしながらも思いきり納得した。
「じゃあ、『似てる』って何が?」
顔も似てない、性格も似てないって散々言ってたくせに、今頃なんなんだよって思ったけど。
「……『鈍い』って言ってんの」
何の遠慮もなくそんなことを。
「なんだよ、俺、別に――――」
言い返そうとしたけど、それはすぐに遮られた。
そいて、笑いながら降ってくるキス。
「バカ、高也、やめろって」
でも。
「嫌ならよけろ。嫌じゃないなら、おとなしくしてろ」
すぐ目の前で動いていた高也の口が、また俺の唇を塞ぐ。
「高……待て……って――――」
なんて言っていいのかわからないまま。
でも、言葉の合間にするキスは気持ちのどこかをギュッと掴む。
痛いようで、苦しいようで。
止めて欲しいって思うのは、どうしていいのか分からないせいだろうけど。
「トモ、キスしてる時はしゃべらなくていいんだよ」
なんでこんなことになったのか。
「そんなこと……」
「ほら、口と目は閉じる」
数分前のことが、もう思い出せなかった。
「……ん……っ」
ただ、少し苦しくて。
どこかが少しだけ痛くて。
本当にどうしていいのか分からなくなって。

ただ、目を閉じて高也にギュッとしがみついた。



ぼんやりと目を開けた時、高也は俺を見てた。
「トモ」
「……んだよ」
聞き返したけど返事はなくて、その代わり、おでこに軽くキスされた。
「何考えてるんだよ?」って聞こうとしたけど。
まだ気持ちのどこかが苦しくて言葉にならなかった。
それでも平常心を取り戻そうと必死になってみたけど。
俺とは対照的に、高也は少し楽しそうに口を開いた。
「これでも『なんで?』とか言ったら、俺も怒るよ」
腕から開放されることもないままにそう告げられて。
でも。
「……なんで……だよ……?」
思ったまんまを聞き返した瞬間、高也が少し困ったような笑いを浮かべた。
バカにされると思ったけど、その後の高也の言葉は「俺が悪かったよ」。
言いながら、またおでこキスをした。
それってどういう意味なんだよって思っていたのに。
でも、聞けなくて。
結局、全部が分からないまま。
「じゃ、数学の続きやるか」
「……う……ん」
また突然、いつもの風景に戻されて。
その日はそのまま静かに暮れていった。



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