その先の、未来
-3-




それから誘われることもなくなった。
社内で会ってもお互い気付かない振りをした。

二ヶ月経った頃、式の日取りが決まったと言う噂を聞いた。
「部長ったら、『スピーチの練習しなきゃな』なんて言ってたわよ」
「やだ、呼ばれる気満々ね」
「呼ぶわよ。仁藤さん、意外とサラリーマン体質だもん」
「そりゃあ、一番の出世頭だもの。世間体とかいろいろね〜」
おめでたい話だから、噂にも遠慮はない。
聞きたくないのに耳に入ってきて、俺を憂鬱にさせる。
「どんな人なのかなぁ?」
「写真、持ってたわよ。お財布に入れてた。サラサラロングのキレイ系」
「え〜? そういうことする人だと思わなかったなぁ」
財布に、カノジョの写真。
そんな甘い雰囲気を感じさせる奴じゃなかった。
それでも、家庭に入れば良い夫で良い父親になるのだろう。
「ラブラブなのねぇ」
席を立った。
営業だったら、ふらりと外に行くこともできるのに。
嫌でも弘佳を思い出す社内で一日中座って過ごす苦痛。
時間が経つのが遅く感じられて、取り憑かれたように何度も時計を見る。
終業時間になり、いつ帰ってもいい状態になって初めて、まともに呼吸ができる。
眩暈がした。
酸素不足で倒れるかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ドアが開いて背の高い人影が視界の隅に映った。
女の子の「おめでとうございます」という声が聞こえた。
「ありがとう」と答える弘佳の声は何の感情もなく響いて消えた。
部長に披露宴の招待状でも持ってきたのだろうか。
そんな会話は聞きたくなかった。
無意識に時計を見る。
6時30分。
予定があると言えば、帰っても許される時間。
帰り支度をし、パソコンの電源を落そうとしていると課長に声をかけられた。
「直井、帰るところ悪いが、ちょっとこれだけやってもらえないか? 直井なら15分くらいで終わるはずだから」
簡単なエクセルシートの作成だった。
確かに15分もあれば終わるだろう。
ちらりと目線を上げるとドアから出て行こうとしている弘佳の背中が目に入った。
稟議書を持ってきただけらしい。
ホッとしながら手書きのレポート用紙を受け取る。
20分後、でき上がったシートのチェックをして課長に渡した。
「帰るところを悪かったな。お疲れ様」
そう言われては帰らざるをえない。
弘佳の近くに居たくなかっただけなどと言えるはずもない。
「お先に失礼します」
ゆるゆるとデスクを片付けて会社を出た。
7時を少し回っていた。
駅に向かう通りにはサラリーマンが溢れていた。
連れだって路地の居酒屋に流れ込む人たちを横目に、駅の構内に入った。
定期を取り出しながら改札の前まで来ると不意に声を掛けられた。
「15分じゃ終わらなかったのかよ?」
なんで、という言葉が喉元まで出かかったとき、弘佳が俺の定期券を取り上げた。
「行き先変更して、俺んち来ない?」
「行かねーよ」
定期券を奪い返して歩き出そうとしたが、腕を掴まれてしまった。
会社の連中だってどこで見ているかわからないのに。
「じゃあ、その辺でメシでも食おう」
「俺を振り回すのがそんなに楽しいかよ」
「そんなんじゃないよ。もちろん。ちょっと付き合え。別になんにもしないから」
それでも返事をしないでいると強引に俺の腕を引っ張った。
「たまたまバッタリ会っただけなんだから、そんなに警戒しなくてもいいだろ? ちょっと愚痴聞いてくれよ」
弘佳は、悔しいくらいにいつもと同じ。
「サラサラロングの彼女にでも聞いてもらえばいいだろ?」
弘佳の口元がわずかに緩んで笑みが浮かんだ。
「いいから来いよ」
笑いを堪えながら、そのまま駅の反対側にある居酒屋に俺を連れていった。


「で、気になってるようだから見せてやるよ。サラサラロングの彼女」
俺の目の前に財布から取り出した写真をちらつかせた。
見たいと思っていないのに、目は勝手にそれを捉えてしまう。
サラサラのストレートが優しげな輪郭を囲んでいた。
大半の女が勝てない種類の人目を引く美人。
しかも、弘佳に傅くことを厭わない人だ。
そう思った瞬間、心臓が抉られた。
「……いいよ、もう。早くしまえよ」
無意識のうちに弘佳の手を払っていた。
勝てないことは歴然だった。
―――――彼女と比べられるかよ?
あの日弘佳が言った言葉の意味を噛み締めた。
感情の大半を殺して、弘佳の横顔から目を逸らす。
弘佳は俺の変化になど気づく様子もない。
ただ、淡々と話し続ける。
「毎日、一緒に暮らすってどんなだろうなって思ってさ。持ってきてみたんだ。おまえ、どう思う?」
まともな精神状態の時だって彼女の話はキツイのに。
「いいんじゃないか。美人だし。優しそうで」
誰もが羨むような相手。
何より、弘佳とお似合いだった。
「バカ、そうじゃなくて。誰かと結婚するってことだよ」
俺にはない選択肢。
すぐ隣りにいても、弘佳がいる場所に俺が立つことはない。
「俺には分からないよ。そんな経験をすることもないしな」
そんな話はしたくなかった。
弘佳と二人で居られる時間など、もうないかもしれないのに。
「じゃあ、質問を変えるか。……おまえ、何年も同じ相手と暮らせると思うか?」
弘佳みたいなヤツが真面目な顔でする質問じゃない。
なんだか、少し変だった。
「……わかんねーよ。そんなこと。けど、好きな相手なら一緒に暮らしてみたいと思うけどな」
酷く現実味のない言葉に思えた。
弘佳じゃない他の誰かを好きになる自分が、想像できなかった。
「毎日毎日? 同じような会話しかしなくなっても? 疲れてても? 面倒くさくても?」
弘佳は何を心配しているんだろう。
いつも自信たっぷりで。
そんなことを不安に思うようなヤツじゃなかったはずなのに。
「それでも暮らしてみたいと思うか?」
「……思うよ。ぜんぜん話さなくても、会話が噛み合わなくても、顔も見たくないくらい頭に来ても」

弘佳となら。
一秒でも長く一緒に居たい。
けれど。

―――……今更、こんなこと言って、何になる

鈍く痛む。
心の奥。
手の届かない場所。

「それって、俺のことか」
弘佳はようやく笑って写真をしまった。
「ま、いいけどな。渉らしくて」
俺は笑えなかった。
弘佳の顔をまともに見られなかった。
見透かされるのが怖かった。
「ったく、今頃なに言ってるんだよ? マリッジブルーってヤツか?」
自分の声が空ろに響く。
俺だけじゃない。
弘佳もどこか変だった。
「ああ、そうかもな」
気のない返事。
よりによって、なんでそれを俺に話すんだろう。
結婚した先輩にでも聞いた方が何倍もマシな答えが返ってくると思うのに。
「……なあ、」
短い沈黙の後、繰り返される問い。
「渉は……そんな風に思った相手がいたのか?」
分かってるくせに。
分かってて聞いているくせに。
「弘佳には、関係ない」
我ながら、呆れるほどワンパターンな返事。
「……そうだな」
ニヤニヤ笑っているんじゃないかと思ったのに。
弘佳は溜息と共に、視線を逸らした。


店を出て、駅に向かう。
それなりに飲んでいたのに、少しも酔えなかった。
気が緩むとため息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
弘佳が脚を止めた。
「渉、酔ってないか?」
「酔ってねーよ」
「じゃあ、ここでちょっと聞けよ」
ベンチが二つ並べられているだけの狭い公園の前。
電話ボックスの灯り以外は何もない場所で俺たちは向かい合っていた。
「さっき、たまたま駅で会ったっていうの……あれ、嘘だ」
それが何のための告白なのか、俺にはわからなかった。
「……いいよ、なんでも。マリッジブルーのノロケ話、聞いて欲しかったんだろ?待ち伏せした甲斐があってよかったな」
感情のこもらない声で吐き捨てて歩き出す。
弘佳が追いかけてきて、俺の手首を掴んだ。
ポケットから何かを取り出して目の前に差し出す。
電車の切符だった。
「おまえの分」
表示されていた金額を見なくても、行き先は分かっていた。
「バカじゃねーの……俺、自分ちに帰るよ」
いつもの弘佳なら、「仕方ないな」と笑って切符を捨てただろう。
なのに。
「これで最後にするから、今夜だけ付き合ってくれ」
いつになく優しい目が俺を見つめていた。
視線を合わせるのが辛くて、通りすぎる酔っ払いを目で追った。
「渉、」
弘佳の声が掠れて響いた。
「頼むから……おまえのこと、忘れさせてくれ」

好きだと言ったことさえないくせに。
忘れさせろなんて、よく言えるよな……

「勝手な、ヤツ」
俺は、弘佳の手からその小さな紙切れを受け取った。



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