その先の、未来

- Another Side:3 -




部屋に入ってすぐ座り込んでしまった渉の服を脱がせた。
それから、脱がせた物だけ先に部屋に運んだ。
「なんで、俺が一番後回しなわけ?」
そんなことに不満を言うのも酔っているせいだろう。
素面の渉なら、自分の位置付けを量るような言葉は口にしないはずだから。
「一番大事だから、一番最後なんだよ」
冗談に紛れて口にしたその言葉で渉の反応を窺うけれど。
「酔っ払ってると思って、適当な理由をつけるなよ」
渉はムッとしながらそう返した。
どんなに酔っていても、俺の口から聞く甘い言葉は信用しない。
それが、何度も真剣な気持ちを踏みにじられてきた渉の傷。
当然のことなのに、今頃になって俺の胸を抉る。
「……渉――――」


苦い記憶。
何度も何度も粉々にした。
甘い言葉の後で、いつかは共に暮らす女がいるのだと言い捨てて。
唇を噛み締めるその横顔から目を逸らし続けてきた。


「しっかりしろって。ほら、ベッドまで歩けよ」
酔っているせいにして、吐き出してしまえたら。
けれど、口にした途端に壊れていく平穏な未来。
心の奥で、いろいろな気持ちが交錯したけれど。
何一つ言えないまま。
渉を抱いた。



渉は拒まなかったけれど、それは承諾ではなかったのだと知ったのは翌朝のこと。
「……起きたのか?」
声をかけたけれど、返事はなかった。
肩に手が触れた瞬間にわずかに体を引いた。
「怒ってるのか?」
不安と、苛立ちと、焦り。
いろんな気持ちが押し寄せる中、渉の返事が耳に届いた。
「……別に」
何気ない一言。
だが、声が震えていたことに気付いて、また後悔が酷くなる。
肩を掴んで無理やり自分の方に向けた瞬間、冷たい物が俺の手に当たって散った。
「後になってグズグズ泣くくらいなら、ちゃんと断われよ」
最低だと思った。
こんな場面で、こんな言葉しか言えない自分が。

これ以上、傷つけて何になる―――?

「……うるせーよ。ったく、勝手なヤツ」
涙を拭きながら身支度を整えると、帰るのかという俺の問いを無視して部屋を飛び出した。
「待てよ……っ」
叫んだ時、あたりはもう寒々しいほど静かになっていた。
「……渉……」
立ち尽くして口にした名前が、俺の中で何かを引き裂く。
冷え冷えとした部屋に一人。
手に残った涙が体中の熱を奪っていった。


泣き顔なんて一度も見せたことはなかったのに――――


どれだけ傷つければ気が済むのだろう。
俺は、何を欲しがっているんだろう。



適当に着替えて車を出した。
渉を追いかけて駅への道を急ぐ。
人気のない朝の商店街を突っ切ると気だるい後姿が見えた。
軽いクラクションにふらりと体を翻す。
それを追い越してから声をかけた。
「送るから、乗ってけよ」
渉は視線を動かすこともなく、ただ駅のある方向だけを見つめていた。
「うるせーよ。もう、俺に構うな」
涙の跡を残したまま、それでも俺の顔さえ見ずに告げた。
それが精一杯の強がり。
「……わかったから、今日だけは乗っていけよ」
何もできないくせに。
そんな言葉をかけて。
無理やり鞄を取り上げて先に車に戻った。
渉は俯いたまま、ぼんやりと助手席に座った。


街は朝の静寂の中。
アパートまでの道を辿る。
外部から遮断された空間で、時折、渉のため息が聞こえた。
このままずっと続けばいい。
どこにも辿り着かずに。
ずっと二人だけでいられたらいい。
現実から目を逸らせて、そんなことばかりを考えながら。
二人しか存在しない空間で、なのに自分だけを切り離そうとする渉の横顔に向けて、取り繕うように並べる言葉。
けれど、どんな言葉も渉の耳には棘を持って入り込む。
「冗談だよ。そんなに突っかかるなって」
宥めても返事はなく、どこか遠くを見ている。
まるで俺の言葉など聞こえていないように。
それでも何か言葉が欲しくて。けれど何も思いつかなくて。
「……昨日のこと、悪かったな」
無意識のうちに本音が漏れる。
このまま別れるとしても、渉のどこかに好きだという気持ちを残したい。
こんな時でさえ、そんなことしか考えられない自分を卑怯だと思った。


沈黙と。
ため息と。
車窓から見える白く霞む朝の光景の中。
手を伸ばせば届くところにいる渉がひどく遠く感じられた。



早朝の道路は空いていて、アパートにはすぐに着いてしまった。
「コーヒー飲んでけって言わないのか?」
少しでも引き伸ばしたくて、無意味な会話を続けようとする。
渉の横顔は少し疲れていて、涙は乾いているのに泣いているように見えた。
「言わねーよ」
そんな言葉と共にプイッと顔を背けて、アパートの階段を上っていく。
「……さっさと結婚しちまえよ」
振り向きもせずに吐き捨てた最後の言葉が、胸を貫いた。



努力なんてしなくても。
笑って口喧嘩をしながら、ずっと二人でいられるような気がしていた。
「けど……それも、もう終わり……か……」
口に出して、やっと押し寄せてくる現実。
残ったのは、渉の泣き顔。
逸らした視線。
諦めのため息。
一緒にいても、楽しいことなど一つもなかっただろう。
なのに、何も言わずに傍にいた。
その間、俺に隠し続けてきた渉の傷は、きっと何年たっても消えずに残る。


――――ごめんな……


優しい女と、彼女に良く似た愛らしい子供と、安穏とした日々の中で。
この先、俺は何度後悔すればいいのだろう―――






渉と会うこともないまま。
式の日取りも決まり、俺の気持ちだけ置いて着々と準備は進んでいた。
隣りではしゃぐ彼女を見るたびに気が重くなって口数が減る。
それでも、何事もなかったかのように式の詳細は決められていった。
渉に会いたくて。
会って話がしたくて。
けれど、良い口実も思い浮かばず、せめて顔だけでも見ようと、直接渡す必要のない書類を渉のフロアまで持っていった。
足を踏み入れた途端に「おめでとうございます」という声に囲まれて、「ありがとう」と返したけれど、そんな遣り取りにまた憂鬱になる。
渉は俺の方など見向きもせずに、帰り支度を始めていた。
やけに早い時間。
約束でもあるのだろうかと思って見ていたけれど、課長に簡単な仕事を頼まれて何も言わずに引き受けていた。
渉の事だから、予定があるならはっきりと断わっただろう。
少なくとも大切な用事はないということだ。
そんな他愛もないことに安堵しながら、自分のフロアに戻った。それから、そそくさとデスクを片付けて帰り支度をした。
「仁藤さん、彼女と待ち合わせですか?」
「ん、ちょっとな」
周囲の冷やかしに曖昧な返事をして急いで退社した。



駅の構内。人目につかない場所で渉を待った。
待っていた時間などほんの数分。けれど、あまりに長く感じられた。
誰かを待ち焦がれる気持ちなど、とうに無くしたと思っていたのに。

――――しかも、相手が渉だなんて……

苦笑しながら何度も時計に目を遣った。
予想していた時間を少し過ぎた頃、憂鬱そうに歩いてくる渉の姿が見えて、言いようのない気持ちになった。
「15分じゃ終わらなかったのかよ?」
声をかけた時、渉は驚いた表情を見せたけれど。
「行き先変更して、俺んち来ない?」
その誘いはあっさりと拒否した。
「いかねーよ」
やはり強気な口調。なのに、視線がさまよう。
何を考えているのかは分からないけれど、強引に押せば断り切れないことはわかっていた。
「じゃあ、その辺でメシでも食おう」
もう少し。
少しだけでいい。
時間が欲しかった。
眉を寄せたまま首を振る渉の腕を無理やり引っ張って歩き出す。
「いいだろ? たまたまバッタリ会っただけなんだから、そんなに警戒しなくてもさ。ちょっと愚痴聞いてくれよ」
見え透いた嘘。
けれど、渉は顔を背けたままポツリと呟いた。
「サラサラロングの彼女にでも聞いてもらえば?」
そんな投げやりな言葉があの日の泣き顔と重なる。
「いいから来いよ」
苦い気持ちの裏に、期待がよぎる。逸る気持ちを押さえながら渉を近くの居酒屋に引き摺っていった。
「で、気になってるようだから、見せてやるよ。サラサラロングの彼女」
カウンターに並んで座って、財布から取り出した写真をちらつかせても渉は見向きもしなかった。
「……いいよ、もう。早くしまえよ」
けれど、わざと視線を外しているのだと気づいて、また苦しくなった。
今までだって、ずっとこうして押し隠してきたのだろうけれど。
「おまえ、何年も同じ相手と暮らせると思うか?」
そんな質問をした時にピクリと眉が動く。
返事を促すように視線を送ると、渉は少し考えてからゆっくり言葉を返した。
「……わかんねーよ。そんなこと。けど、好きな相手なら一緒に暮らしてみたいと思うけどな」
その時、何を思ってか目を伏せた。
「毎日毎日? 同じような会話しかしなくなっても? 疲れてても? 面倒くさくても?」
いつなら会えるかと聞く。
もう少し丁寧に扱えと言う。
それ以外、俺には何一つ望まなかった渉の本音。
「思うよ。ぜんぜん話さなくても、会話が噛み合わなくても、顔も見たくないくらい頭に来ても」
投げやりな言葉。落ち着かない仕種。
けれど、間違いない。
「……それって、俺のことか」
返事はなかったけれど。
少し笑いが込み上げて。
「……ま、いいけどな」
ようやくポケットに写真をしまった。


今、ここにいるのは俺と渉の二人だけ。
彼女とのことは、忘れていたかった。


渉の口から何度も聞きたくて、繰り返す問い。
俺が望んだ通り、渉は呆れもせずに同じ言葉を返した。
「……好きなら、一緒にいたいと思うよ」
今まで一度も口にしたことはなかった言葉。
何故、今になってそれを告げるのだろう。
ふと、もう終わったことだから言えるのかもしれない……と思った時、店のざわめきが急に耳に障った。
「渉は……そんな風に思った相手がいたのか?」
確かめるまでもない。中高生じゃあるまいし、好きになった相手くらい他にいくらでもいたはずだ。
なのに、自分以外の存在を今日の今日まで思い描いたことさえなかった。
ずっと俺だけを見ていたような気がしてた。
好きだと告げた言葉も。
真っ直ぐに見つめて返す瞳も。
抱いた体の温もりも。
全部、自分のものだと思っていた。
「弘佳には、関係ない」
渉からは聞きなれた返事があっただけ。
それは肯定でも否定でもなかったけれど。
「……そうだな」
なのに勝手に傷ついて諦めの言葉を吐く。
渉には、それ以上の傷を負わせてきたくせに―――


無意識のため息が店の喧騒に消される。
そのまま、何も言えなくなって目を逸らした。



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