その後はそれぞれの部屋に帰るはずだった。
なのに、ふと気を緩めると渉の言葉が通り過ぎていく。
―――好きな相手なら、一緒に暮らしてみたいと思うけどな
何度も繰り返し気持ちの奥に浮かび上がる。
少し寂しげな表情。
「……さっき、たまたま駅で会ったっていうの、あれ、嘘だ」
まだ、許されるような気がした。
少しだけなら、本当の気持ちを言っても罪にはならないと。
たとえ今日で最後になっても。
歩き出す渉を引き止めて切符を差し出した。
「おまえの分」
渉は拒んだけれど。
「これで最後にするから、今夜だけ付き合ってくれ」
それだって、本当はただの口実。
「頼むから、おまえのこと、忘れさせてくれ」
少しでも長く繋ぎとめるための嘘。
――――忘れる気などないくせに……
「……勝手なヤツだな」
渉はいつもと同じ。
笑いもせず、怒りもせず。
ただ諦めたような表情で、切符を受け取った。
部屋に入った後、渉はいつになくあちこちに視線を投げた。
今更、珍しくもない部屋を、まるでもう二度と来ることがない場所のように見つめていた。
スーツを脱ぐ俺の背中に無感情な声が降る。
「なんでも付き合ってやるから。さっさと忘れろよ」
そんな言葉も投げやりで、虚ろに響いた。
「なら、シャワー浴びてこいよ」
本当に最後にするつもりなのかと聞く勇気もないまま、曖昧に笑って渉を見送る。
悪あがきだと思った。
別れることを決めたのは自分。
引き伸ばしたところで、結末は変わらない。
けれど、この時間が愛しくてどうしても手放すことができなかった。
抱いた後もその体を離せずにいた。
お互い何も話さなかったけれど、渉はただ腕の中でじっとしていた。
甘い気持ちになりかけて、このまま全てを告げてしまおうかと思った時、不意に携帯が鳴った。
彼女からだということは分かっていたから、面倒な振りをして聞き流そうとしたけれど。
電話はいつまでも鳴り止まなくて、仕方なくそれを取り上げた。
「ああ……どうしたんだ?」
耳に流れ込む彼女の声はやけに明るくて、俺の気分を一層重くした。
小さな機械から漏れてくるのは、披露宴やドレスの話。
弾んだ声は遠慮なく静かな空間に漏れて、渉は苦い表情でベッドを出ようとしたけれど。
俺は電話を切らないまま、渉の体に腕を回した。
ここにいろと言う代わりに背中から抱き締めて首筋に唇を当てた。
シーツが擦れる音と、電話から漏れるはしゃいだ声。
渉は俺の手を振り払うこともなく、ただ、壁と向かい合って目を閉じた。
電話からも、回された腕からも自分を切り離そうとしているように見えた。
焦燥感と罪悪感。
耐え切れずにもっと強く渉の体を抱き寄せた。
電話からはまだ彼女の声が響いていたけれど。
返事をする気になれず、壁を向いたままの渉の顔を無理に自分に向けて唇を塞いだ。
渉は声を出さなかった。
一言でもしゃべればすぐ彼女の耳に入るのに。
固く目を閉じたままキスを受けた。
ほんの数秒。
でも、彼女は気付いていたのだろう。俺の返事を求めるような問いを投げかけて答えを待った。
「……ああ、悪い。ちょっと疲れててさ」
気付いたなら問い詰めればいい。
そうすれば話せるのに。
こんな気持ちで結婚はできない……と。
俺と彼女にだけ判る空気。
気付いているはずなのに、彼女は笑ったまま。
『ごめんね、疲れているのに。じゃあ、また。おやすみなさい』
そう言って電話を切った。
居たたまれなくて。
電話を投げ出すとまた渉を抱き寄せた。
思い切り抱き締めて深く口付けて、何度も名前を呼んだ。
愛しくて。
苦しくて。
――――……愛してる
そんな言葉も最初で最後。そう決めたのに。
一度口にしてしまったら、止めることができなくなった。
何度も何度も呟いて、渉を抱き締めた。
こんな行為を止める者のいない二人だけの部屋で。
腕の中。
渉は泣いていた。
どんな気持ちで流す涙なのかなんて聞くまでもなかった。
ほんの少しでも吐き出してくれたなら、告げたかもしれない。
本当の気持ち。
けれど。
俺には祝福されない未来を選ぶ勇気がなかった。
翌朝、目を覚ました時、俺は一人だった。
「……渉?」
服もカバンも靴もなくなっていた。
「こんなに朝早く……」
泣き顔を思い出して、ズキンと胸が鳴った。
電話をしようとして、テーブルの上に置き去りになっていた渉の携帯に気がついた。
ここから会社に行くのが嫌でいったん家に戻っただけだ。
暗いうちに支度をしたから、携帯を忘れてしまったのだろう。
そう思いながら、時間を見計らって自宅に電話をしてみたが、渉は出なかった。
落ち着かない気持ちのまま会社に向かった。電車に乗っていても歩いていても、渉のことが気になった。
時折、パッと空白になる脳裏を渉の泣き顔が過っていく。
そわそわしながら就業時間を迎え、その後、すぐに渉のフロアに行ってみた。
けれど、ホワイトボードには「休み」の文字。
「……渉……直井は?」
中途半端にしか片付けられていないデスク。
予定していた休みでないことは一目瞭然だった。
「体調不良でお休みだそうです」
そう告げられて、またズキンと胸が痛んだ。
「直井さんに急ぎの用事ですか?」
不意に尋ねられて、用意してきた言い訳をちらつかせた。
「いや、渡したい物があったから」
手の中に金色のシールで封印された白い封筒。
「あー、結婚式の招待状ですかぁ。だったら直接渡した方がいいですよね。たいした事ないって言ってましたから、お休みも今日だけだと思いますよ」
突然の休みだとするなら、思い当たる理由など一つしかない。
「そう。ありがとう」
辛うじて笑顔を作って自分のフロアに戻った。
「……あのバカ……どこで何やってんだ」
携帯も時計も持たずに。
苛々しながら午前中を過ごした。
窓の外はやけに青い空が広がっていて、それがまた俺の気分を逆撫でした。
「仁藤、昼飯食いに行こう」
そう言われて慌てて時計に目をやる。
「……ああ……もう、そんな時間か」
渉だって今頃は自分の部屋にいるはずだ……
そう何度も言い聞かせたが、そのたびに手に散った涙の冷たい感触がよみがえった。
「なんかあったのか? 今日、ちょっとおかしいぞ、仁藤」
同僚の言うとおり。
何をしていても落ち着かなかった。
「いや、別に」
だが、結局、適当な言い訳を並べて三時に早退した。
渉のアパートに着いたのは4時前。
インターホンを何度も鳴らしたけれど、人の気配はなかった。
「まだ帰ってないのか……」
渉に限って変な気を起こしたりはしていないとは思ったものの、気分は少しも軽くならなかった。
昨夜の最後の記憶は渉の泣き顔。
抱かれている間も押し殺した声で泣いていた。
俺には何も言わない渉の気持ちが痛かった。
渉の本心。
好きという一言さえ、告げさせなかったのは自分なのに―――
あと少しで5時になる。
そう思った時、階段を上がる靴音が聞こえた。
通路を曲がって顔を上げた渉は、あからさまに驚いた顔をして俺に問いかけた。
「……何してんだよ」
少し虚ろに響く声に疲れが見えた。
「どこへ行ってた?」
無意識のうちに咎めるような口調になる。
本当は渉が帰ってきたことに体中から力が抜けるほど安堵しているのに。
「……別に……ふらふらしてただけ」
素っ気ない返事をする間も渉はチラリとも俺の顔を見なかった。
気怠い仕草でポケットから鍵を取り出し、ガチャガチャと回す。それから、逃げるようにドアに手をかけた。
「なんで会社を休んだ?」
悪いのは渉じゃない。
解かっているつもりなのに、自然と言葉がきつくなる。
「弘佳には、関係ない」
プイッと顔を逸らして、吐き捨てた。
それはいつもと何の変わりもない聞きなれた返事。
けれど。
泣きながら抱かれて、俺が起きるより前に部屋を出て。
一日中どこかで時間を潰して、こんなに疲れた顔で帰ってきて。
関係ないはずなどない。
「どれだけ心配したと思ってるんだ?」
仕事さえ手につかないほど、昨夜、誘ったことを後悔したのに。
「……もう、心配しなくていいよ」
渉はわずかに微笑んでから、俺に背を向けた。
静かな夕暮れの光景に淡く浮かぶ後姿。
そのまま消えてしまうかのように、薄暗い部屋に足を踏み入れた。
「じゃあ」の一言もなく、ドアを閉めようとした渉の肩を俺は無意識のうちに掴んでいた。
確かに触れているはずなのに、ひどく実体のないものに感じられた。
許されるなら、ここで思い切り抱き締めたかった。
けれど。
「……忘れ物だ」
今朝、部屋に置いていった携帯と腕時計。
あとは、結婚式の招待状。
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
目を伏せて、かすかに微笑んだまま。
渉は静かにそれを受け取った。
目の前でドアが閉まる。
バタン、という重い音さえどこか遠く聞こえた。
しばらくその場から動くことができなかった。
オレンジ色が濃くなる空を見上げて立ち尽くしていたけれど、階段を上ってくる人の気配で我に返り、慌てて歩き始めた。
階段を降りるたびにカツンと響く。
乾いた靴音が耳に残った。
|