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春休みの真っ只中、玄関に腰掛けてのんびり靴を履いていると、掃除機の音が止んだ。
「気をつけて行くのよ。説明もちゃんと聞いてきてね。いろいろ用意しなくちゃいけないんだから。ホント、利央が遙君と同じ高校に受かるなんて、お母さん今でも信じられないんだけど―――」
そこから先は今朝も夕べも一昨日もその前の日も聞かされた。
録音したものを再生しているんじゃないかと思うほど毎度同じフレーズだ。
「もういいよ、その話は。いってきます」
再び仕事を始めた掃除機の音に追い出されるように家を出た。
「いってらっしゃい」の声は聞こえなかった。
3月中旬を過ぎたとは言え、空気はまだうっすらと冷たい。
それでもバス停までの道は輝いていた。
「あー、いい感じ」
4月からの新生活を思うと笑みがこぼれる。
一番のポイントは先生を除いて女子が一人もいないってことだ。
「イトコなのに遙センパイとぜんぜん似てないよねー」「がっかりー」なんて言われることもなければ、遙の携帯の番号やらアドレスやらを聞きすためにつきまとわれることもない。
この際、遙とも「他人です」って顔で過ごしてしまえば比べられることもないし、ムダに華やかな生活に巻き込まれることもない。
さらに良いのは、幸い敷地がやたらと広くて使う校舎も学年ごとに決まっているので、廊下でばったりという可能性もかなり低いってことだ。
「なんかすごい楽しみになってきた」
小学校入学の日からずっとずっと夢みていた平穏な日々が待っているのだと思うと足取りも軽くなった。
明るい未来を思いながらバスを降りると、ふわりと風が吹く。
「会場は東校舎を入ってすぐの――……東ってどっちだ?」
表門から校舎までは少し距離があり、目の前は広々とした庭。
それを囲んでコの字型に建物が並んでいる。
真正面に見えるのはレンガ造り風の図書館。
さりげなくあちこちに配置された花壇には春の花が揺れ、男子校とは思えないほどの華やかさだ。
受験の時は余裕がなくて周りの様子なんかまったく目に入っていなかったが、改めて見てみるとずいぶんと手のかかった庭だということがわかる。
パンフレットの写真より実物のほうがキレイだなと思いながら、案内板の矢印に沿ってゆっくり進むと、『説明会会場』と書かれた大きな張り紙が目に入った。
「あ、ここだ」
だいたい2、3人が一組になって座っていて、中学の友達同士で誘い合って来ていることがわかった。
同じ中学のヤツもいたし、一応顔も知っていたが、どいつもこいつも成績はいいが非社交的で「友達なんて一人もいません」ってタイプだったので、誰にも声をかけずに隅の席についた。
自分と話が合うとは思えなかったからだ。
「みなさん、こんにちは。全員そろったようなので、予定より5分早いけど始めちゃいますね。あー、そんな後ろじゃなくて前に来てよ。別に怖くないから」
戸口に立つ自分のすぐ後ろから声がして振り向くと20代後半くらいの男の先生。
きっちりしたスーツ姿だったけどとても優しそうだった。
笑顔に促されてみんな前のほうに詰めて座る。
緊張した空気もやわらいで、こんな先生が教えてくれるなら授業も楽しそうだと思った。
「じゃあ、プリントの一枚目から説明しますね」
入学式のこと、制服のこと、教科書のこと、学校の決まり事、年間のスケジュール、授業の特色などなどを40分ほど聞いた後、滞りなく終了。
「じゃあ、4月からよろしくお願いします」
一年の授業もいくつか受け持つから、この中の何人かは自分が教えることになるかもしれないね、みたいな話のあと、解散となった。
先生が教室を出ると、生徒たちもバラバラと散っていく。
友達と一緒ならファミレスにでも寄って、あれこれと確認をするところだけど、こういうときに一人というのはちょっと心細い。
「あと、用意するものは……来週の月曜に制服と教科書を―――」
母親に伝えるべきことを確認しながら教室を出て、さっき通ってきた道を戻る。
「面倒くさいなぁ。けど、外、すっごい気持ちいいなぁ」
天気がいいせいか、家を出たときよりずいぶん暖かくなっていた。
遙からは朝一番に『方向音痴なんだからフラフラ歩き回らずまっすぐ帰れよ』という主旨のムカつくメールが来たが、地図付きの学校案内を持っていながら迷子になるはずなどない。
「ちょっとだけ散歩しようっと」
構内だって早く慣れたほうがいいに決まっている。
というか、入学してから迷うほうが恥ずかしい。
校舎の裏側の小道を歩いていると、体育館を過ぎた辺りにある少し古い建物の後ろから声が漏れてきた。
「先輩、あの―――」
春休みの真っ只中なのに生徒がいるくらいだ。部室棟か何かなのかもしれない。
軽い気持ちでちょっと覗いてみようと思ったのが間違いだった。
「……んっ……あ」
そこにいたのは制服姿の生徒2人。
男子校なので、もちろん両方とも男だ。
けど。
キス。
していた。
……というか、しているように見えた。
すぐにその場を離れたのではっきりと確認したわけじゃない。ただの見間違いかもしれないけど。
「あれって――」
混乱と息苦しさにゼーゼー言いながら立ち止まった時、不意に後ろから肩を叩かれた。
「君、ちょっと」
「うあぁあっ」
焦りながら振り返ると、そこに立っていたのは青いネームプレートを裏向きにポケットにつけた人。
『新一年生は黄色い名札、一つ上の2年は青、3年は緑です。まあ、交流会などの行事の時以外はつけてない人がほとんどですが』
さっき聞いたばかりの説明が脳内で自動再生される。
返すべき言葉が浮かばずに立ち尽くしていると、後から二人追いかけてきた。
「つかまえたか?」
「おう。どうよ?」
「おー、なんかイメージどおり」
ニコニコしながら俺の顔を覗き込んだのは、さっきキスしていた二人。
いや、正確にはキスしていたように見えた二人、か。
とにかく。
何がなんだか分からない。
「じゃ、一緒に来てもらおうか」
「え?」
あっというまに両サイドから腕を組まれ、あの少し古びた建物の中に連れ込まれてしまったのだった。
「さて。このボロい小屋は、なんとイベント部の部室です。イベント部というのは、学校行事を盛り上げるための手伝いをするところです」
ようこそ、と手を差し出したのはメガネのせいかものすごく頭が良さそうに見える青いネームプレートの人。やけに背が高い。
部屋にはあと二人いて、何かの打ち合わせ中という感じで会議室風に並べられた長テーブルの一角に座っていた。
「簡単に説明すると、俺は副部長。今外を走り回っているのは部のヤツらで、4月から夏休みまでの間、学校行事を盛り上げてくれるスタッフをハンティング中です」
ハンティング、という言葉はまさにこの状況にぴったりだ。
現に目の前の書棚のガラスには、両脇をがっちり固められ、どう頑張っても逃げられそうにない自分が映っている。
「さて、新一年生君」
その声は斜め前、並んだテーブルの誕生日席に当たる場所から聞こえた。
「……矢本です」
「そう、矢本君ね。こっちが求めてるものをすぐにわかって答えてくれるのはポイント高いね」
さっきの子は言われるまで自己紹介さえしなかったと呟きながら手帳にメモをする。
裏返してポケットについているネームプレートは青。
やはり二年生だ。
「クラスは入学式の日にならないと分からないから、それは後で聞くとして」
まだ話している最中だというのに、斜め後ろから「ちょっと待ってよ」の声。
ちらりと振り返ると、いつの間に来たのか捻った茶色い前髪の根本を洗濯ばさみで留めたやつが立っていた。
そんな見た目だけど、意外と性格はまともそうな感じだ。
こいつのネームプレートもやっぱり青。
「何かな、荻(おぎ)君」
誕生日席の先輩は、なぜか少々演技がかったしゃべり方だ。
単にふざけているのか、あるいはこれが地なのかまったく分からない、そんな雰囲気のヤツだ。
「なー、メンツに入れる前に瀬崎(せざき)呼んできたほうがよくね?」
その言葉にドキリとした。
瀬崎というのはやっぱり遙のことなんだろうか。
呼び捨てにするくらいだからお互い2年生同士という可能性が高いし、そんなにたくさんある苗字でもない。
「その理由は? 気に入らないと言うならアイツ以外のヤツと組ませればいいだけの話だろう?」
誕生日席の二年は意味ありげな笑顔でクルリとペンを回した。
「じゃなくて、そのヤモト君って子さ―――」
荻と呼ばれたやつの人差し指が無遠慮にこちらに向いた瞬間、ガガガゴッグガッと妙な音がしてドアが開いた。
たてつけが悪いなんてレベルではなく、建物として相当ヤバそうな感じだ。
おかげで早く脱出したいという気分がいっそう高まった。
いや、それよりも。
「よ、瀬崎。絶妙のタイミングぅー」
片手を挙げた副部長をすっかり無視して俺を睨みつけた遙は、本当に呆れたように吐き捨てた。
「アホが。やっぱり捕まりやがった」
なにもそこまで忌々しそうな顔をしなくてもいいのに。
誰もがそう思うほどひどい表情だ。
「……遙、ハンティングのこと知ってたのかよ」
だったら事前に教えてくれればよかったのに、と思ったけど、遙にそんな親切心が備わっているわけがない。
「なんだよ、瀬崎の知り合い?」
「従弟」
「イトコってリアルいとこ?」
「リアルじゃない従兄弟ってどんなだよ」
前髪洗濯バサミの人と遙のアホな会話を聞きながらそっとため息をつく。
どうやら『遙と関わらず平穏に過ごしたい』という切なる願いは、入学式を迎える前に粉砕してしまったらしい。
「あー、知ってる知ってる。あの従弟なー。オレ、昔一緒に遊んだことあるぞ。『リコちゃん』だっけ?」
遙の後ろにいたガッシリした体格の人が口を挟む。
確かにどこかで見たような顔だけど、詳細が思い出せないので反応できない。
「バカ。『利央』だ。リ、オ。女じゃねーんだぞ」
答えたのは遙だ。
自分でも『リオ』って名前は性別不明だと思っているけど、遙は「日本では『リオ』は男の名前」と決め込んでいるみたいで、いつでもああいう言い方をする。
だけど、問題なのはそこじゃなく、こちらへの質問を全部遙が答えてしまうってことだ。
「今年から高校なのかぁ。俺らよりすっごいちっこかったイメージあるけどなー」
「年は一個しか違わねーよ」
「部活決めてないならイベ部どう? 楽しいよ?」
「ばか、入るわけねーだろ」
相手が言い終わらないうちに遙が返事をするので、口を挟む隙がない。
のんびり受け答えする自分が悪いって言えば、確かにそうなんだけど。
案の定、副部長から質問がきた。
「矢本君ってあんましゃべんない人?」
そうでなくても見た目がパッとしないこともあり、大人しくみられがちなのが悩みの種だというのに、遙と一緒だとさらに誤解されまくりだ。
「自立心がない」とか「引っ込み思案」と判断されてしまうのは、このあたりが原因なんじゃないかとひそかに思っている。
「あ、えと、友達とは普通に話します。今は緊張しているので少し返事が遅いかもしれませんが」
心の中で舌打ちしつつも顔には出さないよう心がけながら答えを返す。
「そうみたいだね。っていうか、わりとちゃんとしてるほうかも」
「なら、瀬崎がしゃべりすぎなんだな」
みんなが一斉に遙の顔を見ると「んなことねーよ」と眉を寄せた。
「瀬崎も普段はどっちかってゆーと無口な部類なのになー」
「大事なイトコに俺らのアホがうつったらイヤだから口利かせない、とかそんな感じー?」
遙的にはきっと『トロいヤツに喋らせると俺様がイライラする』だと思うけど、言うと怒るのでとりあえず流しておく。
というか、すでにあまり機嫌が良くなさそうだ。
他にもそう思ってたやつがいたらしい。
「なんだよ、瀬崎。今日ちょっとフンイキ違うぞー」
親しげに肩を掴み、わしわしと遙の頭をかきまぜたのはさっきの前髪洗濯バサミ。
遙の不機嫌をものともせず、しばらく楽しそうにじゃれついていた。
「おまえらがこんなの捕まえてくるからだ」
「『こんなの』って、瀬崎ったらえらく失礼ー」
そう。
遙は子供の頃からこんなだった。
俺様で自分勝手。
嫌なことがあれば今みたいにストレートに顔に出すし、何人かで遊びにいっても「つまらないから帰ってきた」と途中で家に戻ってきてしまったこともある。それも一度や二度じゃない。
なのに友達は多い。
それがまたちょっとムカつく。
「でー、リオちゃんのスカウトの件はどーすんの?」
最初からいたうちの一人が俺の顔を見た途端、遙がまた眉を吊り上げた。
「男に『ちゃん』とかつけんな」
明らかに不機嫌丸出しの遙とは対照的に他の人たちはなんだかとても楽しそうだ。
「はいはい。今日のおまえ、なんか矢本のお父さんみたいよ?」
誕生日席に座った人がまたクルクルとペンを回す。
でも、笑っているだけで口は挟まない。
その他大勢もみんな笑っていたけど、俺は沈黙していた。
この分だと絶対あとでまた遙に文句を言われる。
何も悪いことなんてしてないのに、なんでいつもこうなるんだろう。
「つか、瀬崎。矢本をスタッフに―――」
「却下。こんなトロいヤツ入れられるかよ」
「そっかぁ? すごいまともそうに見え―――」
「却下だ、却下。利央、おまえ、もう帰れ」
言い終わらないうちに腕を捕まれ、部室を引きずり出された。
帰るのは構わないけど、相手は一応先輩だ。
せめて「失礼します」程度の挨拶はしたかった。
そして、正門がどっち方向なのかくらいは教えて欲しい。
……と思ったけど。
心の声が聞こえたのか、遙にしては珍しくそこで俺を放り出さなかった。
「自転車で来たのか?」
「違う。バス」
正門を抜け、左に曲がったところにあるバス停までわき目も振らずに歩いていく。
もちろん俺の手は掴んだままだ。
親切心なのか、迷子にでもなられるといっそう迷惑だと思ってるからなのかは追求しないほうがいい。
でも、いつもよりほんの少し優しいような気がしたのでお礼だけは言っておいた。
「わざわざありがとう」
最初の部分を強めに言ったのは厭味のつもりだったけど、遙には通じなかったようで。
「バカ。コンビニ行くついでだ」
普段どおりにそんな言葉を返した。
「……なんかムカつく」
どうして遙はいっつもこんななんだろう。
「『なんか』ってなんだよ。その部分を言ってみろ」
「言ったら直してくれんの?」
「俺が悪いならな」
「……自分が悪いって思ったことなんて、今までの人生で一回もないくせに」
言い返しながら、あーあ、と思った。
「まっすぐ帰れよ。フラフラしててまた捕まっても知らねーぞ」
「バスは寄り道なんてしないし」
「そういうこと言ってんじゃねーだろ」
楽しみにしていた新生活。
なのに、これじゃ今までと少しも変わらない。
むしろレベルを落しても別の学校に行ったほうがマシだったかも。
うららかな春の日差しの中、かすかな後悔が俺を取り巻いた。
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