- 春ノイズ -

-6-

この不機嫌は一晩では終わらなかった。
しかも、学校でもぜんぜんそれを隠せていなかったらしい。
「矢本、大丈夫かー?」
桜沢に何度もつつかれ、倉田には『元気が出るチョコ』をもらったが、気分が浮上することはなかった。
得意なはずの体育でも絶不調。
先生にまで「朝飯ちゃんと食ってきたのか?」と心配される始末だ。
更衣室で着替えを済ませたあと、携帯を見たら遙からメールが来ていた。
それより前に電話も3回。
昨日の態度への謝罪かと思ったらそういうことでもなく、『帰りにイベント部の部室がある建物の一番奥の部屋で待ってろ』という一方的なものだったから余計に腹が立った。
返事は出さなかった。
無視を決め込んだわけではない。
言いたいことがありすぎてうまくまとまらなかっただけだ。
「終わった、終わった。やっと昼休みー」
能天気な桜沢の声に押されながら更衣室を出る。
角を曲がると前方に小さく遙の後ろ姿が目に入った。
長い廊下の真ん中辺りを左折する。
向かっているのが1年の教室方面だと気付き、足を止めた。
「桜沢、俺ちょっと……」
「いいけどー。瀬崎先輩とケンカでもした?」
「……ってほどじゃないけど。ちょっとムカつくことがあって顔見たくないんだ」
桜沢が教室から弁当を持ってきてくれたので、開放されている第二校舎の空き部屋で昼食をとった。
「倉田は部に用があるからそっちでメシ食うってさー」
「ちゃんと部活動してるんだな」
「あいつ意外とマジメだからなー」
食べ終わったらそのまま次の授業場所に行ってしてしまえばいい。
申し訳ないが、教科書は桜沢に持ってきてもらおう。
「悪いな」
「いいよ、どうせ倉田のも持ってこないといけないから」
弁当箱を渡し、手ぶらで次の教室に向かったのだが、誰に聞いたのか遙は移動先で待ち伏せしていた。
「わざわざこっちまで来るなよ」
昼休みはまだけっこう残っているので、教室には誰もいなかった。
それでもできるだけ小さな声で文句を言ったのだが、遙にそんなものは通用しない。
「だったら電話くらい出ろ。メールまで無視しやがって」
怒っているせいなのか、普段より一割増しの声だ。
「遙、俺に用事なんてないだろ?」
冷静さを装っていたせいなのか、通行人が微笑ましいものに向けるような視線を送ってくるのがいっそう腹立たしい。
「話がある」
「もうすぐ授業始まるし」
「いいから、ちょっと来い」
不意に手を掴まれ、でも、思いきり振り払った。
「遙って、」
こんなに頭に来てるのは幼稚園のとき以来かもしれない。
「遙ってさ、俺の都合とか全然考えないんだよな。真剣に頼んだことだってまったく聞いてなくて全部無視するし、おかげでこっちがすっげー困っても面白そうに笑ってるだけだし、みんなにそうならまだしも、大事な相手ならバカみたいに愛想いいし。そういうところ、昔から大っ嫌いだった」
もうどうにも止まらなくて、ぶち切れた気持ちのまま言い放つ。
「俺ももう遙の言うことなんて聞かないから。二度と話しかけるな」
背中を向ける直前に一瞬だけ飛び込んできた遙は少なくとも怒ってはいなかった。
むしろ複雑で形容しがたい表情で、なんだかひどく悪いことをした気分になった。
休み時間に文句の一つくらい送ってくるかと思ったのに、結局一度もメールはこなくて。
「……なんだよ」
悪いのは遙で、絶対に俺じゃない。
だけど、なんだかひどく後味が悪かった。


帰り際、不機嫌だだ漏れで靴を履き替えていたら、見覚えのある顔と遭遇した。
イベント部に拉致されたとき、誕生日席に座ってペンをクルクル回していた2年生だ。
「瀬崎なら今日は帰ったよ。ちなみにちょっとヘコんでた。……矢本、なんかやったでしょう?」
にっこり笑って言われたのがそんな言葉だったもので、不機嫌メーターがさらに上昇する。
「俺が悪いわけじゃないですよ」
ふてくされたまま何気なく目をやった胸ポケットには青いネームプレートが珍しく表向きについていた。
書かれている文字は「能見」。
……会長だった。

靴を履き終えたあとも立ち去れずにいたのは、たぶん『ちょっとヘコんでいた』という遙の様子が気になってしまったからだろう。
そのおかげで、「お茶でもどう?」という会長の誘いに乗ってしまったのだ。
行き先は例の場所。
つまり、イベント部員の住処だった。
到着した時には副会長以下、荻&綿貫といういつものメンバーに加えてもう一人、曽根(そね)という2年生がいた。
イベント部の部室だというのに、何故かみんな生徒会の仕事をしている。
生徒会とかけもちしているヤツが多いのか、手伝わされているだけなのかは不明だったが、次の行事の打ち合わせをしながらお互いの作業に没頭していて、こちらの様子を気にかけているようには見えなかった。
だから、会長にのみ聞こえる程度の小さめの声でさらりと昨日の話をしたんだけど。
「あー、阪口先輩なー」
「結局、親とはうまく行かなくて一人暮らしすんのかぁ」
「矢本っちゃん、瀬崎と阪口先輩付き合ってたのは知ってんの?」
みんないっせいに食いついてきた。
「……噂はなんとなく」
どうやら共通の知り合いらしい。
今さらながら話したことを後悔した。
「で、追い出された矢本はご立腹なわけだ?」
「そりゃあそうですよ。普通自分で誘っといて『さっさと帰れ』って言わないですよね?」
詳細を語るにつれ、またふつふつと怒りが湧いてきて、口調にトゲがまじる。
「そうだなぁ、まあ、瀬崎の言い方は悪いと思うけど、そんくらいは許してやれよぉ」
ここにいるのは遙の友達ばかりなので、こっちの言い分に全面的に同意してくれるわけではなく、みんながみんな「そんなに怒らなくても」って感じだった。
「でも、矢本は頭にきてるんだよね?」
会長がにっこり笑ってこっちを向く。
どうしてこの人は全てが演技臭いんだろう。
「ここではそんなことないんでしょうけど、遙って俺のことはすぐバカにするし、子供の頃から俺が嫌がるようなことばっかりして―――」
昨日だってコーヒーだってまだ少ししか飲んでなかったのに、当たり前のようにあっさりと追い払われた。
あの先輩と比べたら、俺はすごく『低いもの』なんだろう。
そう思ったら、腹が立ってしかたなかった。
「けどさー、仮に相手が阪口さんじゃなかったとしても、久しぶりに会った先輩と毎日顔見てる近所の従兄弟だったら、先輩を優先するよなぁ?」
そんなの当たり前とみんなが口を揃える。
それについてはそうだろうって俺も思うんだけど。
「もしかして、矢本ってそーゆー経験ないんだ?」
前髪洗濯バサミの言葉を聞いて、ハッとした。
「え?」
今まで一度も考えたことがなかったけど。
そういえば、遙は俺との約束を後回しにしたことはなかったかもしれない。
「そういや、瀬崎っていっつも矢本優先だよな。子供の頃さ、矢本がやっと自転車乗れるようになって、じゃあ、一緒に遊びに行こうってことになった時も結局途中で矢本がついてこれなくなって」
それはうっすら覚えている。
子供心にも悔しくてしかたなかったけど、一人で家に戻ったっけ。
「ああ、そうそう。あん時も瀬崎は矢本をおっかけて帰ったんだよなー」
「なんだ。意外と優しいじゃん、瀬崎」
そうじゃない。
遙は「つまらないから帰ってきた」と言っていたはず。
少なくとも俺の記憶ではそうなっていた。
「なんか楽しそうだよなー。俺ンとこのイトコって女ばっかだし、年も離れてっから、すっげ羨ましー。何食ったらそんな仲良くなれンの?」
「食いモン関係ねーっつの」
「でも、よく『おんなじもの食って育った感じ』って言わね?」
「兄弟っぽいってことかよ?」
「まあ、そんなフンイキ」
みんなが勝手に盛り上がる中、仲直りしたほうがいいんだろう、ということくらいは俺にも分かった。
「それにしても」
ニヤリと笑ったのはやっぱり会長だ。
「矢本ビジョンの瀬崎、めっちゃくちゃ性格悪そうだなー」
「実際そうだと思いますけど」
「えー、そう? 瀬崎ってそんな黒い性格じゃないだろ」
「俺が落とした物、一回拾ってもっと遠くに投げるような奴ですよ?」
「あー、それはやりそうだな」
ほら、やっぱり最悪だ。
「下駄箱から俺の靴、片方だけ盗んで隠したりとか……小学校の頃の話だけど」
「あー……それはなー」
「そうだなー」
「アレだなー」
いい年してノリを合わせるな。
というか、「アレ」でごまかすな。
「なんで笑ってるんですか?」
「そりゃあ、おかしいからでしょ、矢本っちゃん」
「何がおかしいのかを聞いてるんですけど」
「何って、瀬崎が」
「なんかそういう奴だなーと」
「そうそう。やりそう。すごくやりそう。絶対やりそう」
「それ、性格悪いって言わないですか?」
「性格は……『悪い』んじゃなくて『可愛い』んじゃないのか?」
「はあ?」
通じない。
俺の常識が。
ここにはまったく別の価値観があるらしい。
という結論で。
「……もういいです」
俺は全てを諦めた。
第一、こいつらはみんな遙の友達なんだから、遙の肩を持つに決まってる。
同意を得ようなんて思ったのが間違いだった。
さっさと帰ってムカつくことは全部忘れてテレビでも見よう。
そう思いながら立ち上がったとき、
「失礼しまーす」
ギギギガッチャーンという、いったいそれはどこから出てるんだよという音と共にドアが開いた。
今すぐにでも崩壊して下敷きになってしまいそうなくらいだというのに、誰も気に留めないあたりも俺には解せない。
「おー、岡部。どうした?」
「大場先生がー、枝広先輩呼んでこいってー」
間延びした声を発するのは、この間、新入生歓迎会で司会をやらされていた一年だった。
もうすっかりここに馴染んで同じ空気になっている。
「あー、夏祭の件か。……じゃあ、俺らちょっと職員室にプログラムの説明に行ってきます」
「ああ、よろしく」
わらわらと人が出て行き、やはり妙な音を響かせながらドアが閉められる。
「慌しいねぇ」
西日の差す部屋に俺と会長の二人だけが残され、それを意識したとたん微妙な空気が漂った。
「ねえ、矢本。阪口さんが瀬崎と付き合ってたって知ってるから拗ねてたってことはない?」
その質問の意味は、たぶん分かっていなかった。
知ってることと拗ねることが、どう考えても繋がらない。
「……噂はなんとなく聞いてましたけど、それと俺が怒ってることは関係ないです」
「そう?」
なぜ疑問系だ?
……と思ったとたんにニッコリ笑われた。
しかも、こっちがわかっていないことまで全部お見通しだよって気配を漂わせている。
「じゃあ、それは置いておくとして。まあ、まじめな話、瀬崎は矢本に優しいよ」
「へー、そーですか」
まったく納得していないという気持ちが溢れまくりだったようで、会長がいっそう大人の笑みを浮かべた。
そして。
「ほら」
渡されたのはハンカチより少し小さい布切れ。
「なんですか、これは」
「メガネクリーナー」
「……俺、メガネかけてませんけど」
会長はいったい俺に何を伝えようとしているのか。
感性が違いすぎるようなので、普通に日本語で表現して欲しいと頼んだら、「心の曇りを落としなさい」となにやら宗教じみた言葉が返ってきて、よけいに嫌になった。
もう帰ろうと決めて、再び腰を上げる。
すると、会長がまた口を開いた。
「まあ、アレだ。瀬崎ももう高校生だから」
「そうですけど」
だったら、何?
……って顔を思いっきりしていたんだろう。
今度はプッと露骨に吹き出されてしまった。
「最近はもう子供の意地悪みたいなことはしてないんじゃないかなって思うんだけど?」
あふれんばかりの慈愛の笑みで言われたんだけど。
「さあ。去年は学校違ったんで」
あんまり会わなかったし、と答えた瞬間の会長の目はとてもとても何か言いたそうだったが、口から出てきたのはわりと普通のアドバイスだった。
「だったら、せっかく同じ学校入ったんだし、一度ちゃんと話してみるといいよ。お互い成長してるんだから、今までとはちょっと違うかもしれないし」
知りたいことがあったら遠慮せず本人に聞く。
文句も本人の目の前で言う。
聞いてくれそうになかったとしても諦めずに何度でも伝える。
「瀬崎だって自分の知らないところで愚痴言われるよりそのほうがいいと思うけどな」
「……そうですね」
小さな頃からの癖で、遙に馬鹿にされるような質問は自然と口にしなくなっていた。
言いたいのに飲み込んでしまうことも多かった。
遙に好きな子のことを聞いたときだって、本当はけっこう興味があったのに。
「まあ、親友としてフォローさせてもらうと、瀬崎は矢本が思ってるほど黒い性格じゃないから。この機会にそのへんも確認しておいてよ」
これからの三年間が楽しくなるかどうかは自分次第なんだからと言われ、俺も頷くしかなかった。
確かに、なんでも遙のせいにして文句ばっかり並べていてもしかたない。
「まあ、今回のことは瀬崎も悪いし、俺からもさりげなく言っておくから」
「すみません。なんか、いろいろ……」
正直言って、会長にこれほど心配してもらえるとは思ってなかった。
遙と仲がいいって時点で、「変なヤツに違いない」という先入観があったのがいけなかったんだろう。
失礼な発言も多々してしまったのに、会長は穏やかな笑顔を向けている。
本当にすみません。
そして、ありがとうございます。
心の中で深々と頭を下げかけたとき。
「いいんだよ、そんなこと。俺もすっっごい楽しみだから」
意味するところはよく分からなかったけど。
そのとき会長の唇の右側の端っこだけが少し上がって。
「……何がですか」
なにやら不吉な予感がしたので、先入観はもうしばらく持ったままでいることにした。



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