-ひとなつ-




-7-

トイレで便座とオトモダチになっていたらノックがあって。
「……ぅいー」
中途半端な返事をしたらドアが開いた。
「夏だから風邪は引かないと思うけどな」
所長は「念のため」といって棚の上にバスローブを置いてから、
「二日酔いで苦しんでいる榊には悪いけど」
例のごとくクックックと笑い転げた。
その後。
「―――いい眺めだな」
その言葉と同時になんだか嫌な空気が漂った。
使ったことがないんじゃないかと思われるようなピカピカのトイレはけっこう広い空間で、その真ん中に便座とオトモダチの俺。
両膝を床に着いてドアに背を向けて、いつでも吐ける状態で前かがみ……
「榊の、それ。何度見ても下着つけてるみたいだよな」
笑いながら凝視している視線の先は俺の海パンの跡。
と思っていたが。
「ああ、それと……痛くないか?」

―――……そんな広い部分は見ていないかもしれなかった。




吐き気がおさまった後になってもまだ異次元空間な気分が抜けていなかったが、だからと言ってこのままずっとトイレにこもっていても仕方ないので、バスローブを羽織って洗面所で顔と口を洗ってからリビングに戻った。
所長はもうすっかりシャワーを浴びて、ワイシャツを着て、ネクタイを結んでいる最中だった。
「大丈夫か? 今日は俺が電話番をしているから、榊は家に帰れよ」
事務の子にもそう言っておくからなんて言いながら余裕の微笑み。
もうそんな時間なのかと思って時計を見たが、まだ始業までにはずいぶんとあった。
「いつもこんなに早く出てるんですか?」
そういえば、俺が出社する時間には所長はもう席についている。

……っつーか、俺はこんな普通の会話をしていていいのか?

「ああ、そこのカフェで朝食を食べながら新聞に目を通すのが日課でね」
今度一緒に行こうって言われたけど。
「俺んち、反対方向ですから」
わざわざ会社を通り越して、朝っぱらからこんなところまで来るかよ。
突っ込みの全てが心の中だけで消えていく。
俺はまだパニック状態が抜けていないらしい。
「そうじゃなくて。ここに泊まった時の話だ」
「はあ?」

「次回は二日酔いにならないように楽しもうな」とか。
「週末なら朝もゆっくりできるだろう」とか。
「慣れたらもっとイイことを教えてやるからな」とか。
とか、とか、とか。

……異次元空間再来。

「あのー、ちょっと、それ以前の問題で、俺、昨日の記憶がですねー」
ないんですが。
全く何一つカケラさえ残ってないんですが。
話がこじれないうちにと思って正直に申告したが。
「そうなのか。残念だな」
思い出したければ最初から詳細を話してやってもいいけど、なんてニッカリ笑われて。
「……けっこうです」
知らないままのほうが幸せな気配がしたので丁重にお断りした。

「まあ、いいか」
所長の口からは溜め息のような、しのび笑いのような、妙な空気が漏れて。
けど、その後はとても事務的な会話が続いた。
「じゃあ、俺はもう出るけど。鍵はこれ。明日返してくれればいいから。水飲むなら冷蔵庫に入ってる。昨日と同じものを着たくなければその辺から出して適当に着ていけよ。あとは――――」
呆然としている俺を慈愛に満ちた眼差しで見つめながらも、会社とまったく同じ口調で言うべきことだけを並べ立てた。
「そういうことで。わかった?」
朝の準備についてはナンの異議もないけど。
「……はぁ」
まだ夕べのことが腑に落ちない。
さわりだけでも聞くべきか、それともやはり聞かずに流すべきかを悩んでいたら。
「榊、前から言おうと思っていたんだけどな。社会人なんだから返事は歯切れよく『はい』って言えよ」
なぜかすっかり上司な態度。
まあ、実際上司なんだけど。
「っていうかー」
納得してないから「はぁ」なのであって、普通はちゃんと「はい」って言ってると思うけど。
でも、そんな言い訳などする前に返事を催促されて、仕方なく「はい」と答えた。
所長はニッコリと笑いつつ、昨日と同じノリでこんな言葉を。
「榊は素直だよな」
普通に聞いたら褒め言葉だが、なぜかまた異次元空間の扉が開きそうな予感がしたので思わず後ずさりした。
その瞬間。
「じゃあ、榊、また明日な」
そんな言葉と若干キザな笑みと共に、頬を押さえられて。
「なに? う、あ、&%$#!!!!」

……キスされた。

一瞬よりわずかに長い程度だったけど。
所長には『朝の挨拶』とか言われたけど。
キスがヘタな榊が可愛いとまで言われたけど。

……舌を入れられた。

目の前で異世界への扉が開きまくっていた。
なのに、諸悪の根源は涼しい顔で日常的な注意事項を付け足した後、最後に笑って忠告をした。
「万が一、マスターに会って妙なことを吹き込まれても信用しないようにな。榊はすぐに悪い大人に騙されるから心配だ」
笑ってるけど。

……悪い大人って、マスターじゃなくておまえだろっ

心の中では確かに叫んでいたものの、何一つ言い返すタイミングをつかめないまま、バタンとドアが閉まって、俺はその場に取り残された。
「い、い、いったい、これはなんなんだ??」
異世界から戻るのに要した時間、約1分。
一人になって昨日の会社での遣り取りから細かく思い出してみたが、
「……なんでこんなことになってんのか、ぜんぜんわかんね」
とりあえず、自分のアパートに戻って、平静を取り戻してからゆっくり考えることにした。
シャワーを借りて、昨日と同じ服を着て、ダルいからタクシーを拾って帰ろうかと思ったその時……
「あれ??」
財布がないことに気付いた。
ついでに言えばキーケースもない。
さらに付け加えれば。
「……俺、カバンどこに置いてきたんだろ」
海パンやらタオルやらが入ったビニール袋はあったけど、通勤用のカバンがなかった。
「店に入るまでは持ってたよな。所長が潰れたから自分で払おうと思って。つーっことは――――」

……店に忘れてきたらしい。

「あの店、何時に開くんだよ??」
一度アパートに戻って出直してきたいところだが、帰るにしてもバス代さえない。
「歩いて帰るのもなぁ……」
暑いからイヤだっていうのもあったが、それとは別に不自然な場所の不自然な痛み。
いや、痛いっつーほどは痛くもないんだけど。
でも、なんていうか、あの、その。
「はぁ……」
溜め息で呼吸をしながら、靴を履いて部屋を出て、エレベーターを降りた所で。
「榊さん。おはようございます。ご気分はいかがですか?」

……悪い大人に会ってしまった。



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