-ひとなつ-




-8-

所長の忠告を守るなら、できればこいつとも会話などしないほうがいいんだろうけど、カバンを店に忘れていると思われるため、そういうわけにもいかず。
「あのー、俺……」
言いかけた瞬間に、
「ご出勤前に朝食でもいかがですか? たいしたものはご用意できませんが、お時間があれば召し上がっていってください」
妙に明るい笑顔で誘われてしまった。
「時間はあるけど……」
昨夜の記憶がなくて、ついでに二日酔いで、気分もすっきりしない上に下半身に味わったことのない感触が残ってて。
しかも、さっきまでの所長との遣り取りが身体の中全体ににつかえているような気がして朝飯なんてのどを通らない自信があったんだが。
「カバン、お忘れでしょう?」
不意を突くようにそんな言葉が飛んできたので反射的に頷いていた。
もちろん俺が肯定したのは「カバンを忘れた」という事実に対してなんだけど。


3分後。
「トーストでよろしいですよね? 好き嫌いがなければ、サラダとベーコンエッグをお作りしますが―――」
客が誰もいない店のカウンターに座っていた。
「……はあ」
なんだかなぁ……という気持ちはあったが、この程度の二日酔いならしっかり水分を取って食うもの食ったほうが早く復活できるだろうと思い、
「いただきます」
未だに腑に落ちない事柄だらけだったものの、とりあえずは朝メシは頂戴することにした。
しかも、食い始めたらけっこう美味くて。
俺ってつくづく健康体だな……とか、わけのわからない感想を持ちつつ、
「ごちそうさまでした」
皿の中はあっという間にすっかりパンくずだけになった。
「コーヒーをもう一杯いかがですか」
「どうも」
何か大事なことを忘れているような気はしたものの、流されるままにおかわりをもらい、ふと気が緩んだ時、それを思い出した。
つまり、昨夜と今朝の異次元空間だ。
「悩み事ですか?」
そんな平凡な言葉と共に目の前で悪い大人その2が微笑している。
いかにも善人のような顔で、だ。
「……悩み事っつーか」
半分はオマエのせいだろうとか思うんだが。
その前に自分でもよくわからないことだらけで、なんと答えたらいいものか悩んでしまった。
突き詰めて考えてみると自分の置かれている状況がわかってないだけで、だからと言って昨夜俺を酔い潰した張本人にそれを言うのもなんだかなという感じで。
なのに。
「ああ、彼ともう寝たんですね」
涼しい顔で真正面からそう言われた。
俺はその時ちょうどコーヒーを飲んでおり、
「ぅぐっっ!!」
辛うじて噴き出しはしなかったものの、しばらくの間呼吸ができないほどひどくむせてしまった。
なのに、追い討ちをかけるように悪い大人は目の前で異世界の言葉を吐き続ける。
「感染するような病気がご心配でしたら、彼はそういうことには気をつけていると思いますが……まさかナマでしてしまったわけではないんですよね? ああ、もしかして、身体が痛むとか? あるいは局部が……でしたら、塗り薬を差し上げましょうか。じゃなければ、彼に証拠写真でも撮られましたか? それともアノ時の声を録音されたとか――――」
全てを聞かなかったことにしたかったが、あまりにも聞き捨てならないことばかりだったために脳が避けきれず、俺はまた予期せぬタイミングで異世界に落下した。
「って、て、て、ていうか、マスター」
なんとか現世に戻ってこなければと、必死になってみたが。
「なんですか、榊さん」
「た、たぶん、そんなことはなかったと」
思いたい。
だが……どうだろう。
「榊さん」
また妙な笑みを含んだ目がキラリと光る。
「な、なんすか?」
「昨夜の記憶、ないんじゃありませんか?」
そりゃあ、間違いなくオマエのせいだと思うんだが。
「……あんまり」
なんでこう普通に返事をしてしまうんだろう、俺って。
しかも、自分が悪いなんてこれっぽっちも思っていない顔の男は目の前でまったく他人事のようにアドバイスをしやがった。
「すっかり忘れてしまったのでしたら、何かとご注意された方が」
『危険ですからね』、それから『何事もないといいですよね』と。
本当にまるっきり人事のように。
「……キケンって」
ナニがだよ??
百歩譲って「寝た」ということが事実だとしても、それ以上のキケンなどないだろうよ?
……と思ったんだが。
「計算高い方ですから、合意した証拠もないのに手を出すことはなでしょうし」
あられもない写真が携帯に残ってないかとか、声が録音されてないかを確認したほうがいいですよ、なんて恐ろしい言葉をまた笑顔で突きつけられた。
「か、確認って言われても」
他人の携帯を勝手に見られるわけでなし。
「ああ、そうですね。彼のことですから暗証番号でガードしているでしょうね。なんといってもあの性格ですから」
『隙なんてないでしょう』ってニッコリ笑われて。
所長のデスク周りの異常なほど几帳面に並べられたファイルを思い出した。
「……詳しいんですね。仲いいんすか?」
そんなふうには……見えるような、見えないような。
マンションの部屋が隣同士ってーのも、なんか怪しげな感じだし。
けど、所長は「信用するな」って言ってたんだよな。

―――……あー、もう、ぜんぜんわかんねー。

溜め息と少しの頭痛と鈍い身体の痛み。
「じゃ、俺、そろそろ……」
とりあえず礼だけ言って、カバンを持って店を出た。
休んでいいと言われていたから、そのまま帰ろうかと思っていたんだけど。
「なんか気になるよなぁ」
頭の中は悪い大人たちの言葉でひしめいており、穏やかに休みを過ごせる気分でもなかった。
「なんだかなぁ」
うだるような暑さと真夏の空。
これ以上はないほどの夏休み日和だというのに。
「……仕方ねーな。あーあ、もう、なんだっていうんだよ」
うだうだ言いながらバスに乗って、所長しかいないと思われる営業所に向かった。
寝てたらなんだって言うんだ。
記憶がないからって困ることなんてないだろ。
それをネタにゆすられるようなことがあったら、間違いなくそれはセクハラだろ?
ぐるぐる考えていたら、少し強気になってきたんだけど。
「……っつーか、もしかしてまだ酔ってんのかな、俺」
バスの匂いにむせそうになって、ついでにだんだん全てがどうでも良くなってきた。



会社のある通りも一段と人気が少なくて、そのうえビル全体が普段の3倍はひっそりしていた。
「ホントにどこもかしこも夏休み気分が充満してるよなぁ」
自分だけこんなに悶々としていることがなんだか解せない。
だが、足を踏み入れたフロアはほどよく冷気が満ちていて、二日酔いの頭にはかなり心地よかった。
「おはよーございます」
俺の声と同時に顔をあげた所長はすっかりいつもの会社モードで、一瞬ホッとしたんだが。
「おはよう、榊。気分はどうだ? 体は大丈夫か?」
その言葉は今朝の異世界の会話と同じ音で俺の脳内に響いた。
「……別に……」
その話はあんまりしたくなかったし、やや違和感はあるものの、「大丈夫か」と心配されるほどのものでもなかったので、多くは語らないことにした。
「無理するな。休んでもいいんだぞ」
またそう言われたけど、着任して間もない所長に留守番ができるとも思えない。
「ここでのんびりするからいいっす」
どうせ客なんて来るはずはない。
ぼへーっとしていても一日は終わるのだ。
涼しくて適度に緊張感のある場所で冷静に昨日を振り返ろうと思っていたら、視界の隅にキラリと光るものが。
窓際の作業デスクの上。
朝の陽射しを浴びていたのは所長の携帯。
その瞬間に、
『あられもない写真が携帯に残ってないかとか、声が録音されてないかを……』
そんな悪魔のささやきが蘇って消えていった。
一日中ここにいるなら、チャンスもあるはず。
所長だって茶を取りに給湯室に行くこともあれば、トイレにだって行く。

……よし、それだっ!

そう思った瞬間、早くもチャンスはやってきた。
「榊、社内検査の時の資料はどこにある?」
もはや仕事一色になったらしい所長を見ながら俺もできるだけ真面目な顔で答えた。
「会議室のキャビネットに」
このまま携帯を置いて会議室にこもってくれれば……
そんな願いが通じたのか、所長は手ぶらで席を立った。

――――やった……

姿勢のいい背中を見送ってから、こっそりとデスクに近づく。
「けど、暗証番号かかってたら終わりだな」
ぶつくさ言いながらボタンを押してみたけれど。

……開くぞ!!

だが、まさに勝利宣言をしようとしたその時、会議室のドアが閉まる音がした。
すぐにデスクに戻せばよかったのに、慌てるあまりそれをズボンのポケットに隠すのが精一杯だった。
「榊、悪い。ちょっと手伝ってくれ」
重いものなんて持たせないからとよくわからないことを言われて、
「え、あ、あああ、はい」
携帯をもとの場所に戻すチャンスを与えられないままズルズルと会議室に連れていかれてしまった。





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