-ひとなつ-




-9-

静まり返った会議室のテーブルには検査の資料が広がっていた。
「去年の11月から今年の4月まで数字を確認してくれないか。本社にある申請書と食い違ってる箇所があるはずなんだ」
二日酔い且つグルグル状態の頭で、そんなに細かい作業ができるとはとても思えなくて、自分でもわかるほど顔は引きつっていたんだけど。
「急がなくていいからな」
どうせ今日はこれくらいしかやることがないんだから、と言われて「はあ」と頷いた。
ソファに座って、ファイルをめくって、たまに電卓を叩いて。
その間に所長は俺の背後で立ったまま該当するファイルを探して。
沈黙が流れまくる狭苦しい部屋。
窓はあるが、見えるものと言ったら青い空だけ。
そして世間は夏休み。
ここだって静かで快適。会議室と言えど、応接室兼用だからソファの座り心地もいい感じだ。
つまり。
「ふぁ……」
眠くなってきた。
「榊、疲れたら休んでもいいぞ」
何故かいつもより10%増し甘い声の所長と二人。
昨日までならカチコチに緊張してたと思うんだが、もうそんな初々しい気持ちには戻れない。
なんと言っても異次元空間を背負っている男だ。
侮ってはいけない。油断も禁物。
なのに、昨日の酒がまだ残っているのか普段ではありえないほど眠い。
しかも、さらに睡魔を誘うかのようになんだかいい匂いが。
コロンか何かつけてるんだろうなと思いつつ、半分寝たままクンクンと鼻を動かしていたら、肩の辺りに人の気配を感じた。
ぬぼーっと振り返ってみたら、15センチくらいの至近距離に所長の顔。
「……うわっ!」
一気に目が覚めたけど。
「ファイルを見てただけだよ。そんなに驚くことないだろう?」
笑いながら当たり前のように俺の真横に座ってしまった。
「……ってか」
驚くだろう、普通。
それだけじゃなくて、反射的に少し座る位置をずらそうとしたら、いきなり身体を押さえ込まれた。
「えっっ??」
すでに肩を掴まれていて、動くに動けず。
「榊、」
「な、ん……すか」
唇が目の前に迫って。
うわ、これはもしかして……と思ったのだが。
「俺に隠し事してないか?」
「へ??」
瞬きもできないくらいにフリーズしていたら、なにやらもぞもぞと太腿の辺りでうごめくものが。
「しょ……所長っ?!」
叫んだ途端、あと5センチで俺の顔面に触れる位置にある唇が意味深な笑みを浮かべた。
そして。
「―――俺の携帯、どうするつもりだったんだ?」


……すっかり忘れていた。


「えええええっと」
もう言い訳もできなくて。
仕方がないので全てを白状した。



俺がしどろもどろに語る間、所長は黙ってマスターからの忠告の再現を聞いていた。
それから、突然口を挟んだ。
「榊、」
怒ってるようには見えなくて、どっちかっていうと呆れてるような、ショックを受けてるような複雑な表情なのがまたイヤな感じで。
「……はい」
俺も恐る恐る返事をしたんだが。
「アイツのことは信用するなって言っただろう?」
ため息とピクリと動く眉。
やっぱりここはごく普通に怒られる気配なのでホッとした。
いや、怒られるのに安心してちゃいけないんだろうけど。
「そうですけどー……でもー」
ものすごく言い訳の前置きみたいな返事をしながら、気持ちの中では『だって、本当っぽく聞こえたんだよ。所長との今朝の妙な遣り取りのせいで』と責任転嫁しようとしていたんだけど。
やはりそんなわけにもいかず。
「えー……っと……すみません」
結局、もう一度謝ったら、所長は少し寂しそうな表情を見せた。
「どうしてそこで俺よりもアイツを信用するんだ?」
まあ、それはそうなんだけど。
会社にいるときの所長は真面目で融通の利かないタイプに見えるし、実際仕事はとてもきっちりしているんだから、そっちのイメージを優先させるべきだったんだろう。
だいたい俺を酔い潰したのだってマスターなんだし。
今朝の携帯の件だってマスターが勝手に吹き込んだことだし。
「……ちょっと魔が差したっていうか」
言い訳をしながらも俺はちょっと反省してたんだけど。
「榊、」
なぜかもう一度呼ばれて。
そのあと。
「お前の中に『両方信じない』という選択肢はないのか?」
静かな部屋にそんな言葉が流れていった。
ついでに「これだから榊は心配なんだ」とか言われて。
「それって、両方信じちゃいけなかったってことっすかぁ……」
俺の問いに、
「普通は信じないだろう」
当たり前のようにそんな返事が戻ってきた。

冷静に考えればそうなんだけど、だからと言ってそれを本人に言われたくはないわけで。
だって、この会話はどう考えても変だろう?
っつーか。
そんなことを言うくらいなら、俺を騙そうとするのはやめて欲しい。
「……なんだかなぁ」
脱力のあまり体が背もたれをズルリと滑ってそのまま横に倒れこんだ。
もう、このまま5時まで死んでようと思ったんだが、一度突っ伏した後で目を開けたら俺の視界を占領していたのは天井じゃなくて所長の顔。
「……え??」
しかも、身体の上にずっしりと重いもの―――もちろんそれは所長のカラダ。
「ど、ど、どいてくださいっ!!」
目の前でほころぶ含みのある笑顔にザーッと血の気が引いていく。
何が怖いって、
「携帯を見るよりも、もっとリアルに確認させてやるよ」
急にそんなセリフを言われたら、いくら俺でも身の危険を感じるわけで。
「い、い、いらないって……っつーか、ちょ、待……っ」
わずかに笑って見える口元に一瞬で身体が凍りついた。
「ほら、榊、じっとして」
俺のズボンのポケットから携帯を取り出した手がまた同じ場所に戻っていって、普通は絶対に触らない場所でうごめいていた。
「うわあああ……×××!!!」
叫んでみたけど、途中で口も塞がれ、しかも思いっきり舌を入れられて。
「ぅぐ、んんんんんんっ」
身体のあちこちに冷たい汗が流れていった。


それが何秒間だったのかとか、あるいは何分だったのかとか。
そんなことさえ思う余裕はなく。
ガチガチになった体と空白の思考回路。
瞬きも忘れてフリーズしていたら、再び笑い声が聞こえてきた。
「榊、そこまで露骨に固まることないだろう?」
もちろんその時にはもう唇も離れていて。
「本当に可愛い反応してくれるよな」
ようやく動かした目線の先には呆れるほど屈託のない笑顔。
「……しょ……所長……悪いこと、してるって……お、お、思ってないっしょ?」

上司が部下に。
しかも、会社で。

ありえない。
絶対にありえない。

なのに。
「悪いこと? 何もしてないだろ?」
これ以上はないほど爽やかな笑顔が堂々とそう告げた。
「……それ、本気で言ってたら怒ります」
俺がどんなに引きつっていても。
「別に怒ってくれてもいいけど」
あっさりとそんな言葉が返ってくるだけだった。

いきなり俺を襲っためまいが二日酔いのせいなのか、それとも異世界に転落したショックからなのか、もはや全てが分からなかった。

とりあえずは怒っておいたほうがいいんだろうと思ったから、深呼吸を兼ねてスッと息を吸い込んだら、
「じゃあ、今のは冗談として」
気配を察したのか、そんな言葉が。
……っつーか、そこでよく「冗談」とか言えるよな。
「榊がどうしてもって言うなら携帯の画像を見せてもいいよ」
もちろんそれが俺の本来の目的だったのだが。
携帯をチラつかせてクスクス笑ってるその顔が、なんだか異常に楽しそうで。
「……いいっす」
見たらロクなことにならないというかなり確かな予感が俺の脳内を通り過ぎて、仕方なく丁重にお断りした。
もちろん気にならないわけじゃなかったけど。
ここは会議室。
しかも、相手の呼吸音まで聞こえてしまいそうなほど静まり返った場所。
そんなところでマスターが予想していたような画像が開かれたら……―――
あまりのうすら寒さに俺はひとりでプルプルと首を振った。
「どうした、榊?」
所長はまだ笑ってるんだけど。
「……いえ、別に」
俺はもうそれについて考える気力を失っていた。
「ほら、遠慮することないだろ」
わずかに笑いを含んだ口元がそう告げて、男にしてはかなりキレイな指先が小さなボタンを押す。
「だから、遠慮しますって」
もはや、「やめろよ、絶対にやめてくれよっ!」と言う気持ちにまでなっていた。
「けど、記憶がないままだと気持ち悪いだろ」
そんな言葉のあとには、
「家に帰ってからゆっくり思い出したほうがいいかもな」とか。
「ここで色っぽい気分になっても困るかもしれないけどな」とか。
つらつらといろんな言葉が並べられたが、それでも俺の気持ちは動かなかった。
このまま放っておくと確実にまだまだアレコレ言われそうだったので、
「もう、いいっす。なんでも。どうでも」
俺は全てをぽーんと放り投げてしまった。
こんな投げやりな気持ちになったのも生まれて初めてだけど。
本当にもう。
俺の人生始まって以来の、最悪の夏になる予感がした。



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