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投げやりな午前中を過ごして、適当に昼を食って、ためていたデスクワークを片付けて。
一息ついて顔を上げると、またしても所長と二人きりの空間を意識してしまう。
何が嫌というわけでもないけど、どうもどこかが違う感じなのが、なんというか……。
「……俺、このあと出かけてもいいっすか?」
用なんてないけど逃げてしまえと思いつつ営業カバンを掴んだ瞬間、受付のインターフォンが鳴った。
慌ててネクタイがちゃんとしているかを確認して受付に出ていこうとしたら、客が勝手にフロアに入ってきた。
「榊君、この間の見積もりなんだけどさ。ちょっと内容を変えてもらいたくてね。急に悪いねえ」
図々しい上にあれこれと注文が多い取引先だから、いつもなら煙たく思うんだけど。
「いいですよ。どこですか?」
こんなありきたりの遣り取りに心底ホッとしながら、俺はとても普通の会社生活を手に入れた。
「見積もりの」とか言いながら、実はヒマを潰しにきただけらしいということが判っても、今日の俺は営業の見本のような接客態度。
「では、この内容で週明けに……―――」
にこやかに客を見送ったのが五時ジャスト。
所長は何をしているだろうと思いつつ、会議室を覗きに行ったけど。
「今日はもう終わりにしようか。どうせ明日も榊と二人だけだしな」
やや聞き捨てならない言葉とともにさっさと帰り支度を始めた。
テーブルには見事に資料が広がったままで、キャビネットも施錠されていない。
まあ、俺はどんなに散らかっててもぜんぜん気にならない性格だし、どうでもよかったけど、几帳面な所長にしては珍しい。
だが、それを言ったら、今から片づけを手伝わされるのは見えていたから、短く「はい」と答えて自分も帰宅準備をした。
このまま速攻で帰って存分にぐったりしよう。
ガンガンにクーラーを入れて、テレビをつけて、ダラダラ過ごす。
そして、昨日からのことは脳内から抹消してしまえ……と思ったとき。
「榊、」
なぜかまた呼ばれて。
ついでに。
「夕食は何がいい?」
「はあ??」
なんで今日も誘われてるんですか、俺は……。
激しく疑問を持ったので即座に断ろうとしたんだが、それを察したかのように所長がにっこりと笑顔を向けた。
「なんだ、メシくらい付き合えよ。どうせアパートに帰って寝るだけなんだろう?」
そのあと付け足された「おごるから」の一言。
体もいつの間にか普通の状態に戻っていて、これといって異常もない。
ついでに午後は来客があったせいでそれほど異次元でもなく、昨夜のことはやっぱり俺の気のせいだと思いはじめていた。
そんな理由から、
「……いいっすけど」
少しためらいつつも小さな声で消極的なOKを出した。
当然のように所長の車に乗せられて。
「どこ行くんですか?」
あんまりアパートから遠いのも面倒だし、何よりまた異次元空間ができたら嫌だと思ったのだが、運転席の所長はとても会社仕様の顔をしていた。
「榊が担当してる店、この間改装しただろう? お祝いを買ってあるから、持っていくついでに次回の……―――」
けっこう流行ってる店だから顔を繋いでおくといいだろうと言われて。
「はぁ」
相変わらずよくわからないヤツだと思いながらも返事をした。
そのあとも所長はずっと契約先の話をしていて、そのうちに俺だけ警戒してるのがバカらしくなってしまった。
取引先の店で夕飯を食べるだけなんだから、まずいことなんて起こるはずがない。
「じゃあ、車をマンションに置いてくるから、榊は先に店に行ってろ」
所長のマンションの近くで下ろされて、駅のほうを見遣った。
ここから店までは歩いて数分。駅からも近いからバスのある時間に帰ればさほど面倒でもない。
とりあえずは改装祝いから次の仕事に結びつけるような話をすればいいだけだ。
「あ、榊、これ持っていけ」
店長に渡すようにって言われて後部座席に置いてあったリボンのかかった箱を抱えて一足先に店に向かった。
店は明るい雰囲気の飲食店。ターゲットが若いOLやカップルなだけあってそこそこ小洒落たつくりになっている。
「おや、榊さん」
偶然キャッシャーの前に立っていた店長に挨拶をしていたら所長が追いついて、そのあとは3人で仕事の話をしながらメシを食うことになった。
ともすると接待のようなシチュエーションだが、店長と所長の年が近いせいかテーブルはわりとフレンドリーな空気をかもし出していた。
仕事の話は半分くらいで、あとは趣味のこととか、時事ネタとか。
「榊さん、若いんですからたくさん飲んでくださいね」
そう言われて必要以上にワインを飲まされたことを除けば、まずまずいい感じだった。
そのまま和やかな雰囲気で会食は終わり、店長には当然のように「ごちそうしますよ」と言われたが、今日はお祝いだからと所長のポケットマネーで会計を済ませて店を出たのが7時過ぎ。
「日が長いっすよねー」
時間的な余裕からか、飲まされ続けたワインのせいか、俺の機嫌もすっかり良くなっていて、もはや所長と二人で歩いていることもあんまり気にならなくなっていた。
「所長、領収証もらわなくてよかったんすか?」
二人は終始仕事モードだったが、俺だけはけっこう飲み食いしたので、一応心配もしてみたんだが。
「前任者の使い込みの調査で来てるのに、社費で夕飯を食う気はないよ」
にこやかにそう言われて、「そうですね」と頷いた。
ついでに。
「榊の倍は給料もらってるから心配するな」
そんな言葉が返ってきて。
「……そうっすか」
少しやさぐれながらそう答えた。
すっかり忘れてたが、同業他社から引き抜かれたというくらいだから、それなりの条件でうちに来たことはまず間違いない。
安月給の俺が気を遣う必要なんてないのだ。
とりあえず「ごちそうさまでした」と言って、さくっと方向転換をした。
そして。
「お疲れ様でした」
そのままさっさとバスターミナルに向かおうとした時。
「榊」
また呼び止められて。
「……な……んすか?」
振り返ったら、なんとなく微妙な空気が流れていた。
これは紛れもなく異次元空間の予兆。
にわかに緊張しつつ、何を言われても絶対に帰ってやると固く誓っていたのに、決心はいとも簡単に崩壊した。
「車の中にいろいろ忘れてただろ」
目の前で俺を見ている所長の意味深な微笑。
そして、
「荷物を取りに来るついでに部屋で一杯飲んで行かないか。まだこんな時間だし」
また誘われて。
「……いえ……今日は……」
なんとか言葉を濁して逃げようとしたが、これ以上はないほど爽やかな笑顔で不吉な言葉を返された。
「榊のアパートの鍵、俺が預かってるよ」
そんなわけで、しぶしぶエレベーターに。
そのままずるずるとドアをくぐって。
「……一杯飲んだらすぐに帰りますからね」
なぜか本日も異次元空間に座るハメになった。
せっかくカクテルの勉強をしているから、誰かに飲んでもらいたいだけだって所長は言うんだけど。
「でも、俺、もうかなり飲んでて味とかわからないかもしれないし」
高そうなソファ。
シェーカーから注がれる液体。
所長の長い指。
「いいんだよ、細かいことは。美味いかどうかだけで」
部屋は快適な温度。
当たり前のようにテレビからはニュースが流れ、いつの間にか俺はネクタイまで緩めてソファと同化しており、時間はサラサラと流れていく。
「次は何がいい?」
我ながら気づくのが遅かったと思うのだが、その時はすでに異次元の空気が読めないほど酔っ払っていた。
「って、なんでも作れるんですか?」
昨日のことも昼間のこともすっかり忘れ去って、えらく普通に会話をしていたのが何よりの証拠。
「材料があるものなら」
「んなこといわれても、カクテルに何が入ってるかなんて知らないっすよ」
机の上にはグラスが3つ。
でも、すでに霞がかかっている記憶を手繰り寄せると、キッチンに空いたグラスを片付けに行く所長の後ろ姿が残ってた。
……っつーことは、何杯目なんだ?
どんなに考えても思い出せない。
ってか、今何時だ?
腕時計はいつの間にか外されており、部屋にも時計らしきものは見当たらない。
「……バスの時間……間に合うかな」
思わずつぶやいた時、長い指で差し示されたのはDVDかなんかの機械に表示されてるデジタルな文字。
「え??」
すでにバスなんて絶対に走っていない時間。
「榊、本当に警戒心が足りないな」
その言葉が頭の中で文字になったとき、俺はすでにベッドに押し倒されていて。
「あれ、俺、ソファに座ってたんじゃ……?」
言いながらやっとのことで認識できたのは所長の華やかな笑顔。
それと。
「今日はちゃんと覚えてろよ」
そんな意味ありげな言葉だった。
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