OFF-LIMITS
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事は着々と運んでいた。
「今は小さな会社だが、進出したばかりの奴らを潰すには十分な駒だろう。蓄積されたノウハウも技術力も奴らとは比較にならないからな」
基盤はしっかりしているのだ。金さえかければ簡単に大きくなる。買い取って市場に投げれば、新規参入して日の浅い企業の一部門など簡単に潰せるだろう。
新事業に活路を見出すつもりで注ぎ込んだ資金の全てが無駄になれば、あとはもう虫の息。最期を見届けるまでもない。
「奴らの逃げ道を塞いでおけよ」
できれば息の根を止めておけという物騒な言葉をこの上なく楽しそうに告げられて苦笑した。だが、自分に課せられた本当の仕事はさらにその数手先を思い遣ること。
「済んだ後はいかがいたしますか」
それでさえ一応の確認に過ぎない。
用がなくなったらあっさりと切り捨てるだろうということは分かっていた。
「適当なところで欲しがる奴に売り払っとけ。高値圏に入るのを待つ必要はない。とっとと手放しておけよ」
予想通りの答えに頷いてから、そこまでの手順をイメージして頭の中に叩き込んだ。
そこまでくれば残りはあと少し。
帝国に君臨する女王を追い詰めて落とすだけだ。
「非情な女性と聞いていますが」
「ああ、そうらしいな」
そう言った久世の口元には意味ありげな笑みが湛えられていた。
「随分と楽しそうですね」
いつでもそう。この男はこちらが想像できる目一杯のラインを遥かに超えた場所を見つめている。
その瞳を見るたびに思い出すのは血が繋がっていながら父とは呼べなかった男のこと。
幼い頃から悔しいほどに似ていた。
「そりゃあな」
紛れもなく勝算ありという表情が返ってくる。
「今度は何を仕入れていらっしゃったんですか」
その問いに久世が見やった先は吸殻が山になった灰皿。
情報の出所はやはり中野なのだろう。
久世は心底おかしそうにニヤリと笑ってから、「トップシークレットだ」と答えた。
久世と中野の間だけで行き来する情報。誰もその間には入れず、何のデータにも残らない。
全ては二人の中だけに収められていること。
「そうですか」
無関心を装って頷くけれど、不満に思っていたのが顔に出たのだろう。
ニヤリという口元が更にほころんだ。
ひとしきりクックッと笑ったあと、
「楽しみにしておけよ。女帝の心臓を抉るような取っておきの切り札だ」
そんな言葉が吐き出された。
「頼もしい片腕で何よりですね」
多少の厭味も込めてそう返したものの、久世は相変わらず悪戯っ子のような笑みを浮かべているだけだった。
「―――アイツだけは、敵に回したくねえな」
それでさえ畏怖などではなく、至上の幸福のように笑いながら。
「それは彼も同じでしょう」
大きなものが手中に収まるたびにどこかで醒めていく中野。それとは対照的に、この男は夢など欠片もないこの現実を呆れるほど楽しんでいる。
静かに。
けれど、気が狂いそうなほど強い酔いをもたらすゲームだとでも言うように。

ついて行くことができるだろうか……―――

どんなに慎重に対応していても、不安は付きまとう。
確認し忘れていることはないだろうかと考えていたとき、静かな部屋に内線が響いた。
「噂をすれば、だな」
受話器を上げる前から相手が中野だと判る。それもいつものこと。
「お約束はなかったと思いますが」
アポイントの有無など二人の間には関係のないこと。
「匂いがするだろ」
そう言って笑う男が受話器を上げたときにはもう白い煙がドアから流れ込んでいた。
「毎度のことだが受付を素通りしてくるな。ついでに言えば、廊下は禁煙だ」
今にも落ちそうになっている灰。
受け止めるべく灰皿を差し出すと、それを待っていたかのようにポトリと落下して形を崩した。
「まったく、途中で落ちないのが不思議だな」
さすがに廊下に灰や吸殻が落ちていたことはなかったけれど。
「実は受付嬢が掃除用具を持ってあとをついて歩いてるんじゃねえか」
そんな冗談さえ聞こえないかのように新しい煙草に火をつけた。
片手はポケットに入れたまま。残りの手で全てを済ませる。
およそ華奢などという言葉は当てはまらないが、中野の手はこの性格に不似合いなほど器用だった。
「……で?」
未だに笑いを浮かべている男に中野が掛けた言葉はそれだけ。一言と呼ぶにも短すぎる。
「相変わらずせっかちだな。例の件だ」
久世からこちらに飛んできたのは、部屋からの退出を促す一瞥。
ここから先は久世と中野だけの話で、他の者は立ち入れない。
「……では、何かあったらお呼びください」
軽く会釈をして重々しい扉を開けた。そのあとは携帯が鳴るまでレストルームで待機する。
煙草を吸う習慣のない自分にはひどく手持無沙汰に感じる時間だ。
いつものことだと言い聞かせながらも、未だに半人前と思われていることが悔しかった。
久世の中で、自分はまだ幼い頃のままなのではないだろうか。
あるいは未来永劫その扱いは変わらないのかもしれない。
ふとそんな考えが過ぎって溜め息に変わった時、握り締めていた小さな機械が震えた。
名乗るまでもなく相手は久世で、内容は打ち合わせが終わったという知らせ。
だが、言葉を告げることはない。
「―――はい」
こちらも返事だけはするけれど、久世はそれさえも聞かずに電話を切る。
その間に社長室の前まで歩き、ドアをノックする。
それがいつもの遣り取り。
「入れ」
落ち着き払った声を聞きながらドアノブに手をかける。
「失礼します」
足を踏み入れようとした時、入れ違いに中野が出ていった。


煙を撒き散らして帰った男の背中を見送った後、久世が声を殺して笑い出した。
「どうかなさいましたか」
散らかったテーブルを片付けながら視線を上げる。
「ここのところ中野の機嫌が悪い」
これ以上はないほど面白いことのように話す男を少しだけ不思議な気持ちで眺めた。
「そうですか? 私にはいつもと変わりなく見えましたが」
そうは言っても、中野の場合、不機嫌そうに見えるのが常で、今日もそうだったというだけだ。
それでも久世には違いが分かるのだろう。
「おまえ心当たりはないのか? 今でもヤツの身辺は調べてるんだろう?」
その言葉と同時にわずかに真顔になる。
何がおかしくて、何が深刻なのか、この男の基準は未だに自分にはわからなかった。
「調べてはおりますが―――」
答えながら彼の身辺に関する情報を手繰り寄せる。
「今のところ特にご報告するようなことは」
なかったはずだと思いつつも不確かな噂が頭を抜けていった。
「……ただ、お付き合いされている方とはうまくいっていないとか……」
わずかに言いよどんだのは、それは噂に過ぎなかったからだ。だが、気持ちの中に確信のようなものがあった。
それは久世も同じだったのだろう。
「ま、ここまでもったのが奇跡だな」
他人の不幸が面白いわけでもないだろうに、笑いながら天井を仰いだ。
「ですが、まだ別れたわけでは……―――」
フォローのつもりで告げた言葉が、自分の耳にも冷めて聞こえた。
「ま、いんじゃねえか。弱みは少ない方が」
確かにそうだけれど、別れた時に中野の精神状態が揺らがないとは限らない。
仕事に支障を来たす事も十分に考えられると言うのに。
久世にはその不安は欠片もないようだった。
「―――それよりコレだ」
さっさと切り上げて次に移る。この男の話はほんの少しでもうっかりしていると、どこかに飛んでいってしまう。
今回もてっきり仕事の話に戻るのだろうと思ったのに。
「……これは?」
手渡されたのは子供の写真だった。



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