「また今度」なんて言ったものの、そのあとアイツと寝ることはなかった。
もらった金を使い果たしてしまうともうどうしようもなくなって、嫌々ながらに仕事に出ることにした。
「今度はちゃんと相手を見ないとなぁ……」
そんなことを思いながら街に立ったのに。
その日、客は捕まらなかった。
日付が変わって、腹が減って。
眩暈がしてきたから、ヤケになって手当たり次第に声を掛けまくった。
それでも全然当たりはなくて。
もういくらでもいいからと思いながら道路脇に座り込んだ。
「胃が痛くなってきたかも……」
もう諦めかけた時に声をかけてきたのはヘラッとした男だった。
「キミ、ウリしてる子だよね? いくらなの?」
服装も髪型もごく普通。年はアイツと同じくらいかな。
少なくとも危険なカンジじゃなかった。
「えっと、普通のだったら3万」
腹も減ってたし、本当はもっと安くても良かったんだけれど。
「普通じゃなかったら?」
「例えば?」
少しくらいなら変でも付き合っていいって思って聞き返してみた。
「首輪つけて欲しいんだけど」
首輪?
飼い犬ごっこ?
SM?
監禁?
……俺って、イメージ貧困?
「鎖もついてるの?」
「ううん、首輪だけ。やわらかい革だから痛くないよ」
「ホントにそれだけ?」
さすがに俺も少し慎重になっていた。
「それだけだよ。5万でどう?」
本当にそれだけなら別にいいけど。
普通に寝るだけでも5万くらいのヤツだっているだろうし。
「……うん、いいよ。ホテル?」
「いや、僕の部屋で。歩いて5分だから」
今にして思えばその時に怪しいと思うべきだったんだ。
首輪をつけるだけで2万も上乗せするヤツはいない。繁華街から歩いて5分の自宅っていうのも普通じゃない。
けれど、俺は腹が減ってたせいで頭が働いてなかった。
だから、そのあと最悪の事態が待っているなんて思いもしなかった。
歩いて数分。
男に手首を掴まれたまま、電気もついてないような怪しげな雑居ビルに連れ込まれた。
「ここ?」
これじゃあ、この間と同じパターンだ。
俺って学習能力がなさすぎる。
「そうだよ」
返事と同時に逃げだそうとしたけど、男の手は手が紫色になりそうなほど強く俺の手首を握っていて、ちょっと暴れたくらいじゃ振り切れそうになかった。
背筋に冷たいものが伝わって、思わずゴクリと唾を飲み込む。
骨ばった指でエレベーター上向きボタンを押す男の顔を横目で見ながら、ただじっと隙ができるのを待った。
やがてエレベーターは1階に降りてきて、古臭い印象のドアが鈍い動きで開く。
男が一歩足を踏み出した瞬間、その手を払い落として走り出した。
ビルのドアは開け放されていて、すぐに飛び出すことができそうだった。出てしまえば100メートルくらいで表通り。逃げきることもできるはずだ。
そう信じて勢い良く飛び出したけど、ビルを出たところで待ち構えていた男たちにあっけなく捕まってしまった。
どいつも体格がよくて、目つきが悪くて。
この間なんて比べ物にならないくらいヤバイ。
……マジで売り飛ばされる。
半ばパニックで大暴れしたけど、デカイ男二人に挟み込まれて両腕を取られてしまい、どんなにもがいても掴まれた腕はびくともしなかった。
「放せっ!!」
大声を上げたら思いっきり腹を蹴り上げられた。
「ぐふっっ…、げほっ、」
呼吸が詰まって、空気を吸い込むこともできなくて。
涙で曇る視界に映ったのは不気味な笑い。
会った時は普通に見えた男が冷たいニヤニヤ顔で俺を見下ろしていた。
「連れていけ」
薄暗い通路を引きずられてカビ臭いエレベーターに乗せられて。
4階でドアが開いた瞬間、見えたのは通路に座り込んでいる若い男。
半分裸で、クスリ漬けで、顔や髪に精液がこびり付いてて。
逃げ出したかったけど、腹を殴られたせいでまっすぐ立つこともできなかったし、息だってまともにできなくて吸い込むたびにキュウキュウと変な音がしてた。
「どうした? あんな目立つところで勝手に商売なんてしてたくせに今更怖くなったのか?」
答えようにも唇が震えて動かない。
男は廊下にあったボックスから首輪を取り出した。
「お約束のモノだ」
男がペロリと舌なめずりをして。
大男の一人が俺の手足を縛り、皮のベルトをちらつかせる。
当然のように鎖もついていて、その端は窓の下に剥き出しになっているパイプに繋がれていた。
「大人しくしてないともっと痛い目見るからな」
チラリと目を遣った方向に薬漬けの男。
また言いようのない寒気が体を覆い尽くした。
ニヤニヤ笑いと大男たちが部屋に消えても震えは止まらなくて、だんだん全身から力が抜けていく。
――逃げないと……でも、どうやって……?
空白の頭ではなんにも考えられなくて、『逃げなきゃ』という言葉だけが何度も通り過ぎていった。
冷たい汗と手足の震えと、バクバクと警告を発する心臓と。
もう全てがいっぱいいっぱいで、おかしくなりそうだった。
その時、同じフロアの突き当たりにあるドアが開いて、中から人が出てきた。
見覚えのある顔が煙草を咥えたまま俺を見た。
「また捕まったのか」
呆れ果てた声はやっぱりアイツで。
大きな書類封筒を片手に面倒臭そうにこっちに向かってきた。
助けてって言おうとして、でも、息苦しくて声が出なかった。
一部が曇りガラスになったドアの向こうでときどき人影が動き、声が近づいたり遠ざかったりする。
「……な、……た、すけ……て」
やっと言葉を吐き出したつもりだったのに、出てきたのは掠れた呼吸だけ。
でも、アイツの耳には届いたみたいだった。
「それは無理だな」
「そんな……」
震えがひどくなって。
怖くて泣きたくて。
でも、声も涙も出なかった。
俺から二メートルの距離で、クスリ漬けになったヤツが突然笑い出す。
「静かにしやがれ!!」
中から悪態を吐く声が響いた。
それを聞いてもアイツの無表情は変わらない。
煙を吐きながら俺を見下ろしているだけだった。
「死にたくなければクスリは口にするな。腕の1本や2本は折られるだろうが、連中を煽るようなことは言わず、謝って大人しく殴られてろ」
俺はただコクリと頷いた。
どっちみち助からないなら、あんな風になるより死んだ方がいい。
腕が折れて動かなくなっても、最後まで自分のことは自分で決めたいと思った。
アイツがエレベーターの中に消えた時、ドアが開いて俺は中に引き摺り込まれた。
それからの数分は地獄だった。
それでも俺は言われた通りにただ歯を食いしばって殴られ続けた。
「も……う、うッ、しな……いから…す、み……ませ…くッ、」
口の中に血の味が広がって、むせかえるたびに涙と一緒に床に赤い雫が散った。
「謝って済むと思ってんのかよ? 甘チャンだな」
「俺たちが躾しなおしてやるって言ってるんだ」
無遠慮な笑いが飛び交ってあっという間に服を裂かれた。
首輪も一緒に外されたけど、逆らうようなことはしなかった。
「ホラ、挿れて欲しいんだろ? ケツ突き出せよ」
「その前に顔上げて大きく息を吸え。すぐに気持ちよくなるからな」
差し出された紙の上に白い粉。
アイツが言ってたとおりだって思った。
苦しかったけど、息を止めて顔を背けた。
「ヤロウ、手加減してやってればツケ上がりやがって!!」
ドカッと男のつま先が腹に食い込み、何も入っていない胃から胃液を吐き出した。
「汚ねえな!」
大男が片手で俺の首を掴み、力を込める。
そのまま絞め殺されると思ったその時、突然非常ベルが鳴り響いて隣りのビルが慌しくなった。
「チッ、こんな時に」
ニヤニヤ笑いだった男の顔がみるみる歪み、忌々しそうに舌打ちするのが聞こえた。
再び廊下に引きずり出された俺は非常階段から勢いよくビルの外に蹴り落とされた。
ガタガタと階段を転げ落ちて、目が回って。
どっちが空でどっちが地面なのか分からなくなった。
「二度とこの辺をウロウロすんじゃねえぞ!」
そう吐き捨てる間にもビルの表側はどんどん騒がしくなる。
さすがにヤバいと思ったのか、そこにいた連中はさっさとどこかへ逃げ出したようだった。
「……俺……生きて、る……よな」
顔も目も腫れ上がって視界は半分くらいしかなかったけど、腕も脚も折れてはいないようでホッとした。
俺も逃げなくちゃって思ってヨロヨロと残りの階段を降りたけど。
あと少しで地上というとき、プツリと意識が切れた。
目が覚めた時、俺はちゃんとベッドに寝かされてた。
相変わらず顔は腫れていたけど、どうやら手当てされてるらしい。
頬に大きなガーゼ、片目には眼帯をしていた。
仕方なく大丈夫な方の目だけ凝らして辺りを見回した。
匂いや造りは病院の部屋に似ていたけど、それにしては静まり返っている。
横や後ろも見たかったけど、ひどく寝違えた時みたいに首が動かなかった。
頭も痛い。腕も脚も。身体中がズキズキした。
最後の風景は小汚いビルの裏。ゴミが捨てられている狭い空き地だった。自力で歩いた記憶もない。
……ということは誰かに連れてこられたんだ。
「これって、助けられたってことだよな……?」
ポツリと呟いたら、シャッとカーテンの開く音がして頭上から声が聞こえた。
「気がついたんだね」
俺の顔を覗きこんだのはインテリくさいけれど、なんとなく人の良さそうな白衣のメガネ。
「……医者?」
「まあ、そんなところ」
ってことは、微妙に違うんだろうな。
医者モドキ?
それって何?
「俺、どうやってここに来たの?」
自分で喋ってるのに、変な声に聞こえた。耳にガーセが入れられてるらしい。
「運ばれてきたんだよ。知り合いなんでしょう?」
なんのことかさっぱりわからない。
「……知り合い……って?」
言葉に詰まっていたら、代わりに答えたヤツがいた。
「知り合いじゃない。たまたま拾ったんだ」
どこかでなんとなくそうじゃないかと思ったけど。
またしてもアイツだった。
声のした方に無理やり顔を向けると、アイツが窓際のボロ椅子に座ってるのが見えた。
病院のはずなのに平然と煙草をふかしながら新聞を読んでいた。
いや、医者がモドキなんだから、ここだって『病院モドキ』なのかもしれないけど。
「たまたま? なぁんだ。てっきりヨシくんの新しい恋人かと思ったのに」
カーテンで仕切られた隣りのベッドから声が聞こえた。
どうやら他にも患者がいるらしい。
カーテンで仕切られてるから見えないけど、あれだけ胡散臭いヤツを「ヨシくん」呼ばわりするくらいだから相当オヤジなんだろう。
「ガキに興味はねえよ」
アイツはあっさりとそう言った。
嫌だって言った俺の尻を傷つけてまで無理やり入れたくせに。
「だってヨシくん、前に拾ってきた子もコレくらいだったよなあ?」
オヤジの質問に、
「もう24だ」
そう答えたアイツの声はいつもとぜんぜん違って聞こえた。
耳に何かを詰められてるせいなんかじゃなくて。
妙に優しい感じだったのは、それが恋人の話だからなんだろう。
「そうなんですか。もうそんなに経つんですね」
アイツと医者モドキとオヤジの世間話を聞きながら不意に思い出したのは、最初に会った日に偶然聞いてしまった話。
『また、あの坊やのことなんだ?』
ボウヤと呼ばれたソイツが、たぶん今は24才のコイツの恋人。
あの薬箱をきちんと整頓したヤツなんだろう。
「な、アンタの恋人って名前、なんて言うの?」
俺も世間話に交ざろうと思って聞いたんだけど。アイツに思いきり無視された。
『おまえには関係ない』とか言われた方がよほどマシだったと思うんだけど。
アイツだけじゃなくて、医者モドキもオヤジも何も答えてくれなかった。
仲間外れな気分になって、なんだかワケもなく滅入る。
染みの広がった天井を見ながら大きく息を吐くと、体が死ぬほど痛んだ。
「どうしたの、人生が終わったみたいな溜め息ついて」
医者モドキがにっこり笑いながら薬をくれた。
「はい、これ飲んで。もう少し休んでね」
「……ありがと」
小さな錠剤。
でも、飲み下すだけであちこちがズキズキして。
あのまま終わってしまえば良かったかもしれないって、少しだけ思った。
嫌なことなんて今までにだってたくさんあった。
母さんが死んだ時だって、最初につきあったヤツに捨てられた時だって。
きっとなんとかなるって思った。
けど、今日はなんだか特別。
理由なんてないのに、何を考えても後ろ向きになってしまいそうだった。
「休めば楽になるから、もうちょっと頑張ってね」
医者モドキが子供をあやすようにほっぺを撫でながら毛布を肩まで掛けた。ついでに髪も耳にかけてくれて。
どうでもいいけど、俺、いくつだと思われてるんだろう。
「……うん」
それでも言われた通り目を閉じた。
病院の匂い。ちゃんとしたベッド。
ここでなら嫌なことも痛みも全部忘れて眠れるだろうか。
うっすらとした夢の中で煙草の匂いが消えて。
その時一緒にアイツも消えてしまったような気がして悲しくなった。
|