Tomorrow is Another Day
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それからは、また沈黙。
重苦しい空気に耐えられなくなって咳き込んだとき、いきなりドアが開いた。
顔を覗かせたのは中年という年齢も通り越したような白髪交じりの男。
「さっさと用事とやらを済ませろ。妙な馴れ合いしてるとおまえらも片付けられちまうぞ」
面倒くさそうに白井と黄色い髪に向かって吐き捨てて返事を待っていた。
「あ……ああ、コイツを繋いだらすぐに行く」
黄色い髪は少し慌てたように返事をしてから、手錠のかかった俺の手首を掴んでバスルームに連れて行った。
暖房器具は何にもなくて、ひんやりと冷たい空間。
むやみに広いところよりはマシな気がしたけど、それでも不安なことに変わりはなくて。
「それにしても細い腕だな。手錠、抜けるんじゃねえのか?」
顔をしかめながら、俺を壁のバーに繋いでる男の手の温度にさえホッとした。
そいつはしばらくガチャガチャと何度も手錠を引っ張っていたけど。
気が済むとソファに投げ出されていた毛布を持ってきて俺に放り投げた。
繋がれていない方の手でそれを受け取ると、すぐにドアが閉められたけど。
「……え……っ」
こんな狭くて暗くて何にもないところに繋がれたまま置いて行かれるのかと思ってあせっていたら、またドアが開いて、白井が「一緒にいてやるから」って言ってくれた。
「ここで一人じゃ、あんまりだからな」
苦笑いする白井を見ながら、黄色い髪は呆れてたけど。
「こんな狭苦しいところで二人で寝るってか? ……ふん、まあ、好きにしろよ。まあ、暖房がないから二人の方が多少はマシだろうけどよ」
そんな言葉と一緒にバタンとドアが閉まった。
「よかったぁ……」
ありがとうって言わなくちゃと思いながらも、なんだかホッとしてしまって。
気がついたら体から全部の力が抜けていた。
冷たい床にペタンと座り込んだまま動けなくなった俺を見ながら、白井はものすごく申し訳なさそうな顔をしてたけど。
「……助けてやれなくて悪かったな」
いきなりそんなことを言うから。
「いいよ、そんなの。だって、どっちみち白井は逃げられなかったんだし、それで俺だけ逃げたら―――」
そこまで言ってから、「あっ」って思った。
もし俺だけ逃げてたら、白井はどうなっていたんだろう。
そんなことを考えたら、なんだか急に怖くなって慌てて首を振った。
「……それにさ……俺一人じゃ、きっと途中でつかまったと思うし」
だから、これでよかったんだって言ってみたけど。
白井はまだ眉間にシワを寄せたまま俺の顔を見て、
「良くないだろ。このままここにいたら―――」
そんな言葉を口にした。
でも、その続きは言わなかった。
「……うん」
言わなくても、俺にも何となく分かったから、とりあえず頷いたてみたけど。
そのあとしばらくは二人とも何もしゃべれなかった。


ドアの隙間から入ってくる明かりでやっと見えるくらいの白井の横顔は、さっきからずっと暗い表情。
俺もなんて話しかけていいか分からなくて、ただずっとうつむいていたら、白井が先に口を開いた。
「……さすがに寒くなってきたな」
あんまり感情のこもってない声が狭い空間に響くのを聞きながら、白井はバスタブの中にシャワーヘッドを入れてフタをした。
「これでも何もしないよりはいいだろ」
ポツンとそんなことを言って。
赤いマークの付いた蛇口をひねりながら、どこか遠くを見ていた。
ザバザバとお湯がたまっていく音だけが頭の中を通り過ぎて。
何か話さないと……って思いながら、溜め息をかみ殺して楽しい会話を捜してみたけど、やっぱり何も浮かんでこなくて。
俺ってこういうところがダメなんだよなってぼんやり考えながら、自分のつま先を見ていた。

中野といる時もそうだったな、とか。
母さんとは何を話してたんだっけな、とか。
何を思い出しても悲しくなりそうだったから、もう、あれこれ考えるのはやめようかなって思ったとき。
「……隣りの部屋が片付いたら、ストーブくらいは入れてもらうから」
白井が俺の前髪を上げてくれて。
だから、「うん」って頷いた。

その後はまたずっとお湯が出る音だけ。
バスタブがいっぱいになる前に空気は暖かくなって、浴槽に背中を押し当てると頭がぼんやりしそうなほど熱が伝わってきたけど。
それでも、とても寝られる気分じゃなくて。
白井と二人して、ずっとぼんやりしてた。

少し湿っぽくなった空気を吸い込みながら、カラカラの頭の中をいろんなことが素通りしていく。
考えなくちゃいけないことはたくさんあるはずなのに、もう気持ちがついていかなかった。
「……あのさ……」
バスタブから溢れる直前でお湯を止めた白井の手にはいくつも傷があって、顔の腫れもまだ完全には引いてなかった。
「ケガ……痛くない?」
痛くないわけないよなって思いながら、白井から戻ってきた「大丈夫だ」という返事を無意識で聞き流した。
本当はそんなことよりも、気になることがあって。
できれば聞きたくなかったけど、ズキズキ痛む気持ちと一緒にやっと言葉を吐き出した。
「……白井……このあと、大丈夫なの」
不安で不安で仕方なくて。
聞かずにはいられなかったから。
「ああ、それな」
白井はただそれだけ言うと、少しだけ笑ってポケットからハンカチを取り出した。
それから、俺の手錠と腕の間に巻いてくれた。
その間もずっと見ていたけど、白井の横顔は俺が予想していたよりもずっと穏やかだったから。
きっと大丈夫ってことなんだよなって思ってホッとしかけたのに。
「―――……俺も今まで使ってた事務所の引き上げが済んだら終わりだろうけどな」
そんな言葉をなんでもないことみたいに告げられて、一瞬心臓が止まった。
「……それって……」
それ以上はっきりと聞き返す勇気もなかったけど。
「まあ、おまえが心配することじゃないって」
白井は口の端で笑ったまま俺の膝に毛布をかけた。
それから自分の足もその中に入れた。
「でも、でもさ……事務所に行くときは外に出られるんだよね? そしたら、逃げられるかもしれないよね?」
ムリやりそう言ってみたけど。
白井は少し首を振っただけ。
「財布も携帯も取り上げられてる。うまく逃げ出せたとしてもすぐに見つかるだろう。第一、警察に駆け込んだりしたら、娘がどうなるかわからないしな」
それだけはしない約束になってたはずなんだけどな……って。
そう言った白井の溜め息は重くて苦しくて、俺まで悲しい気持ちになった。

アイツが白井に娘の写真を突きつけた意味くらい、俺だって分かるから。
「―――あのね、白井」
これから先、どんなに無理な要求にも白井が「うん」って言うように撮ってきた写真。
白井の大切なお姫様。
誰よりも幸せになって欲しい相手のはずなのに。

「……ありがとね」
写真を見せられてもまだ俺を逃がそうとしてくれた白井の気持ちが嬉しかったから。
「何がだよ」
そう言って首をかしげる白井に少しだけ笑ってみせた。
「―――ホントに、ありがと」

どんなに嬉しくても、こんな言葉しか言えないけど。
それでも。
きっと一生忘れないって思うから。

「やなことばっかりだったけど、今日はいいことがあってよかったな」
だから、薄暗くて狭いバスルームに二人して座り込んだまま、何度も「ありがとう」って言ってみた。
何回言っても、俺の気持ちは半分も伝わらないんだろうなって思うけど。
少し困ったように笑う白井に、もう一度笑い返してみた。



視線を落とすと白井の腕時計はもうすぐ朝という時間。
「……寝なくて平気?」
気を紛らわせるために聞いてみたら、「おまえこそ」って言われてしまった。
「うん……あんまり眠くない」
とりあえずそう答えてから、ため息を飲み込んだ。
世間話をする気分でもなかったけど、ムリして話してるうちに本当に楽しくなるかもしれないって思ったから、いろいろ考えてみたけど。
最近、テレビも見てなかったし、窓もないから天気も分からないし、結局なんにも思い浮かばなくて、またさらに憂鬱になってしまった。
ダメだなって思った瞬間、うっかり気を抜いてため息をついてしまって。
そしたら、白井がもっと困った顔になった。
「……あ、ごめんね。なんでもないんだけど……」
慌てて謝ったら、途中でポンと頭を叩かれて。
白井もそのときは何にも言わなかったけど、しばらくしてからゆっくり話し始めた。

「――――ここへ来る前にな、おまえを探してるって奴と取引があったんだ」
もっとも俺が直接話したわけじゃないけどな……って。
そんなことを言う間も白井はすごく真面目な顔をしてて、ぜんぜん楽しそうじゃなかったけど。
「うん。それで?」
それはきっと中野の話だから、俺には楽しい話かもしれないって思って、つい先を急いでしまったら、白井に少し笑われた。
「あの……えっとさ……元気そうだった?」
ちょっと恥ずかしくなって、とりあえずそんな質問でごまかしてみたけど。
よく考えたら、俺が中野の顔を見たのだってほんの少し前。
そんなに変わってるはずない。
白井だってそんなことは知ってると思うのに。
「無愛想すぎて、元気なのかどうか分からないヤツだよな」
少し苦笑いしながら、そんな返事をしただけだった。
「あ、うん……そうだよね」
記憶のどこをひっくり返しても、中野は不機嫌だったり無表情だったりで、笑ってたこともなければ楽しそうにしてたこともない。
「なんで笑わないのかなぁ……」
俺の前で笑わないだけで、アイツといる時は少し楽しそうだったかなとか。
そんなこともちょっとだけ思ったけど。
気持ちの中に残っていたのは自分に都合のいい記憶ばっかりで。
一緒にピザを食べた時のこととか、鍵をもらった時のこととか。
嬉しかったことしか出てこなかった。
「俺、ずっと鬱陶しがられてたのに」
ジャマだってはっきり言われたことはちゃんと中野の声で残っていたけど。
でも、それさえ、思い出しても悲しい気持ちになんてならなくて。
「……変だよね、そんなのって」
ちょっとだけ白井に聞いてみたけど。
戻ってきたのはぜんぜん違う返事だった。
「そいつ、金でも情報でも何でもくれてやるって言ってたよ」
そんなことしたら自分だってヤバイだろうにな……って言う間も、白井はずっと壁を見つめてた。
「……おまえの身代わりだって気付かずに、連れてった子供に『大人しく待ってろ』って言ってたよ。だからな」
自分は助けてやれなかったけど、でも、待っていればきっと大丈夫だって言われて。
「うん」
そう答えた。

そんなのきっと嘘だって思った。
だって、白井が俺を慰めようとして中野の話をしてるってわかってたから。
でも、そんな気持ちの裏側で、作り笑いの男と一緒に車の中にいた時に聞こえてきた中野の声を思い出して。
また胸が痛くなった。

「……でも、その取引っていうのが終わったら、中野はどうなるのかな」
記憶に残っているのは黄色い髪が言っていたこと。
こっちに情報を流したら中野も消されるって、そう言ってた。
「それ、ホントなのかな」
否定して欲しかったけど。
白井の答えは苦い表情と「多分な」っていう簡単なものだった。
「そっか……」
他に言う言葉もなくて、やっとそれだけ口にして。
白井に髪をなでてもらいながら泣きそうになった。
「本部が欲しがってる情報っていうのが向こうにとってはグループ全社を潰すような大ネタなんだ。そんなもん渡しちまったら、そいつだってタダでは済まないだろう」
未だに白井が言う「本部」が何のことなのかも分からなかったけど、中野が助からないだろうってこと以外は俺にはどうでもよかった。
「……絶対にダメなのかな」
白井なら何かいい方法を知ってるんじゃないかって思ったけど。
聞いた瞬間に俺から目を逸らして、静かに首を振った。
「まあ、絶対かどうかは俺らにはわからないけどな。ただ、そいつを雇ってるっていう社長はかなりドライな男らしいから。大事な会社を危険に晒すような情報を流した男に容赦はしないだろう」
だから期待はするなって言われて、頷くこともできないまま唇をかみしめた。
「そいつだってそれくらいのこと承知の上だろうしな」
そんなことさえ知らないで勤まる仕事じゃないだろうって言われても、だったらなんで……って思うばかりで。
「それでも、おまえの身柄と引き換えるって言ってたよ」
嘘じゃないからなって白井が言って。
でも、俺は納得できなくて。
「だって……俺、ジャマだからもう戻ってくるなって」
中野に言われて、だから出てきたのに。
「そんなの、おかしいよ」
でも、白井はフッて息を抜いてから、少しだけ笑った。
「大人になってからゆっくり考えろよ」
きっといろんなことが分かるから。
だから、今は自分のことだけ考えろって言われて。
それから。
「だからな……おまえはちゃんと生き延びろよ」
そう言われて。
「……うん」
小さく頷いた。

白井が言うとおり、俺が中野の心配をしてもなんの役にも立たないって思うけど。
でも。
遠くに離れてから思い出す中野は、側にいる時に俺が見ていたよりもずっと優しくて。
「……白井」
目の前にいたのに見えてなかったものがたくさんあったのかもしれないって思ったから。
「なんだよ」
「あの事務所の片付けに行くんだよね?」
もしも叶うなら。
「ああ、他の雑用が片付いてからだろうから、実際いつになるかは分からないけどな」
これだけでいいから、聞いて欲しいって思ったから。

「……一個だけ、お願いがあるんだ」



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