膝を抱いたままいつの間にか眠りかけていた。
夢なのか現実なのかを確認しようとしても、俺の目の前にあるのはガランとした部屋と毛布と自分の膝だけ。
―――……俺、起きてるのかな……
よくわからないのはどうしてだろうって思ったとき、ドアが開く音で目が覚めた。
「朝飯だ」
黄色い髪の男が投げたコンビニの袋はドサッと俺の足元に落ちた。
「……あ……りがと」
無意識で答えた自分の声で、やっと現実に戻ったような気がした。
ただグレーの壁が広がる薄暗い部屋。
眠る前と何も変わっていなかった。
「なんだ、この寒いのに汗かいてんのか?」
呆れたような男の顔を見上げながら、おでこに髪が張り付いていることに気付いた。
外に比べたらここだってずっと過ごしやすいけど。
でも、汗をかくほど暖かくはない。
むしろ寒いって思ってるくらいなのに。
「毛布……かぶってたからかな……」
ぼんやりとそんなことを思いながら、足元に落ちていたパンとジュースを拾い上げた。
食欲はなかったけど咽喉は渇いてたから、ペットボトルだけ取り出した。
力の入らない手でキャップを開けて、それから一口だけ流し込んだけど。
でも、変に甘くのどに絡み付いて少しもおいしいとは思わなかった。
「具合でも悪いのか?」
顔が青いって言われたけど。
「……ううん……大丈夫」
元気が出ないのは、きっと白井がいなくなったことが淋しいせい。
そうじゃなかったら、中野が助からないかもしれないってことがすごく気になっているだけ。
具合なんて悪くない。
体がダルいのだって、あんまり寝てないせいで少し疲れているだけ。
ぜんぜん大丈夫だから。
「……俺、いつまでここにいるの?」
助かる方法はあるのって聞く勇気はなくて、遠回しの質問をした。
どんなに『大丈夫』を繰り返しても、気持ちの中で不安がひしめく。
「……ね……」
黄色い髪はバスルームを覗いたり、ドアの鍵を確認したりしてたけど。
ずいぶん経ってから、どうでもいいような口調で返事をした。
「少なくとも取引が済むまでは出られねえよ」
俺の顔なんて見ずに吐き捨てて。
だから、本当は終わっても出られないんだろうって、そう思った。
「……そっか」
それでも今は、取引の日時が決まるより前に中野に手紙が届いて欲しいって願うだけ。
先のことなんて何にも考えられなかったけど、それだけはどうしてもって思った。
「ね……取引の日が分かったら、俺にも教えてくれる?」
せめて、白井が事務所の片付け行く日よりも、ずっとずっと先だったら。
「あさってとか、その次とか、そんなすぐじゃないってことが分かるだけででいいから」
でも、黄色い髪は何も言わずに思い切り顔をゆがめて、嫌なものを振り払うみたいにそそくさと部屋を出て行ってしまった。
ドアの閉まる音がぼんやりした頭の中に響いて消えた。
また一人になって、溜め息と一緒にペットボトルに口をつけた。
けど、たった一口を飲み下すことができずにむせ返った。
「……具合なんて、どこも悪くないのに」
シャワーを浴びたらすっきりするかなって思ったけど、立ち上がった途端にめまいがして。
「やっぱり、もう一回寝ようかな……」
自分が思ってるよりも、きっと疲れてるんだろう。
少し休めばダルいのも治って、何かいい考えも浮かぶかもしれない。
眠って頭がすっきりしたら、楽しい気持ちになれるかもしれない。
「……そうだよね」
諦めるなって言われた。
泣かないって決めた。
頑張らないと……って何度も言い聞かせて目を閉じた。
でも。
不安で不安で、どうしようもなくて。
溜め息と絶望感を何度も飲み込みながら、ただ時間だけが意味もなく流れていった。
窓も時計もなくて。
朝なのか夜なのかさえ分からない部屋の真ん中。
「……そんなの知らなくてもぜんぜん平気だもんね」
わざと元気なふりをして自分に言い聞かせても、頷くことができなくて。
ただ息苦しさだけを感じながら、また膝を抱えて天井を眺めた。
眠っているというよりは、どこかが麻痺したみたいな変な感じの中。
隣の部屋でガタガタと物音が聞こえて。
やっと静かになったなって思ったら、黄色い髪が小さなストーブを持って部屋に入ってきた。
いかにも軽そうで、大きくもなくて。
まるっきりおもちゃみたいだって思ったけど。
スイッチを入れた時にふわんとオレンジ色の光がついて、そこだけすごくあったかくなった。
「……あったかいね」
当たり前だろって言われて、うんって頷いた。
「この部屋は防火シャッターがついてるからな。毛布を燃やしても自分が窒息するだけだ。外には煙も漏れないから警察も消防車も来ないぞ」
窓もない。
ドアは重くて頑丈で、隙間なんてないような部屋。
「……うん。わかってる」
頷いたのは、「そんなバカなことしないよ」ってことじゃなくて。
ホントはもう気持ちのどこかで全部諦めてしまっただけかもしれない。
またすぐに一人になる。
すぐそばに小さな明かりとストーブがあるだけ。
いっそのこと真っ暗な方がいいかもしれないって思ったけど。
何も見えなくなると、黒服が撃たれた部屋とか、黒焦げの車があったガレージが頭を過ぎっていくから。
「……やっぱ、少しでも明るい方がいいのかな」
ゴロンと寝返りを打ってみたけど、身体が重くて。
手足を動かすのさえ億劫で、眠れなくて。
熱を測ろうとして額に手を当てたら、また髪が汗で濡れていた。
「やっぱり、カゼ引いたのかな……」
おもちゃのストーブから出るオレンジ色の光が自分の手足も同じ色に染めているのをボンヤリと眺めながら、また不安になった。
「……とにかく寝ようっと」
無理矢理目を閉じたら、真っ暗な場所で横たわっている自分が見えた。
それは夢か現実かぜんぜん分からなくて。
冷たい床の上でうずくまって、ピクリとも動かない自分の体がひどく他人事みたいに思えた。
「おい、大丈夫なのか?」
その後も何度か黄色い髪が様子を見にきた。
「……うん……どうして?」
二回目の食事のとき、一緒に頭痛薬をもらった。
「ほら、飲んでおけよ」
頷いて受け取ったけど、その小さな錠剤がなかなか飲み込めなくて。
「咽喉でも痛いのか?」
「ううん」
そう答えたけど、それを飲み込むためだけにペットボトルの水が半分なくなった。
「……中野から連絡あった?」
黄色い髪が首を振る。
「いいや。いろいろ手間取ってるんじゃねえのか。それにしちゃ、薄気味悪いほど向こうの動きがないって話だけどよ」
それよりもメシ食ったのか、って聞かれたけど。
「……ううん……あんまり食べたくない」
水を飲んだだけで吐き気がこみ上げる。
「多少ムリしても食えよ。万一の時はヤツに引き合わせないとならないんだからな」
こんな様子だと困るって言われて、買ってきたばかりのコンビニの弁当を差し出された。
「うん」
頷いて受け取ったけど、割り箸を持った手に力は入らなくて。
ダメかもって思っていたら、やっぱり半分も食べないうちに気持ちが悪くなって吐いてしまった。
「少しずつでいいから、ちゃんと食えよ」
そう言われて、米粒一つ一つを摘み上げて口に運んでいたけど。
どうしてもすぐに戻してしまって。
仕方なく途中で食べるのを諦めた。
クスリが切れると頭が痛む。
一人になると不安になる。
黄色い髪が飲み物や薬を持って来るたびに、わけもなくあせりながら話しかける。
「ね……俺がここにいることって、中野とか他の人に知られる可能性はないの?」
話していてもダルさは増すばかりで、口以外を動かす気にならない。
「ねえよ。ここの連中はおまえの見張りをしてろって言われてハシタ金で雇われてるだけだ。外とのつながりもねえ。諦めな」
それがいいことなのか、悪いことなのかも、もう俺にはわからなくなっていたけど。
もし「いいことだ」って言われても、きっと楽しい気持ちになんてなれないんだろうって思ったから。
「……そっか」
だったら、ただこうやって過ぎて行けばいい。
全部終わるまで。
何も考えずに。
不安に駆られながら過ごすより、そのほうがいくらかマシだろう。
「ね……普通さ、手紙ってどれくらいで着くのかな」
少しでもいい返事をもらえる質問だけ考えて。
「都内なら、2日もあれば届くだろ」
話していれば、少しは気が紛れるから。
「……ふうん」
黄色い髪が「じゃあな」と言って部屋を出る。
それ以上、引き止める言葉も思い浮かばなくて、俺はただ小さく頷くだけ。
ドアが閉まった後は目を閉じて、他のことを考える。
早く眠ってしまえるように。
意識をなくしてしまえば何も考えなくて済むから。
「ひつじを数えればいいんだっけ……」
でも、浮かんできたのは犬だった。
中野がアイツに買ってやった少しキリッとした顔の犬のぬいぐるみ。
「……あれ、欲しかったんだけどな……」
だって、抱きしめたらすごく柔らかくて。
中野と同じ匂いがしたから。
―――……ホントに、欲しかったんだけどな……
やっと眠りかけて。
でも、あと少しって思うと決まって何もなくなったはずの隣の部屋から物音が聞こえて、ハッと目を開けて。
意識がしっかり戻ってから、全部気のせいだってわかって、また目を閉じる。
でも、またすぐにあの部屋で何かにつまずいたときのゴトリという鈍い音が不意に耳の奥で響いてビクッと飛び起きる。
そんなことの繰り返し。
「……中野……」
名前を呼んだのは夢の中。
なのに、不思議なほどリアルな人の気配にハッとして目を開けたら、黄色い髪が立っていた。
溜め息と、白井を思い出させるような少し困った顔で。
「お……はよう……取引の日、まだ決まらないの……?」
「ああ」っていうのは一応の返事。
でも、少し迷ってから、「たぶん来週だろう」って付け足した。
「来週ってあと何日?」
朝も夜も分からない。窓のない部屋。
今日が何日なのか、白井がいなくなってから何日経ったのか、そんなことも全部分からなかったけど。
「まだ月曜だ」
渡されたのは顆粒の風邪薬。
前にもらってたのはただの頭痛薬だったのに。
「……俺、カゼ引いてるの?」
黄色い髪は眉間にしわを寄せたまま、
「どう見てもそうだろ」
俺の手に薬を押し付けた。
錠剤は飲み込むのが大変だったから、嫌だなって思ってたけど。
粉の薬は口の中に入れると苦い味がいっぱいに広がって、吐いてしまいそうになった。
「薬なんだから、苦くて当たり前だろ」
黄色い髪のそんなことばさえ温かく聞こえて。
顔を顰めながら頷いて、それでもなんとか飲み込んだ。
その後はまた静まり返る。
乾いた空間。
息苦しいって思ったのは俺だけじゃなかったみたいで。
「……おまえも妙なヤツにかかわらなきゃ、こんなことにならなかったのにな」
黄色い髪が天井を見上げながらそんなことを言った。
中野が何をしてるのかは、未だに俺には分からなかったけど。
「ま、ただの知り合いでよかったと思っておけよ。おまえがヤツらの仲間だったら、知ってることだけ吐かされてさっさと消されてたと思うからな」
慰めてくれているのか、本当のことなのか。
「……うん」
考える気力もなくて曖昧に頷いた。
黄色い髪は俺の返事なんて聞かずに苦い表情を浮かべると、
「こんな世界でしか生きていけないヤツだっているからな」
そう吐き捨てて、天井を仰いでから部屋を出て行った。
俺には何ひとつ教えてくれなかった中野。
その理由もやっと分かった。
それから、「もう戻ってくるな」って言葉の本当の意味も。
「……俺、なんにも分かってなかったんだな……」
もしも、中野と屋上で話をしたあの日からもう一度やり直せるなら。
今度はちゃんと言われた通りにするのに。
中野に言われたとおりに叔父さんの家に行って、闇医者に言われたとおりに普通のバイトをして。
ちゃんと大人になるまで、誰にも迷惑かけずに暮らすのに。
いまさら、もう遅いけど……―――
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