ぼんやりしているだけの時間は長いのか短いのさえ分からなくて。
ひどい時は自分が眠っているのか起きているのかさえ分からなかった。
「……今度黄色い髪が来たら、日にちと時間くらい聞いてみようかな……」
聞いたからってどうにかなるわけじゃないけど。
それでも、少しは気が紛れるかもしれないから。
動くものなんて何もない。
時計でもあれば退屈しのぎになったのにな……って思いながら、またオレンジ色の光を眺めた。
何も考えたくなくて。一人でいたくなくて。
「……早く来ないかな……」
でも、どんなに待っても黄色い髪は顔を見せなかった。
『おかしいな』って言葉がボンヤリと頭の中を過ぎたとき、不意にドアが開いた。
「欲しいものがあったら買って来てやる」
そう言ったのは黄色い髪じゃなくて、見たこともない若い男。
誰なんだろうって考えるのも面倒だなって思いながら、男の顔をなんとなく見上げて。
『黄色い髪の人、どうしたの?』
そう聞くつもりだったのに。
口をついて出たのは違う言葉。
「……タバコ、欲しいな」
「煙草?」
「うん」
吸ったことなんて数えるくらいしかないのに。
変だよなって自分でも思った。
「おまえが吸うのかよ?」
男も少しだけ眉を寄せたけど。
「……吸わないけど……匂いが好きなんだ」
吐き出した言葉と同時に思い出したのは、ふわりとまとわりつく煙。
思い出しかけて、ギュッと胸が痛くなって。
でも、すぐに遠くに消えて行く中野の横顔。
「銘柄はなんでもいいのか?」
同じ匂いがしたら悲しくなりそうだったから。
本当はぜんぜん違う種類にするつもりだったのに。
「……えっと」
どんなにあれこれ思い浮かべてみても他の名前は出てこなかった。
結局、中野が吸っていたタバコの名前を告げて。
男が無関心そうに頷いて部屋を出ていくのを見送った。
その後はまた静寂。
でも、もう黄色い髪のことも、この先のことも何も気にならなくなっていた。
そんなに経ってないって思った。
でも、俺はいつの間にか眠りかけてて。
「ほらよ」
声に驚いて目を開けると、男がコンビニの袋を差し出していた。
「……ありがと」
言葉と一緒に吸い込んだ空気はさっきと違ってすごく酒臭くて。
だから、そいつが酔っているんだって分かった。
酒を飲むような時間なら、もう外はすっかり夜なんだろう。
そんなことを思いながら、箱を開けると煙草の匂いがして、またズキッと胸が痛んだ。
「つけても……いい……?」
聞いてみたら、男が鈍い動作で頷いて。
それをぼんやりと見ながら、煙草を取り出して口にくわえた。
気を抜くと震えそうになる指でライターをつけると、少し遅れて煙が立ち上る。
「ずいぶんとキツそうだな。そんなのが好きなのか?」
咳払いをしながら顔を背ける男に、
「……うん」
短く答えて。
揺れる煙を目で追いながら、気持ちだけどこか遠くへ流れていくのを感じていた。
好きなのは、タバコじゃなくて。
タバコをくわえたまま遠くを見てた人。
雨の夜、タバコを買った帰りに俺を傘に入れてくれた人。
かすんだ記憶。
いつも雨の日だった。
闇医者の弟が消えたのと同じ冷たい雨の中。
本当はタバコを買いに行ったんじゃなくて、いなくなった人を探していたんだって。
今なら分かる。
傘の中に入れてくれたのも、抱き寄せてくれたのも。
本当は俺じゃなかったのかもしれないってことも。
「……別に、それでもよかったんだけどな―――」
だって、中野はずっと優しかったから。
ずっと側にいてくれたんだから。
「どうした?」
男が赤い顔で乱暴に抱き寄せる。
「……なんでもない」
うその言葉を吐き出して、悲しい気持ちを閉じ込めた。
「来いよ、遊んでやるから」
自分が立てる音以外何も聞こえない部屋で。
思い出すのは大好きだった場所。
中野が遠くを見つめていた部屋と、みんなでお茶をした診療所。
でも、中野の横顔も、優しい笑顔も、のん気な声も、他愛のない世間話も。
ここには何もない。
あるのは濡れたコンビニの袋と男の冷たい手。
ただ、それだけ。
「外、雨なんだね……」
また記憶の中に落ちて行く。
殺風景な部屋で中野が見てた。
ガラスを伝う冷たいしずく。
「天気なんて、おまえに関係ないだろ?」
男が薄く笑いながら、服に手をかけた。
ずっとずっと。
中野が見つめていた窓の遠くは、今日も雨。
変わらずに過ごしているだろうか。
あの鍵は、もう誰かの手に握られているんだろうか。
一人なら、泣けたのに……―――
「こっち向けよ」
無理やり舌を捩じ込まれて、呼吸が止まる。
「……ここ……って、どこなの……?」
苦しくて、もがく度に空気が揺れて。
「……新宿から遠い……?」
空き缶の上に置かれた煙草から、めまいがするほど懐かしい匂いが広がっていく。
「ああ? 新宿駅からってことか? 歩いちゃ行けないだろうけど車ならそれほどかからないだろ」
そいつも、「よくわからないけどな」って言ってたけど。
「助けが来るなんて思うなよ。ここは誰にも知られちゃいないんだからな」
どんなに祈っても誰も来ないって、何度も言われた。
「……うん……それで、いいよ」
かすれた声で答えながら、気持ちの中で違うことを考えていた。
新宿駅までは、歩いてはいけないかもしれない距離。
でも、それほど遠くない場所。
手を伸ばしたら、届きそうな気がした。
楽しかった時間、公園のベンチ。
そして、中野の背中。
「いいから、ほら。これ飲めよ。頭痛いんだろ?」
言いながら唇が塞がれる。
男の手には白い錠剤。
ペットボトルの中で揺れる水。
中野は抱く時しかキスなんてしてくれなかった。
アイツにしていたような優しいキスは、俺にはしてくれなかった。
それでも。
「……いらない」
思い返せば、大きな手はいつだってちゃんと俺の背中に回されていた。
「偉そうな返事するなよ。死にたくなかったらもうちょっと可愛げのあることしてみせろ」
不機嫌な口調で頬を叩かれて顔を背けた。
「ふん、どうせおまえなんてすぐに片付けられて終わりだからな」
もっと可愛げもあれば、生きていられたかもしれないのに、って。
笑い声が通り過ぎた。
もう、どうでもいい。
忘れられなくて。
悲しくて。
苦しくて。
「……中……野……」
ぼんやりと名前を呼んだ。
痛いとか、苦しいとか。
本当の気持ちはどこかに置き去りにしたまま。
ただ、ずっと。
中野の名前だけを呼び続けた。
気がついた時、男はいなかった。
食べ物もなくなっていた。
「……そんなの……別にいいもんね」
ひとり言と一緒に口の中に広がったのは血の味。
なんだかなって思いながら、新しい煙草に火をつけた。
短くなって、空き缶の中にコトリと落ちる。
「……すぐに短くなっちゃうんだよな」
静かな部屋にうつろに響く声。
自分が何をしてるのかわからなくなって。
それでも、ただ灰になっていく煙草をずっとずっと眺めてた。
途切れ途切れに流れて行く。
最初に会った日のことも、それからのことも。
屋上で話した日のことも、最後の夜も。
みんな、みんな。
思い出したら、泣きたくなって。
でも、悲しい気持ちは外にはあふれなくて。
「……ホントは、もう……ダメなのにな……」
それでも、泣けないまま。
短くなった煙草が空き缶の中に消えていくのを見つめていた。
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