冷たい床。
指先にわずかに当たるタバコの空き箱。
どんどん切れ切れになる、ここでの記憶。
「ひどいありさまだな」
聞き覚えのある声に目を開けたら、黄色い髪が立っていた。
ストーブをつけ忘れてたから、手足はすっかり冷たくなっていたけど、体だけが変に熱いような気がした。
ひりひりと痛む肌とズキズキする頭。
でも、まだ自分に感覚があることに少しだけホッとした。
黄色い髪は顔をしかめたまま、寝転んでいた俺を起こしたけど。
「ひでえな」
肩をすくめて、苦笑いして。
「……うん……」
返事をしたけど、ソファには座らせてもらえなくて。
そのままバスルームに連れて行かれた。
「何をやったんだ?」
聞かれて視線を上げると、小さな鏡に映った擦り傷とあざが見えた。
それから、少し腫れた頬。
「……あんまり、覚えてない……」
もう思い出せない。
殴られたことも、蹴飛ばされたことも。
中野の名前を呼び続けたことも。
頭の片隅に微かに残ってるだけで、眠ってる時に流れるテレビのニュースみたいにすごく遠くの出来事に思えた。
「覚えてないって、ほんの数時間前のことだぞ?」
「うん……でも、覚えてない」
俺の返事に呆れたのか、黄色い髪はそのあと何も言わなかった。
ただ顔をゆがめたまま自分の手で傷を洗い流してくれた。
その間ずっと俺は口を開く気力さえなかったけど。
でも、黄色い髪の手は温かくて。
心の中で少しだけ「ありがとう」って思った。
顔と身体を拭いて、ストーブの前に座らされて。
「食えよ」
差し出されたのはプリンだった。
「……うん」
少しずつ口に運んで。
プリンってこんなに甘かったんだなって、なんとなく思った。
その間、黄色い髪はずっとタバコの吸殻の入った缶を見てたけど。
「―――白井が、事務所からいなくなった」
ポツリとそんな言葉を告げた。
「……え……」
聞き返しながら、ホッとした気持ちと不安な気持ちが交互に通り過ぎていく。
「いつ……?」
「昨日の夜中らしい。電車も動いてないような時間だ。白井と一緒に事務所からなくなったのはそれほど大きくもない辞書一冊だけ。そんなもん何に使うつもりだったんだろうな」
黄色い髪は呆れたように肩をすくめたけど。
「ま、とにかくヤツは逃げたんだよ」
そう言ったときだけ、少し笑ってるように見えた。
「……そっか」
中野にあてた手紙が挟んであった辞書。
見つからないように逃げ出すだけで大変だったはず。
なのに、ちゃんと持っていってくれたんだ……――――
そう思ったら、ふっと身体から力が抜けた。
残っている不安はきっと白井のこの先のこと。
「……すぐに……見つかったりしないよね……?」
きっと大丈夫って何度も言い聞かせる俺に、黄色い髪は「どうだかな」って答えたけど。
「娘のことがあるから、警察に駆け込むわけには行かないだろうしな。……けど、アテもないのに逃げるような性格でもねえだろうよ」
雇い主にも向こうの連中にも見つからないようにどこかでひっそりと暮らすだけなら、そんなに難しくはないだろうって言われて。
だから。
「……よかった」
俺もホッと息をついた。
白井が大丈夫だろうってことももちろん嬉しかったけど。
「ね、今って朝なの? 昼なの?」
もう手紙を出してたら、今日は無理だけど明日かあさってには中野のところへ届くだろう。
そしたら、もう取引なんてしなくて済むはず。
「まだ昼過ぎだ。―――なんだよ、随分と嬉しそうじゃねえか」
「……うん」
あとは時間が過ぎるのを待つだけ。
手紙が事務所について。
中野が封を開けて、手紙を広げて。
ヘタな字だなって思ってもいいから。
最後まで読んで。
俺がどこかで元気に暮らしてるって思ってくれたら。
それで終わり。
「―――……ホントに、よかった」
もういいやって思って。
ソファに沈み込んだ時、黄色い髪が俺の手に小さな金属を握らせた。
「これ……?」
手の中に入った瞬間にそれがなんなのかは分かったけど。
「隣の部屋に出る鍵だ。そこから廊下へ出るドアに鍵はかかってない」
「……けど」
なんで渡されたのかが分からなかった。
「今いる見張りは隠し扉のことは知らないから、なんとか廊下を抜けてあの部屋まで行けよ」
白井と行くはずだった抜け道。
手順くらいは分かってるんだろって言われて。
「隠し部屋は案外広いし、今は電気もつかないだろうけどな。とにかくドアから見て一番奥に小さな窓がある。そこをこじ開けるなり壊すなりしてなんとか外に出ろよ」
信用するもしないもおまえの勝手だけどな……って。
黄色い髪はまた俺の手をギュッと握った。
「ただし、すぐには出るなよ。夕食後の見回りが終わってから一時間くらいしてから行け。それなら見張りも仮眠している時間だから大丈夫だろう」
そう言って、俺から少しだけ視線を外した。
「……うん……でも……」
あの時は俺と白井を止めたのに。
なんで……って聞いたら、目の前の口元がわずかにゆがんだ。
「雇い主ってヤツらからの連絡が来ねえんだよ。つまり、白井の判断が正しいってことなんだろう」
だから自分も逃げることにしたんだって言って。
それから。
「―――おまえもうまくやれよ」
自分のために誰かの幸せを願うのは正しいことじゃないけどなって付け足して、溜め息をついたけど。
その言葉の意味は俺にはよく分からなかった。
でも、俺を逃がそうとしてくれてるってことを疑おうとは思わなかったから。
「……ありがと」
握らされた鍵が温かかったせいかもしれないって。
そんなことをボンヤリと思いながら、黄色い髪にお礼を言った。
その時も俺の顔なんて見てなかったけど。
「卑怯な連中なら、ある日突然死体になっても自業自得だって思うけどよ。おまえみたいなガキに死なれたんじゃ、こっちの気分が悪いからな」
まったく嫌な仕事になっちまったもんだって言って、一度顔をしかめて。
でも、そのあと少しだけ笑ってくれた。
じゃあなって背中を向けたとき、やっぱり少し寂しくなって。
「……気をつけてね」
そう言ってみたけど。
黄色い髪は一度も振り返らずに片手を上げて、静かに部屋を出て行った。
見送りながら。
みんないなくなるんだなって。
気持ちの隅っこで考えて、手の中の鍵をポケットに隠した。
部屋に残ったのは、吸殻でいっぱいになった空き缶とタバコの匂いだけ。
でも、その後はなんだか落ち着かなくて。
酔っ払いの男が夕飯を持ってきたときもずっと嫌な音で心臓が鳴ってた。
「なんだよ、チビ」
また遊んで欲しいのかって聞かれて慌てて首を振って。
「……なんか、外……」
ドアを開けるたびに人の話し声と廊下を走る音が聞こえた。
だから、何かあったんだろうって思ったけど。
酔っ払いの男は「別に予定通りさ」って言っただけだった。
でも、その言葉の後。
「取引が明日の早朝になったからな。こっちもいろいろ準備があるってだけのことだ」
―――――……明……日……?
「朝って……何時?」
それだけでいいから教えてって頼んだら、ニヤニヤ笑った口元が面倒くさそうに「4時だ」と告げた。
「おまえもそれまでに覚悟を決めておくこったな」
取引と同時におまえも終わりだって。
笑い声を残して、そいつはドアを開けた。
「待って」って言葉がのど元まで出かかったけど、こいつを引き止めても何も変わらない。
立ち尽くしたまま、バタンという重い音を聞いた。
「そんな……―――」
だって。
それじゃ、手紙は届いてない。
……中野……――――――
手紙のこと。
一つだけでいいから、叶えて欲しかったのに。
「……俺……なんとかしなくちゃ……」
ここを出て中野に電話できれば―――
「……金、持ってないけど……10円くらい誰かに頼めば貸してもらえるよね……」
ダメなら警察を探して、電話を貸してって言えばいい。
「とにかくここを出ないと」
黄色い髪に言われたことを整理して、頭の中で練習して。
鍵穴を見に行こうとして立ち上がった瞬間に眩暈がして、すぐにその場に座り込んでしまった。
こんな時なのに。
貧血と吐き気。
「ダメだって……しっかりしないと」
中野に電話しないといけないんだから。
もうちょっとだけでいいから、頑張らないと――――
ちゃんと間に合わせるから。
だから、もうちょっと待ってて。
お願いだから……――――
気持ちだけがあせって、でも何にもできないまま。
ソファにぐったりと座り込んだ。
時計がないから正確な時間は分からなかったけど。
黄色い髪に言われたとおり、夕飯後の見回りが来てから、一時間分を数えた後でポケットから鍵を取り出した。
もう日付は変わってるかもしれない。
でも、朝の4時ならまだ間に合うはず。
深呼吸をして。
静かに鍵を開けて隣の部屋に入った。
それから、手探りで壁伝いにドアを探した。
部屋は相変わらず真っ暗でかび臭かったけど、白井と通った時みたいに何かにつまずいたりはしなかった。
「……大丈夫、落ち着いて探せばきっと……」
そう思ったとき、壁がほかのところより冷たい手触りになって、すぐにドアノブに行き当たった。
ホッとするはずなのに、心臓はさらに嫌な鼓動を繰り返して、背中に冷たい汗が流れた。
「……大丈夫……もうちょっと、だから―――」
自分を励ましてみたけど。
そのとき不意に眩暈を感じて、立っていることができなくなった。
時間がない。そう思いつつも、いったん座り込んで何度も深呼吸して。
「……行かなきゃ」
苦しいほどの鼓動を感じながら、やっと立ち上がった。
重いドアは音もなく開いた。
見張りが仮眠をしているはずの時間だから当たり前だけど。
廊下はひどく静まり返っていて、なんだか不気味な感じさえした。
足音を立てないように角を曲がって薄暗い通路を進んでいく。
目を凝らして右側を見つめているとピンとくる場所があった。
注意してみなければ気付かないようなわずかな窪み。
「……ここ、だよね」
白井と開けるはずだった扉は冷たくて重かったけど。
震える手でゆっくりと押すとその向こうに暗闇が広がった。
流れ出てきたのは変な臭いの空気。
その瞬間、ズキンと嫌な音で心臓が鳴って足がすくんだけれど。
角の方からかすかに男の声が聞こえたから、慌てて中に転がり込んでドアを閉めた。
未だに鳴り止まない鼓動と流れ落ちる汗。
口で呼吸をしながら、静かにあたりを見回した。
目が慣れるまでは時間がかかったけど、想像してたよりもずっと広いってことだけはようやく分かった。
締め切っていた部屋はひんやりとした空気がひしめいていて、辺りにはまだ乾いていないコンクリートのような臭いが立ち込めていた。
それを感じた時になぜかまた嫌な胸騒ぎに襲われた。
――――……とにかく、行かなくちゃ……
手探りで明かりのスイッチを探した。
やっと見つけ出したけど、何度押してみても電気はつかなかった。
仕方なくわずかな明暗だけを頼りに部屋の奥を目指した。
「説明通りなら、一番向こうに小さな窓が……」
あるはず、だった。
でも。
感じるのはコンクリートの臭いだけ。
その場所は既に塗りこめられていて、窓の形さえしていなかった。
「……な……んで……」
焦りと絶望と。
頭の中で鳴り響く警告音。
男たちの声は、もう扉の前まで来ていた。
|