Tomorrow is Another Day
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通路から聞こえる足音はたぶん二人分。
『ここだ。ほら、見てみろ』
ドア越しのくぐもった声はたぶん酔っ払ってた男のもの。
『ちっ。どうやって開けるんだ』
いらついた様子がこっちまで伝わってきた。
その後、ドアは何度も乱暴に蹴られてガタガタと揺すられた。

鍵なんてついてない。
こんな何もない部屋じゃ隠れる場所もない。
音を立てないようにゆっくりとドアの正面から離れて、開けられても光の届かない部屋の隅で息を潜めた。
そのすぐあと。
ガタンという音が聞こえて、つま先の数十センチ先を通路の明かりが照らし出した。

「なんだよ、電気もつかないのか」
先に入ってきた人影はやっぱり酔っぱらいの男。
その後ろでもう一つ影が動く。
「まあ、いい。たかがガキ一人を片付けるのに明かりなんて必要ねえ」
まだ光に慣れない視界に入ってきたのは、うっすらと冷たく笑う口元。
「―――見つけたぞ」
その瞬間に心臓が凍りついて、体が震え始めた。
「こんなところに隠れていやがったか。部屋の鍵は誰から受け取った? おまえの監視役をしてたヤツか?」
その言葉に頷かなかったのは黄色い髪をかばうためじゃない。
ただ体が動かなかっただけ。
答えずにいたら、不意にカチッと言う音がしてペンライトが向けられた。
「答えろよ。アイツなんだろ?」
熱を感じない冷たい色の光が見開いていた目を射抜く。
その瞬間、眼球の裏に痛みに似た刺激が走って思わず顔を背けた。
「ふん、誰からでもいいさ。どっちにしても抜け穴を塞いだことをアイツに知らせなかったのは正解だったな」
笑い声を含んだ声が響く。
それを聞き流しながら、酔っ払いが少しだけ腕を上げてチラリと手首に目をやった。
鈍い光が時計のガラスに反射して、灰色の壁にボンヤリした線を引く。
まぶたに焼き付いたそれが消えないうちに酔っ払いの歪んだ口元に重なった。
「あと少しで取引が始まるな」
無表情な顔がポツリと告げる。
それから、後ろに立っていた人影に視線を投げた。
ニヤリと笑って頷いた男が取り出したのは二つに折られたナイフ。
通路からの明かりに照らされた指がそれをゆっくりと真っ直ぐに伸ばした。
「―――つまり、おまえはもう用済みだってことだ」
ドクンという心臓の音。
それから、頭の中でガンガンと何かが鳴り響いた。
「心配しなくてもあっという間だ。痛いなんて思ってるヒマもねえよ」
体の震えがいっそう大きくなって、返す言葉さえ思いつかずにただ呼吸だけを繰り返した。
張りつめた空気の中、指一本動かすこともできなくて。
それでも必死で自分がやるべきことを考えた。

通路に人の気配はない。
酔っ払いとナイフの間は二メートルくらいの距離。
走れば抜けられそうな気がした。
けど、その先を逃げ切れる可能性はたぶんないだろう。
それは俺にもわかってた。

でも、このままじゃ……――――

どうにもならない。
そう思いながらも覚悟を決めて呼吸を整える。
気付かれないように足の位置を動かして、すぐに踏み出せるように体を起こした。
緊張だけがどんどん高まって行く中、酔っ払いが肩越しにナイフの男に視線を投げた。
その、ほんの一瞬の隙。

――――今だ……っ!!

全力で走り出した。
二人の間を抜けて、通路まであとほんの数歩。
行ける。
そう思った。
けど。

ドアに手が届きそうになった時、ナイフの男の手が伸びて。
「このガキ!!」
怒鳴り声とともに腕を掴まれた。
「やだっ! 放せっ!!」
勢いで振り返ったその瞬間、冷たい金属が頬をかすめた。
切れ味の悪い刃先がわずかに突っかかりながら皮膚を掻く。
その跡をなぞるようにして赤い液体が滲み出した。
「ムダなことするんじゃねえっ!!」
濁った目が俺を見据えていた。
掴まれた腕に男の指が食い込む。
同時に腹を蹴り上げられて。
「……うっ……」
耐え切れずに膝から床に崩れ落ちた。

床に投げ出された体。
静まり返る部屋。
頭上で動く男の気配。
顔を上げることさえできないまま、首筋に視線が刺さるのを感じていた。

まとわりつくような重い空気を震わせて気が狂れたような笑い声が響く。
わずかに視界の隅に映っていた酔っ払いの男の靴先があとずさりして。
「……さっさと、片付けて来いよ。先に行って車を回しておくからな」
変につかえながらそう言い捨てて姿を消した。
遠ざかっていく。
酔っ払いの足音。
寒さじゃない何かに震えながら、迫ってくる嫌な予感を噛み締めた。
「ふん、怖いか? 大丈夫だ。心配しなくてもすぐに楽にしてやるからな」
その言葉が終わらないうちに掴まれた腕を乱暴に引き上げられた。

体が宙に浮く。
腕の痛みを感じる間もなく、俺の視界の隅でキラリと何かが光った。
「う……あ……っ!!」
まるでスローモーションみたいに、ゆっくりと瞳に飛び込んできたのは鈍い反射。
それから。
意識の中で全部の音が聞こえなくなった。

「……や……だ」
味わったことのない妙な感じ。
それから少し遅れて痛みが襲ってきた。
無意識で腹を押さえた手を生温かい何かが濡らしていた。
それが何なのかを悟った時、冷たい汗が背中を伝って、心臓の音がドクドクと頭の中で鳴り響いた。
「逃げることないだろう? 大人しくしてないと苦しむだけだぞ」
耳を抜ける笑い声。
ゆっくりと視線を落とすとポタリと赤いものが滴って床に散った。
体温と気力を奪って指の間から流れ落ちる。
それをじわじわと感じながら。
なのに、ただ呆然とするだけで叫ぶことさえできなかった。
「さあ、覚悟はいいか?」
何の感情もなく響く声。
ナイフを握り直す指。

それが暗闇に振り上げられたとき、ギュッと目をつむった。

もうダメだ……――――

頭が空白になって、体が強張る。
その瞬間に何を考えていたのかは自分でも分からなかったけど。

男の手が止まったのを感じた時にはもう通路を走ってくる足音はすぐそばまで来ていた。
「おい、外の様子が変だ。車も見当たらない」
一度外に出たはずの酔っ払いが引きつった表情でドアから駆け込んできた。
その剣幕にナイフの男も顔を歪ませた。
「……もしかしたらヤツらが――――」
一瞬の沈黙。
ナイフが「くそっ」と大声で吐き捨てて、血のついたナイフが空を切った。
反射的に避けたけれど、刃先は俺の腕をかすめてまた赤い雫が床に散った。
「バカが! ガキなんかそのままにしておけ。外から何かでドアを押さえておけば出られねえんだ。放っておいてもそのままくたばるだろ!!」
酔っ払いの声が何度も裏返った。
「へっ、こんなガキ、すぐに片付―――」
ナイフの男が言い終わらないうちに、酔っ払いがまた目を吊り上げて怒鳴り散らす。
「いいから早くしろっ!! てめえごと閉じ込めてくぞっ!!」
俺の目の前でナイフの男が忌々しそうに顔をゆがめたけど。
すぐに通路に転げ出るとガシャンとドアを閉めた。




真っ暗になった部屋。
ドアに金属がぶつかる鈍い音だけが響いて消えた。

「……逃げ……な……くちゃ……」
脱力感と痛みを堪えて入り口まで這っていった。
でも、ありったけの力を込めて引いたドアはほんの少しガタガタ言うだけ。
どんなに力を入れても何かにつかえて、押しても引いても開く気配はなかった。
「だったら、もう一回、奥に行って……窓に……」
コンクリートが乾ききってなければ、もしかしたら崩せるかもしれない。
そう思って戻ってみたけど。
塗りこめられた場所はどんなに叩いても鈍い音が響くだけ。
もうまるっきり壁と同じだった。
「……ここも……ダメだ……」
それを悟った瞬間、体から全部の力が抜けていった。

一瞬、意識が遠のいて。
ドサッという音と共に頭と体が冷たい床に叩きつけられた。
全身に走った痛みに呼吸さえままならなくて。
よどんだ空気を吸い込むたびにのどがヒューヒューと音を立てた。

「……も……ダメだよ……ね」

切れ切れの呼吸。
寝転んでいるはずなのにグルグルと回る天井。
また吐き気に襲われて、仕方なくゆっくりと目を閉じた。

床に押し当てられた耳から、かすかに流れ込んでくる雑音。
雨の音に似ているような気がした。
懐かしくて。
胸が締め付けられる。
冷たい冬の雨の音。


――――……中野……


できることなら。
最後にもう一度だけ会いたかった。

中野が覚えている最後の俺は、どんな顔をしてるんだろう。
俺はアイツみたいに美人じゃないし、闇医者の弟みたいに可愛くもないけど。
でも、できれば少しでも中野が楽しい気持ちで思い出せる顔がいい。
ずっと苦しかったんだから。
せめて俺を思い出すときくらい笑ってくれたらいい。

「……中野が……取引に行く前に……気付いて……くれますように―――」

俺のことなんて助けなくていいんだって。
そう思ってくれたなら。

―――……どうか、お願いだから……




祈りながら。
少しずつかすれていく意識の中。
次々と通り過ぎて行く。

新宿の街。
公園。
闇医者の笑顔。
みんなの話し声。
それから、煙草の煙と中野の横顔。

いろんなことがあったけど。
不思議と楽しかったことばかり思い出す。

俺、たくさん好きなものがあったんだなって。
暖かい気持ちでそう思った。

でも、きっともう会えない。
俺の大好きなもの、全部。

「……バイバイなの……かな……」

口に出してつぶやいてみたけど涙は出なかった。
感じるのはただ痛みと寒さだけ。
「でも……ホントは、俺、ずっと……」
何年先かわからなくても。
その時、中野にはもう新しい恋人がいて、俺のことなんて忘れてるかもしれないけど。
大好きだったあの公園で、また中野の背中を見送れるって。
いつかまたきっと会えるはずって。
ずっと信じてた。

「……今でも……まだ、会えるような気が……するのに……な……」

希望が欲しくて、そう思い込もうとしてるだけかもしれない。
でも。
全部に絶望してしまうより、こんな気持ちでいる方がいい。
「……そう……だよね」
ひとりでそっと呟いて。
それから、目を閉じて母さんに「ごめんね」を言った。

一人になっても母さんの分まで頑張るって約束したのに。
守れなくてごめんねって。
会う前に謝っておこうって思って。

――――……ホントに、ごめんね


ふっと現実が遠くなる。
けど、すぐにまた痛みに呼び戻されて目を開ける。
そんなことを何度か繰り返したあと。

床に押し当てた耳にかすかな足音が飛び込んできた。
意識は今にも完全になくなりそうだったのに。
その音だけは不思議なほど鮮明に響いて、ぼんやりした頭を眠りから引き戻した。

―――……待っ……て……


そんなはずない。
でも。
たとえばこのまま意識がなくなることになっても、最後に呼ぶのは中野の名前がいいなって。
そう思ったから。

「……中……野……っ――――」

叫んだつもりだったけど。
声はかすれていて、自分の耳にもやっと聞こえた程度。
絶対に外には聞こえなかったよなって思った。
なのに。


次の瞬間、ものすごい音がして。
真っ暗だった部屋に光が差し込んだ。



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