Tomorrow is Another Day
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ふわりと懐かしい匂いが広がった。
床に寝転んだままゆっくりと視線を上げると背の高い影が見えた。

「―――無事か」
いつもの無愛想な声だったけど。
でも、少しだけホッとしてるみたいに響いた。
「……うん」
近づく足音。
それから、煙草の匂い。
「立てるか?」
そう聞かれて「うん」って答えたけど。
でも、腕を動かすことさえできなかった。
「……やっぱ……ダメかも」
ごめんねって付け足したら、中野はちょっと呆れたような顔をして。
でも、怒るわけでもなく、静かに片膝をついて俺の背中に手を回した。
だから、もう一度「ごめんね」って言おうとしたけど。
そのとき中野の眉が寄って、俺の手を強く掴んだ。
手から流れ落ちた血が冷たい床に散って。
中野の表情がもっと険しくなった。
だから、怒られる前に言わないとって思って。
「……さっき、刺され……ちゃったんだ……」
聞こえないかもしれないくらい小さな声で言ったけど。
中野は何も答えないまま、コートを脱いで俺を包んだ。
「……中野」
コート汚れるよって言おうとしたけど。
「黙ってろ」
いきなり怒られて、仕方ないからちょっとだけ頷いた。
熱のせいで頭がぼんやりして、でも、身体は血が減るのに合わせて一秒ごとに冷たくなっていくような変な感覚の中。
体がふわりと宙に浮いた。
自分がどこにいるのか分からなくなって。
だから、本当なのは腹の痛みだけで、あとは全部夢なんじゃないかって思った。
「……中野……なんで……ここにいるの……?」
助けなんて来るはずない。
白井も黄色い髪も酔っ払いの男もみんなそう言ってた。
「ホントに本物……?」
だって、目の前にいる中野はタバコだってくわえてなかったし、それにいつもよりずっと優しいような気がしたから。
やっぱり夢なのかもって心配になって。
だったら、がっかりだなって思ったんだけど。
「……ったく、何わけの分からないこと言ってんだ」
中野は俺の顔なんてちょっとも見ないでそんな言葉を呟いて。
それから、すごく面倒くさそうに俺を抱え直すと暗い部屋を出た。

薄く光に照らされて見上げた顔。
俺の記憶と同じように不機嫌で。
それから。
通路に響く足音も、背中に回された手も。
声も仕種も。
全部、全部。
本当に何も変わってなくて。
だから。

「やっぱ……本物だ……」

会いたくて。
どうしようもなくて。
忘れたくて。
でも、ずっと忘れられなくて。
何度も何度も名前を呼んだ。
本物の中野。

本当に本物の―――

「……中野、あのね」
そっと手を伸ばして頬に触れた。
震える指先から、少しだけ温度が伝わってきた。
「しゃべるなと言っただろ」
また怒られてしまったけど。
「うん……でもね」

コート汚しちゃってごめんね。
それから。

「……ずっとね……会いたかったんだ」

感覚のなくなった手で中野のシャツをギュッと掴んだ。
もう、この先ずっと何があっても涙なんて出ないだろうって思ってたのに。
張り詰めていた何かがプツって切れて、じわっと視界がにじんだ。
それからあとはもう止められなくて。
「ったく、黙ってろって言ってんだろ」
もう一回怒られてしまったけど。
でも、その後も俺はずっとわんわん泣いてた。
湿った臭いがなくなって、にじんだ世界がすっかり明るくなって。
もう大丈夫なんだなって思ったら。
どうしても涙が止まらなかった。


その後、中野はなんにもしゃべらなかった。
泣いてる俺をずっと無視して、歩きながら誰かを呼びつけた。
医者がどうとか、そんな話だったけど。
自分の声がうるさくてあんまり聞こえなかった。
「わかりました。では……先に香芝先生の……この距離なら救急車を呼ぶよりも……――」
でも、途切れ途切れに耳に入ってきた声に聞き覚えがあって。
「……ボディーガードの……」
視界は涙でなんにも見えなかったけど。
「ご無事でよかった」
声は間違いなくお兄さんのものだった。
俺もよかったなって思ってたのに。
でも、中野はお兄さんに向かっていきなり怒ってた。
「刺されてる奴に向かって無事とか言ってんじゃねえよ」って。


駐車場にいくまでの間、お兄さんはずっと一緒について来てくれた。
「本部はもう警察が入ったそうです。こちらの後始末についてはお任せください。久世から指示が出ていますので」
中野はお兄さんの言葉に何の返事もしないまま、イライラした空気を漂わせて歩き続けてた。
そして、駐車場に出ると同時に闇医者の名前を呼んだ。
「中野さん!!……マモル君は―――」
走ってきた闇医者は俺が泣いてるのを見て困った顔をしたけど。
「すぐ病院へ電話しろ」
中野の言葉に頷いてから、急いで車のドアを開けた。
倒したシートの上にそっと寝かされて。
闇医者がその前にかがみ込んで。
中野が運転席に座るとすぐに車は動き出した。
「マモル君、ちょっと傷見せてね」
闇医者が俺を包んでいたコートとシャツをめくった。
そのまま携帯を取り出して、どこかに電話して。
「……ええ、左の脇腹です。傷はそれほど深くないように見えますが、車内が暗くて内臓への影響まではわかりません。出血が酷いのと、熱が高いのが……―――」
話している間も闇医者はときどき俺の顔を見て頬をなでながら、
「大丈夫。必ず治してあげるから、マモル君は何も心配しなくていいからね」
前と同じ優しい笑顔でそう言った。

ホッとして、もっと力が抜けて。
俺はもういいやって思ったのに。
中野はその間もずっと怒ってた。
「ったく、黙っていなくなったと思ったら、刺されて帰ってくるかよ」
「だいたいおまえがボーッとしてるからこういうことになるんだ」
「手間ばっかりかけさせやがって」

いつもはぜんぜんしゃべらないくせに。
なんか、おかしいよなって思った。

「―――……ね、闇医者」
傷はだんだん痛みがひどくなって、頭もボンヤリしはじめていたけど。
ほんの少しだけ笑いがこぼれた。
「何、マモル君?」
「……俺ね……今日……いいこと、たくさんあったんだ」
闇医者にも、お兄さんにも会えて。
それに。
中野がこんなに心配してくれてるんだよって言おうとして。
でも、声にならなくて。
「そう。でも、明日はきっともっといいことがあるから」
だからもう少し頑張ろうねって言う闇医者の声は優しくて。温かくて。
「……闇医者、母さんみた……い」

口癖だった。
いつだって笑いながら。
俺の頬を両手で包んで。
『明日はきっともっといいことがあるから、一緒に頑張ろうね』って。
そう言ってた。

最期の日も母さんはやっぱり笑ってて。
『……だから、母さんの分も頑張ってね、護』
目を閉じる前に、そう言った。



夢と現実の境目。
意識がなくなりかけるたびにクラクションが聞こえて。
「中野さん、もう少し静かに走ってください」
目を開けたら闇医者がいて。
「頑張ってマモル君。もうすぐ病院だからね」
俺の髪を何度も撫でて。
「大丈夫。ちょっと縫ったらすぐに治るから」
優しく笑って。
もう少しだけ頑張るんだよって言われて「うん」って答えた。
でも、もうあんまり声も出なくて。
少し悲しい気持ちになった。
だって、他にもたくさん言わないといけないことがあるのに―――

どうしても。
言わなくちゃいけないことがあるのに。

「……ね、闇医者……」
「なに?」
「……中野に、恋人……できるように、お祈りするから―――」
今なら本当に心の底から願えるような気がしたから。
だから、大丈夫だって。
ちゃんと伝えてねって。
言ったつもりだったけど。
自分の耳にさえそれは届かなかった。

「マモル君、しっかりして!!」

俺はきっとこの先もずっと『好きだ』って言えないけど。
中野に恋人ができたら、俺がお祈りしたおかげかなって。
少しだけ思ってくれたらいいなって。
そんなことを考えながら。

ゆっくりと目を閉じた。

「ね、闇医者……どうせいつか……死ななきゃいけないなら……俺、今日みたいな日が……」

いいことがたくさんあって。
大好きな人と一緒で。

「マモルくん! 大丈夫だから、しっかりして!!」

大丈夫だよ……って。
心配しなくていいよ……って。
そう思いながら。

闇医者の声が。
遠くなった。


聞き慣れた街の喧騒とクラクション。
耳鳴りのように続いていた。


どこまで続くんだろう。




どこで途切れるんだろう……―――




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