ホントのことを言うと最初は中野だって思ってた。
だって、ドアが開いたときかすかにタバコの匂いがしたから。
でも。
「お加減はいかがですか」
そう言ったのは前にボディーガードをしてくれてたお兄さんだった。
「……こんにちは」
お兄さんのことも好きだけど。
でも、やっぱりちょっとだけガッカリしながら挨拶して。
そのあと、「今日はたくさん寝たから大丈夫だよ」って付け足した。
お兄さんは少しホッとしたような顔でお見舞いの花をテーブルの上に置いてから、
「少しお時間をいただけますか?」
すごく真面目な顔で俺に聞いた。
俺が捕まっていた間のことだから、少しでも嫌だと思ったら断ってくださいって言われたけど。
小宮のオヤジも患者モドキもみんな帰ってしまったし、どうせヒマだもんなって思って。
「うん、いいよ」
お兄さんと話すのも久しぶりでちょっと楽しいかもって思いながら軽く返事をしたら、ドアとベッドの間に置かれていた仕切りの向こうから声が聞こえた。
「久しぶり。ケガはどう?」
顔を出したそいつを見て、俺はちょっとだけ「え?」って思った。
髪は伸びてたけど。
片手を挙げて口元だけで笑ったのは間違いなくエイジで。
「……生きてたんだ」
ちょっとびっくりしたから、「よかったね」って言うまでに時間がかかってしまって。
そしたらエイジは「残念だった?」って言って肩をすくめた。
「あ、ううん、そうじゃなくて……だって、盗み聞きしてた時に聞いた『後藤』っていうのがエイジのことだって思ったから」
言い訳っぽく聞こえそうだったけど。
「だったら、ちょっとヤバイかもしれないって、ずっと思ってたから……」
そう説明したら、エイジはまたフッて笑って、「別にいいよ」って言いながら椅子に座った。
エイジのことは前からあんまり好きじゃないんだけど。
でも、やっぱり無事な方がいいに決まってるから、もう一度「よかったね」って言ってみたけど。
エイジの返事は「そうでもないよ」だった。
どういうことなんだろうって考えていたら、エイジが苦笑いしたまま仕切りの方を見て。
つられてそっちに視線を移したら、俺のボディーガードとは違う人が立ってるのが見えた。
「ぜんぜん信用されてなくてね、厳重な監視付きってわけ。まあ、生きていられるだけマシってことだろうけどね」
なんでそんなことになってるのかわからなかったけど。
エイジはすごくのんきそうにあくびをしてて、それほど大変そうな感じもしなかったから、
「ふうん、そっかぁ……」
適当な返事をして流しておいた。
その間にお兄さんはカバンからファイルを取り出して、何かのチェックをして。
「では、一瀬さん。いくつか質問させていただきますがよろしいですか?」
答えたくないことには答えなくていいし、わからなかったら無理に思い出さなくていいって念を押されて。
「うん」
ぜんぜん大丈夫だよって言ってから話を聞いた。
最初に確認されたとおり、質問は俺が捕まっていた間のことや白井の事務所のこと。
どれが大事なのかもわからなかったし、あれこれ話すと自分でもごちゃごちゃになってしまいそうな気がしたから、白井に拾われた辺りから順序良く話していった。
でも。
「あれ……どうだったかなぁ。俺、頭悪くなったかも」
自分でも不思議なくらい記憶が飛び飛びで、どんなに考えても思い出せないことがたくさんあることに気付いた。
クローゼットに隠れて聞いていたはずの話。
白井の説明。
作り笑いの男や黒服の顔の特徴。
何一つ出てこなくて。
「役に立たなくてごめんね。でも、ちゃんと顔を見たのはその二人くらいで、あとはぜんぜん……」
謝ったら、お兄さんは静かに首を振った。
「では、念のためもう一度お聞きしますが、事務所で白井氏と話していた男の顔はごらんになっていないのですね?」
お兄さんの口調は穏やかで、話もゆっくりで。
だから、俺もあせったりしないでいられたけど。
それでも記憶はあいまいで、答えられないことばっかりで。
「何度か来てたけど、俺は隣りの部屋のクローゼットに隠れてたから」
ホントはそれだって自信がなかった。
もしかしたら俺が忘れてしまっているだけなのかもしれないって思うほど。
「では、男の声ですが、この中で聞き覚えのあるものがあったら教えて下さい」
全部で10人くらいの声が録音されたテープを聴いて。
そいつの声はすぐにわかったけど、やっぱり顔は思い出さなくて。
だからやっぱり声しか聞いてなかったんだなってホッとした。
「……こいつだよ。白井の事務所に来てた。ちょっとエラそうな感じの……それから、その前のやつも知ってる」
聞き覚えがあったのは二人。
一人は白井の事務所に来てた男。もう一人は最初に閉じ込められた別荘みたいなところに来た男。
「そうですか。わかりました。別荘に来たのはこの男ですね?」
目の前に差し出された写真を見て、そいつには見覚えがあったから頷いた。
「わかりました。ありがとうございます」
お兄さんは手元のファイルをぺらっとめくってエイジに視線を投げた。
「だから、僕も彼も嘘なんてついてないって言ったでしょう?」
信用ないんだなって言いながら、エイジは少し苦い顔で笑ってたけど。
「ね、俺はぜんぜんわかってないんだけど……いいのかな」
聞かれるだけで、教えてはもらえない事件のこと。
それよりも、彼っていうのは誰なんだろうって思っていたら、ちょっと頭が痛くなった。
お兄さんにもう一度「ご気分は?」って聞かれて。
「え、あ……うん、大丈夫」
具合が悪いわけじゃなかったけど、でも、なんとなく心臓が妙なドキドキを繰り返していて。
ついでにのども渇きはじめて。
もしかしたら、大丈夫じゃないのかもって思ったりしたけど。
「大丈夫」の返事にお兄さんがホッとしたのが分かったから、俺ももうちょっとだけ頑張ってみようって思った。
「では―――」
ファイルから取り出されたのは何枚かの写真。
どれも男の上半身が隠し撮りっぽい感じで写ってた。
20人くらいいたけど。
でも、分かったのは白井と作り笑いの男と黒服だけだった。
「……あとはわかんないや」
それだって自信はなかった。
残りは全部黒っぽいスーツにネクタイ姿。
区別なんてつかなかった。
それに、頭の中がひどくかすんでいて、思い出そうとするほど薄れて行くような気がした。
「では、次はこちらを。衣服とか、持ち物とか、少しでも見覚えがあれば――――」
ベッドの上で上半身だけ起こしていた俺の膝に並べられたのは、何かの一部分だけを写した写真。
ちょっと見ただけではなんだかよく分からないようなものばかりだったけど。
「……これって―――」
目を引いたのは黒こげのシートと服の切れ端。
布切れもふちが黒ずんでいて、燃え残ったものだってことはすぐにわかった。
―――……作り笑いの男が……着ていた服だ。
心臓がまた変な速度で鳴り始めた。
死んだらしいってことは分かってたはずなのに。
「では、こちらは?」
倉庫のような建物とその床の写真。
その真ん中にうつ伏せに倒れているのは間違いなく人間で。
床に投げ出された手足は黒服とは違って華奢だった。
「見覚えがありますか?」
まとっていたのはスーツなんかじゃなくて、俺くらいの年齢のヤツが着るようなカジュアルな服。
「……知らない」
少しも見覚えはなかった。
なのに、不意に蘇った記憶があった。
白井と逃げ出そうとした時、目隠しをされて。
まっくらな部屋の中で俺がつまずいたもの――――
その瞬間、イヤな確信が過ぎって。
俺の中で全部が凍り付いた。
「白井が……身代わりを頼んだって……」
家出中だから。
金をやるって言ったら、すぐに引き受けたって。
そう言ってた―――――
「一瀬さん?」
しゃべろうとして。
なのに、唇が震えて。
瞬きさえできなくなってた。
「大丈夫ですか、一瀬さん?」
聞かれても、大丈夫なのかどうか自分でもわからなくなってた。
意識が飛ぶ直前のようなめまいがして。
頭の中が空白になったその瞬間。
乱暴にドアが開けられる音でハッと我に返った。
足音と、流れ込むタバコの匂い。
ギュッと肩を掴んだのは大きな手。
ようやく焦点が合ったとき、目の前に中野の顔があった。
「……な……かの……」
名前を呼んだ瞬間にお兄さんのことも写真のことも、さっきまでのこと全部がプツンと途切れて。
ただ「今日も来てくれたんだね」ってそう思った。
「あのね、コート……返さなきゃって」
普通の言葉なのに。
言いながら、泣き出してた。
なんで泣いてるのか自分でもわからなかったけど。
身体が震えて、また声が出なくなって。
――――……中……野
震える手で中野のスーツをギュッと握った。
泣いたら怒られるって思ったけど。
でも、中野は何も言わずにそっと俺を抱き寄せた。
背中に回された手は温かかったけど。
「―――杉本」
お兄さんに向けてそう告げた声はひどく冷たくて。
それから。
「外に出ろ」
抑揚のない音が耳を抜けていった。
「中野さん……ご出張じゃ―――」
ひどく慌てているってことは顔を見なくてもわかった。
中野はお兄さんの言うことなんてぜんぜん聞いてなくて、
「いいから、さっさと出て行け!」
そんな言葉を投げつけた。
中野はいつだって機嫌はよくないんだけど。
でも、怒鳴ったことはあんまりないのになって思っていたら、ガタンと椅子を引く音がして。
それから、「すみませんでした」という声のあとドアは閉められた。
人の気配と一緒にピリピリした空気も消えて。
静かになった部屋にはぐずぐず泣いてる俺の声だけが響いてた。
「……っく……中野、ごめ……コート、それ、から」
お兄さんにも謝らなきゃって言ったら、なぜか怒鳴られた。
「事件のことには触れるなと香芝に言われなかったか」
そう言われて、思い返してみたけど。
「……覚えてない」
眠れない理由をあれこれ説明してもらった時にそんな話もしたような気はするけど。
あの頃の記憶もいろんなことがあいまいで。
「あんまり覚えてない」
そう言ったあとでまたダーっと泣き出したら、中野がうんざりしたみたいに溜め息をついた。
「―――ったく」
すごく呆れてたけど。
「……ごめ……んね」
背中に回されてた手が少しだけ緩んで。
それから、くちゃって髪を掴まれた。
泣くなって言われるんだろうなって思ってたのに。
中野は面倒くさそうにベッドの端に腰かけて、俺の頬を自分のスーツに押し付けた。
その間にも2回くらい溜め息をついてたけど。
でも、それはきっと「いい」ってことだから。
「……ありがと」
それだけ言って、思いきりギュッてしがみついた。
もうダメかもしれないって何度も思ったけど。
でも、いつだって気がつくと中野がそばにいて。
だから。
思い出したくなくて。
ずっと閉じ込めておくしかなかった記憶を全部外に放してしまっても、もう怖いことなんてなんにもないはず。
だって、中野がここにいるんだから。
「もう、大丈夫なんだよね?」
中野の腕の中で、やっと、心の底からそう思った。
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