顔を会わせる気になれなくて。中野が通りかかる前に公園を出ようと思って立ち上がったら、ちょっとフラッとした。
いきなり風邪を引きそうな雰囲気だった。
「……闇医者のところで薬もらってこようっと」
診療所が開くまでにはまだちょっと時間があったけど。
寝不足の顔を中野に見られたくなかったから、とにかく公園を出て診療所に向かった。
「どうせヒマだし、ついでに裏口も掃除してこようかな。闇医者、忙しそうだから喜んでくれるかもしれないし」
ため息を飲み込んで楽しいことを考える。
「……今度泊めてもらったら、中野の部屋も掃除しようかな」
中野のマンションを思い浮かべて。
でも、やっぱり昨日のことが頭から離れなくて。
眠れなかったせいで、頭の中はぼんやりしてるのに、神経だけがピリピリと尖っているような気がした。
「中野、昨日はアイツのこと考えながら寝たのかな……」
すぐ目の前にいても、俺の顔なんて絶対に見ない中野が。
真っ直ぐにアイツを見つめてた。
考えても仕方ないのに。
なんで思い出すんだろう。
「う〜……頭痛くなってきた。早く闇医者、来ないかなぁ……」
診療所のドアの前に座り込んで闇医者が来るのを待った。
ビルの隙間から日が差して髪に当たる。
なのに暖かく感じないのはどうしてなんだろう。
「……隣りに座ってたヤツも、きっとアイツのことが好きなんだろうな……」
すごく心配そうにアイツのことを見てた。
中野と同じように。
真っ直ぐ。
アイツのことだけ。
「いいよなぁ……」
なんだか急にだるくなって、そのままうずくまった。
どのくらい待ったのかわからないけど。
もう、すっかりお昼くらいの日差しになっても闇医者は来なかった。
「……なんで?」
診療所がいつ休みなのか、今日が何曜日なのか、知ってるはずなのに思い出せなかった。
体はどんどん熱く重くなってくる。
「ここで寝ちゃおうかなぁ……」
座っていられなくて、コロンと横になった。
天気は最高に良くて、寝転んだコンクリートはもうすっかり温まっていた。
その熱が気持ちよくて、ぺったり頬をつけて大きく息を吸った。
「あったかいし、大丈夫だよな……」
目を閉じたら、ぐるぐると自分が回った。
「……なんか、ダメな感じ……」
本当はこのまま眠ってはいけないような気がした。
でも、体が動かなかった。
目を閉じるとアイツの驚いた顔が浮かんで。
それから、アイツを呼ぶ中野の声が聞こえた。
ずっとその繰り返し。
悲しくて眠れなかった。
もう嫌だと思い始めた時、いきなり誰かに起こされた。
「マモルちゃん、風邪引いたんか?」
小宮のオヤジだった。
また家出してきたらしくて、診療所のベッドのある部屋の鍵を持ってた。
「……そうかも」
もう、どうでもいい。
風邪なんて引いても、このまま起き上がれなくなっても。
別にどうってことない。
そんなふうに心の中で全部投げ出してしまっても。
「先生、休みだけどな。呼んできてやるから待ってろよ?」
誰かが優しいと、もうちょっとがんばろうかなって思う。
勝手な性格。
「……ありがと」
小宮のオヤジに起こされて、なんとかベッドまで歩いていった。
部屋の中は日が当たらないから、なんだかすごく寒く感じた。
毛布に包まって窓の外を見る。
あのまま公園で寝てたら良かったのかもしれない。
どうせ中野は俺になんて気付かずに通り過ぎるだけなんだから。
「闇医者に悪いことしちゃったなぁ……」
好きな人に迷惑をかけるのは俺だって嫌だから。
「薬もらったら早く公園に帰らなきゃ」
闇医者は走って来てくれたみたいで、少し息を切らしてた。
「……ごめんね。休みだったのに」
すっかり自己嫌悪になってた俺に、闇医者はいつもと同じように笑って首を振った。
「いいよ。家、近くなんだ」
白衣は着てなかったけど、やっぱり医者に見える。
体温計を取り出して、熱を測る。
優しい手。
「結構高いね。困ったな」
闇医者の足元に旅行カバン。
どこかに出かける予定なんだろう。
「いいよ、薬飲んだら治るから。今日、晴れてるし。大丈夫だよ」
頭がぼーっとしてた。
いまいち、自分でも何を言ってるのかわからなかったけど。
闇医者は俺の服を脱がせて、診療所に置いてあるパジャマに着替えさせた。
それから薬を飲ませて、甘くて温かいレモンティーを入れてくれた。
「ちょっと待っててね」
それから、おもむろに携帯を取り出して、どこかに電話。
「患者さん、ちょっと熱が高くて」
待ち合わせの時間より遅れるって言ってた。
約束の相手は恋人なのかもしれない。
「……ごめんね」
自分の声なのに、すごく掠れて聞こえた。
「いいから、気にしないでお休み」
悪いなって思ったんだけど、闇医者が優しいから結局甘えてしまった。
俺の髪を撫でながら、またどこかに電話をして。
「ええ。そうなんです。すみませんがお願いします」
切ってから、ほっと息を吐いた。
「ごめんね。ついていてあげたいんだけど。ちょっと用事があって」
「ううん。俺こそ、ごめんね。せっかくの休みなのにさ」
何度謝っても足りないような気がしたけど。
「そんなに謝らなくていいんだよ」
俺の気持ちまで全部分かるみたいに、にっこり笑ってくれた。
闇医者の手は温かくて優しくて、やっとピリピリしてた部分が溶けていくような気がした。
あと少しで眠れるから。
そしたら、昨日のことも考えなくていいから。
そっと目を閉じて、明日のことを考えた。
ふっと意識が遠くなった瞬間、ドアの開く音がしてまた現実に戻された。
同時に「すみません」という闇医者の声が聞こえた。
うっすら目を開けたら、中野が立ってた。
「明日の夕方には戻りますから、そしたらマモル君を迎えに……」
俺、中野にも迷惑かけるのかな。
「……大丈夫だよ、俺、今日、治るから、明日なんて、ぜんぜん……」
思うようにしゃべれなくて、中野が眉間にシワを寄せてた。
「マモル君は余計な気なんて遣わなくていいから。ちゃんとお休み。明日、僕が迎えにいくまで中野さんちで寝てるんだよ?」
闇医者にそう言われても首を振るしかなかった。
中野は昨日から機嫌が悪いはずだし。
これ以上迷惑なんてかけない方がいい。
なのに、小宮のオヤジが笑って中野の肩を叩いた。
「マモルちゃん、ヨシくんのモンなんだから迎えにいく必要なんてないって。なあ?」
中野に同意を求めてたけど。
もちろん返事なんてなかった。
小宮のオヤジも本当のことは知らないから、気安くそんなことを言うけど。
「……でも、大丈夫だから、そんなの、相談しなくていいよ。俺、ホントに」
このまま公園に帰っちゃえばいいんだと思って起き上がろうとしたんだけど。
「大人しく寝てなさい」
闇医者に止められた。
「だって、」
「だってじゃないでしょう? 何度熱あると思ってるの?
自己管理もできないから子供って言われるんだよ?」
思いっきり怒られた。
闇医者はまた俺をベッドに寝かしつけて。
「中野さんが必要以上に素っ気なくするから、マモル君がこんなに遠慮するんですよ」
ついでに中野のことまで怒ってた。
「そんなのぜんぜん中野のせいじゃないよ」
中野に悪いと思って言い訳をしたけど、聞いてはもらえず。
「マモル君は黙って寝てなさい」
また怒られて。
中野はその間、黙って煙を吐いてたけど。
吸い終わったら、いきなり俺を抱き上げた。
「いいよ、俺、自分で、」
歩けると思ったのに。
「大人しくしてろ」
中野にも怒られた。
「ふえ〜……だって、」
「黙ってろ」
風邪なんて引かなきゃ良かった。
今度から、どんなにへコんでても雨宿りはちゃんとしようと思った。
結局、車で中野のマンションに運ばれて。
そのままベッドに寝かしつけられた。
中野は闇医者からもらった薬の袋を開けて、煙草を吸いながら中に入ってる説明書を読んでいた。
その横顔を見上げてたら、また昨日のことを思い出して悲しくなって。
なのに。
「……ね、中野の彼氏、ショウって名前なんだ?」
なんで余計なことを聞いてしまうんだろう。
バカだよな、って自分でも思ったけど。
「どういう字書くの? 難しい?」
沈黙が流れると居心地が悪くて、なんとなくノドが痛かったけど無理してしゃべり続けた。
「隣りに座ってたの、同じ会社の人かな?」
一方通行の言葉。
でも、熱のせいでぼんやりしてて、泣き出すほど悲しい気持ちにはならなかった。
中野はタバコが短くなるまで部屋にいたけど。
その後はカーテンをぴったり閉めてさっさと出ていった。
「……いなくなっちゃった……」
部屋は寒くなんてなかったけど。
一人だとベッドが妙に大きくて。
「……つまんないな……」
布団に潜って丸くなった。
眠りたいのに、眠れない。
でも、意識は半分くらいしかなくて。
夢の中で夕べの場面が切れ切れに再生されて、その度に悲しくなった。
翌日、中野の部屋の時計は昼の1時過ぎを指してた。
でも、俺が寝てるベッドの脇には闇医者が座ってた。
「気がついた?」
「……うん。でも、なんで闇医者がここにいるの?
帰ってくるの、夕方だって言ってたよね?」
「ちょっと予定より帰りが早くなったんだよ。はい。水飲んで」
差し出されたペットボトルを受け取って、一気に飲み干した。
そしたらそれまでニコニコしてた闇医者が顔を顰めた。
「マモル君、もしかしてお水も貰わなかったのかな?」
「え?……うん。ずっと寝てたから……」
トイレにも起きた記憶がない。
闇医者は溜息をついて立ち上がってから、何が食べたいか聞いた。
「ううん、あんまり……」
「でも、作ってくるから少しだけでも食べてね?」
そう言って寝室を出ていった。
その後。
「中野さん。寝かせておけばいいってものじゃないでしょう?
昨日の昼から食事も水もあげないってどういうことですか?
病人なんですよ?」
いきなり、中野を怒ってた。
闇医者が大声を出すのなんて初めて聞いた。
ちょっとびっくり。
ずっと寝てたおかげで昨日に比べたら全然大丈夫になってたし。
そんなに怒らなくてもいいのになぁ……
それよりも。
「闇医者って、もしかして中野と仲いいのかな?」
携帯に電話番号を登録してあるくらいだから、きっとそうなんだろうけど。
「でも、中野に怒鳴っちゃうって、すごいよなぁ……」
実は結構キツイところもあるのかな、なんて思ったけど。
寝室に戻って来た闇医者はいつものニコニコした顔だった。
「熱いから気をつけて。ゆっくり噛んで食べてね」
「ありがと」
おかゆを食べさせてもらって、薬を飲んで。
「ずっとついてるから、ゆっくりお休み」
やっぱり悪いなって思ったんだけど。
昨日のことがあって俺はまだ少し滅入っていたから、結局甘えてしまって。
「……ありがと。ごめんね」
小さな声でそう言ったら、闇医者はそっと目にかかった髪を払ってくれた。
「マモルくん、あんまり余計なことは考えない方がいいよ」
なんでも分かってるみたいに静かに笑って。
「マモル君に似合う優しい人がちゃんと見つかるから。ね?」
他のヤツに言われたなら「そんなわけないじゃん」って思ったかもしれないけど。
でも、闇医者だから、素直に「うん」って思えた。
「ありがと」
俺もにっこり笑い返して。
やっと、本当にぐっすり眠ることができた。
その日の夜、3人で夕飯を食べた後、電話がかかってきて闇医者は診療所に戻ることになった。
「ごめんね、マモル君」
「ううん。俺、もう、ぜんぜん大丈夫だから」
熱もすっかり下がったし、いつもよりたくさん寝たから体調は悪くなかった。
ついでに気持ちもかなり浮上した。
「じゃあ、中野さん、マモル君のことお願いします。お水くらいは飲ませてやってくださいね。それから、寝室で煙草は吸わないでください。マモル君、まだ咽喉が少し赤いですから。あ、それと診療所でも煙草はダメですよ。待合室の灰皿の置いてあるところ以外では吸わないでください」
中野は面倒くさそうに吸ってた煙草を消したけど。
「じゃあ、マモル君。また明日ね。ゆっくり休むんだよ」
闇医者がいなくなったら、またすぐに新しいやつに火をつけた。
……ぜんぜん効き目ないじゃん。
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