Tomorrow is Another Day
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キスの後、アイツは時計を気にしながら席を立った。
中野も立ち上がってレシートを取り上げた。
チラッと金額を確認して、1万円札と3人分のレシートを俺に渡した。
こんな時、俺はただの召し使いで。
存在そのものを無視されるよりは、いくらかマシかもしれないけど。
黙って頷いてそれを受け取って、レジで金を払った。
会計を済ませて外に出たら、ちょうどアイツが中野に挨拶をして帰ろうとしてるところで。
でも、中野はアイツの手を掴んで抱き寄せた。
チラッと俺の方を見て視線を動かした。
帰れってことなんだろうって分かったから、ちょっとだけ頷いて中野のマンションとは反対方向に歩き出した。
最後に目に残ったのは、ちょっと困ったようなアイツの顔。
それから、やっぱりアイツを見つめている中野の顔。

ビルの角を曲がろうとしてちょっとだけ振り返ったら、中野とアイツの前に背の高い男の人が立っていた。
「……あの人、会ったことある……」
前に同じ店で会った時、アイツの隣りに座ってた奴だ。
偶然だったみたいだったけど、ピリピリした空気がちょっと離れた俺のところまで伝わってきた。
アイツはポケットから何かを取り出して、しばらく俯いていたけど。
話しかけられた時、それを男の人に差し出した。
広げられた手には銀色のものが乗っていた。
そいつは差し出されたものを見たけれど、それを受け取らないで駅の方に歩いていった。
アイツはもう一度うつむいて、しばらく固まってたけど。
中野に促されて、ゆっくり歩き出した。


銀色の小さなものは、たぶん、家の鍵。
アイツのなのか、あの人のものなのかは分からないけど。
「……アイツ、中野のうちの鍵も持ってるんだろうな……」
そう思ったら、なんだか悲しくなってきた。
金曜だから、大通りにはまだたくさん人がいて、すごく楽しそうに歩いてた。
少しぼんやりしてたらすぐに誰かにぶつかってしまうくらい賑やかな通りを擦り抜けて、中野とアイツが消えていった方向に歩き出した。
「……これからどうしようかなぁ……」
中野のマンションに行くことはできない。
けど、他に帰るところもない。
北川の店ならって思ったけど、まだ謹慎は解けてないし。
それでも、頼み込めば泊まらせてくれるかもしれないけど。
「客、取らされるだろうなぁ……」
そんな気にもなれなくて。
結局、いつもの公園に戻った。
昼間は良かったけれど、さすがに夜は寒くて心細さも倍増する。
「……やだなぁ……なんで今日だけこんなに寒いんだよ」
そう呟きながらいつものベンチに座った。
ギリギリまでここにいて、それでもガマンできなくなったらコンビニかファミレスに入ればいい。
「あ、でも金……」
財布を開けてみたけれど、中には小銭数枚とレシートだけ。
コーヒーくらいは飲めそうだけど。
嫌い気持ちでポケットに手を突っ込んだら、チャリンと音がした。
バーで会計をした時のお釣り。千円札4枚とコイン。
「けど、これは中野の金だから。使っちゃダメだもんな」
大きなため息をついたら体の中まで一気に冷えてしまって、慌てて口を閉じた。
どうしても寒さを凌ぎたいなら店でいい。
何時になっても誰かいるはずだし、どうしても嫌だって言えば北川だって無理に客を取れとは言わないかもしれないし。
「……うん。大丈夫だよな」
自分に言い聞かせて。
楽しいことを考えようとしたけれど。
浮かんできたのはアイツを見つめてた中野の横顔だけ。
あとは何にも思い出せなかった。


手が冷たくなって、身体が冷えて。
それでも。
どうしても店のほうへは足が向かなかった。
朝からロクに食べてなかったから、体はどんどん冷えて。
膝を抱えて、できるだけ丸くなって。


結局、眠れないまま夜を明かした。
今頃、中野はアイツを抱いてるんだろう。
そう思うと自分がバラバラになるような気がした。
我慢できなくて。
でも、どうにもならなくて。
気がついたら、中野のマンションの前にいた。
週末だから、アイツはこのままずっと中野の部屋にいて、朝になったら「おはよう」って言って。
中野はきっと優しい声でアイツを呼んで、笑ったり話したりして。
アイツも中野の名前を呼んで―――
「……中野のこと、義則って呼んでた……」
泣きたい気持ちを堪えながら、自販機でお茶を買ってきて手を温めた。
こんなことしてても仕方ない。
なのに、どうしてもそこから離れられなくて、すっかり暗くなった中野の部屋を何度も何度も見上げていた。


お茶の入ってる缶が手の中で冷たくなった頃、アイツが出て来た。
中野はいなくて、一人きりだった。
店を出た時はスーツを着てたはずなのに、今はワイシャツだけで。
しかも顔に殴られた痕があって、唇に血が滲んでいて。
他はなんにも持ってなかったけど、右手に何かを握り締めていた。
「……やっぱ、あの人の鍵なのかな……」
返しにいこうとして中野に殴られたんだ。
でも。
あんなにアイツのことを好きなくせに。
なんで殴ったりするんだろう。


無意識で後を追った。
アイツは走って大通りまで出ると、タクシーを拾って消えていった。
「行っちゃった……」
タクシーが見えなくなるまでそこに立っていたけど、じっとしてたらやっぱり寒くて。
またトボトボと中野のマンションに戻った。
エントランスで部屋の番号を押そうとしたけど。
こんなタイミングじゃ、まるっきりアイツが出ていくのを待ってたみたいだと思ってやめた。
俺だってヘコんでるのに、ヤツ当たりなんてされたくなかったし。
アイツのことだって殴ってしまうくらいだから、俺なんか殴られるくらいじゃ済まないだろうし。
仕方なく、震えながら公園に戻った。
「早く明るくならないかなぁ……」
しばらく座ってたら、空には光が差してきたけれど。
朝だから今が一番寒い。
風の当たらないところで膝を抱えて丸くなってたけど、ガチガチと歯が鳴って眠ることさえできなかった。
早くあったかくならないかなとか、もしかいしたら今日は曇りかもしれないなとか考えてたら、目の前に影ができた。
なんだろうと思って、震えながら顔を上げたら、中野が立ってた。
「……ど、うし……たの?」
唇が震えて上手くしゃべれない。
俺を迎えに来たんだろうかって少しだけ思ったけど。

……そんなはず、ないよな。

アイツを探しに来たんだ。
もう、恋人のところに行ってしまったのに。

中野は何も言わずに突っ立っていた。
誰かを探してるっていう感じでもなくて、ただ、ぼんやりしてた。
そんなに怒ってるようにも見えなくて。
だから、なんとなく聞いてしまった。
「……ね、なんでアイツのこと、殴ったの?」
そんな質問に答えるはずなんてないって思ってたけど。
「見たのか」
なんの感情もなさそうな声で返事があった。
「うん。そこでタクシー拾ってたから」
大通りを指した自分の手は、もう血の気を失って真っ白になっていて、指先が震えていた。
それを見られたくなくて、すぐにポケットに手を突っ込んだけど。
でも、中野は気付いてた。
俺の手首を掴んでわざわざポケットから出して、ちょっとだけ怒った顔になった。
「何でこんな所で座ってる? 店に行けば良かっただろ?」
苛々した口調で吐き捨てたけど。
「だって、まだ謹慎中なんだ」
そう言ったら、上着を脱いで掛けてくれた。
それから掴んでいた腕を引っ張り上げて俺を立たせると、さっさと先に歩き出した。
これって、ついて来いってこと?
「……いいのかな」
どうしようかなって迷ったけど。
でも。
アイツはタクシーに乗って行っちゃったんだから、中野だってもうどうしようもないはず。
そう思って、慌てて歩き出そうとしたけれど、寒いせいで足がもつれて転んでしまった。
「……ってー……」
地面についた手はまだ震えていた。
でも、上着はそんなに汚れてなさそうだったからちょっとホッとした。
ゆっくりでいい。
俺がついて来てなくても中野はどうせ気付かないんだから。
そう思いながら起き上がったら、中野が戻ってきてた。
「本当にトロい奴だな」
呆れ果ててそう言ってから、軽々と俺を抱き上げた。
「うあ……あ、あるけるよ、」
口は回ってなかったけど、ゆっくりなら歩けるよって言ったら、中野は面倒くさそうに俺を下ろした。
マンションまでの短い距離を何分もかけて、ゆっくりゆっくり歩いてくれた。
足をケガした時もそうだったなって。
なんとなくそんなことを思い出した。
「……ね、中野」
なんでアイツのこと、殴ったの……って。
もう一度聞こうとして。
でも、言えなくて。
「あの……いつも、ごめんね」
代わりにそう言ったら、溜息を吐かれた。


部屋に入ると中野はエアコンの空気が吹き出してくる真下に俺を立たせてから、バスルームに消えた。
なんとか普通に動く程度に体が温まった頃、中野がまたリビングに戻って来て。
やっぱりすごく面倒くさそうに俺を抱き上げた。
「も、歩けるって」
ジタバタしたけど聞いてるはずもなく。
脱衣所に俺を下ろすとバタンとドアを閉めた。
バスルームはモワモワに湯気が立っていて、むせ返りそうなほど暖かだった。
しばらく立ってたら手足がジンジンしてきて。
ついでに目が回りそうだなって思った。

中野は、もうアイツのことを諦めたんだろうか。
電話して『戻って来い』って言わなくていいんだろうか。
待ってるからって。
大好きだからって。

アイツだって。
きっと、そう言って欲しいと思うのに。


そんなことを考えながらシャワーを浴びて。
それからゆっくり湯に浸かっていたはずだったんだけど。
悪夢の後で目が覚めた。
目の前は寝室の天井。
見慣れた寝室の風景だったけど。
「う……気持ちわる……」
言った瞬間にペットボトルが目の前に差し出された。
「うあ、ヤバっ……」
俺、中野んちの風呂で寝ちゃったんだって思って。
慌てて顔を上げたら、中野がイライラしながら俺を見下ろしてた。
「ごめ……久しぶりに公園で寝たから、あんまし寝れなくて……それに、風呂、気持ちよかったから、さ……」
赤くなったり青くなったりしながら、言い訳をしてたら。
「いいから、さっさと水を飲め」
もっとイライラした声が飛んできた。
「ふえー……」
これ以上怒られないうちに起きないと。
あんなことがあって、中野だって今日は機嫌が悪いはずだ。
水を一気飲みして、むっくり起き上がった。
もちろん、俺は素っ裸。
着替えが置いてあるのは廊下の片隅。今、手近なところに着るものはなかった。
廊下に着替えを取りにいこうと思ってベッドから脚を出したら、
「寝てろ」
中野に布団を掛け直されてしまった。
「……あ、でも、大丈夫だよ。ちょっと上せただけだし。もう、ぜんぜん」
水を飲んだらずいぶん落ち着いたから、今はそれほど具合も悪くない。
「だから、大丈夫」
そう言ったけど。
中野は何も言わずに俺の頭まで布団を掛けた。
ふかふかの布団はなんとなく中野の匂いがして。
「……大丈夫なのにー」
そうは言ってみたけど。
目を閉じたら、またすぐに眠ってしまった。


気がついたのは多分それから数時間後。
具合が悪くないことを確認してから、廊下に出て適当に服を着て。そっとリビングのドアを開けた。
すっかり昼過ぎだというのにカーテンは閉められたままで。
タバコのせいで部屋は白く煙っていた。
いくら好きだからってこれじゃ中野の体にも悪いよなって思って。
空気清浄機のスイッチを入れたら、そこで初めて俺に気付いたみたな顔で中野が振り返った。
「寝てろと言ったはずだろう」
不機嫌そうな口調はいつもと同じだったけど。
「うん。でも、もう大丈夫だよ」
なんだかすごく疲れているように見えた。
その後は沈黙で。
カーテンは閉まってるのに中野はずっと窓の方を見て。
ときどき溜息をついて。目を閉じて。
そんなの中野らしくないって思った。
だから。
「な、俺、もう行くから……中野、ベッドで寝てよ」
俺がいなくなればアイツに帰って来いって言えるかもしれない。
もしかしたら、中野が呼ばなくてもアイツの方から戻ってくるかもしれない。
「じゃあね。泊めてくれてありがと」
本当はずっと一緒にいたかったけど。
中野がこんな顔してるのを見るのも嫌で。
だから仕方ないんだって、心の中で何十回も言い聞かせて。

でも。
中野は何も言わずに俺を抱き寄せた。
そのまま俺をソファに押し倒した。

夕べ、アイツを抱いたのに。
俺のことなんかちっとも好きじゃないのに。
「……中野」
「黙ってろ」
呼んでもこんな返事しかしてくれないけど。
アイツはあの人を選んだんだから、もうここへは戻ってこない。
今、ここには中野と俺しかいないんだから。
それでいい。

それだけで、いい。

ただ中野の体温だけを感じながら。
「……んん……っ」
何も考えずに抱かれて果てればいい。
そう思ってた。

けど、そんな俺の気持ちを砕くように。
中野は俺をギュッと抱き締めて。
「……ショウ」
アイツの名前を呼んで。
そのまま達った。

こんな時に泣いたりしたら、もうここへは戻れなくなるから。
目も口もギュッと閉じて。
中野の手が俺の身体から離れるのを待って、落ちてた服で涙を拭いた。
俺が泣いてることに気づくこともなく、中野は適当に服を着て。
煙草に火をつけた後、ぼんやりと窓の外に目を遣った。

そんなに好きなら、殴らなきゃいいのに。
もっと早く追いかければいいのに。
今すぐ電話すればいいのに。


中野だって、バカじゃん。



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