日曜日。
中野はもうアイツの名前で俺を呼ぶことはなかったけど。
その代わり、一言もしゃべらなかった。
俺なんていてもいなくても関係ないみたいに、白く煙った部屋から窓の外を見てた。
もちろん、俺を抱くこともなかった。
月曜の朝早く、ソファで寝ている中野を起こさないようにそっとマンションを出た。
何もする気になれなくて。行くところもなくて。
ぼんやりと電車に乗って。
気がついたら岩井のアパートの前にいた。
ドアの前でしばらく迷ったけど、インターホンを押した。
『はい』
岩井の声が聞こえたけど、返事ができなかった。
中野じゃなきゃダメなんだって言ってたくせに、ここにいる自分がすごくズルく思えて。
クルッと方向転換したら、ドアが開いた。
「おはよう、マモル。どうした? 中、入れよ」
返事をする前に腕を掴まれて、部屋に引き込まれた。
「昨日は公園で寝たのか?」
岩井の言葉にズキンと胸が痛くなった。
でも、嘘はつけなくて黙って首を振った。
岩井は少しだけ無理に笑って、「そっか、よかったな」って言っただけだった。
「……ごめんね」
結局、どこに行っても迷惑をかけてるんだって思うのが辛くて。
うつむいて靴の先を見てたら、岩井がそっと俺の顔を上げて困ったような顔でキスをした。
「マモルは謝り過ぎだって、先生も言ってたよ」
「……うん、でもさ……」
岩井の部屋は相変わらず散らかってて、今朝はどこに立てばいいのかわからないくらいだったけど。
「俺、これから会社だけど。マモルはここにいていいからな?」
「……うん」
「合鍵ないから。俺が帰って来るまで部屋にいろよ。昼はその辺にあるもんでも食ってろよ。まあ、カップラーメンくらいしかないけどな」
「……ありがと」
いってらっしゃいをしてから、ベッドに座り込んだ。
岩井が抜け出たままの形になってる布団に潜り込んで置いてあったタバコに火をつけた。
でも。
「……タバコ、闇医者に止められてるんだっけ……」
中野が言ってたことを思い出してまだ長いままのタバコをもみ消した。
「掃除でもしようかなぁ……」
ただで居させてもらうのも悪いと思って、周りを片付けて掃除機をかけた。
それから、拭き掃除をしてゴミをまとめて。
ついでに冷蔵庫の中も片付けて。
チェストの上を片付けようとしたら、メイク落としとかブラシとか、いろんなものが入ったプラスチックのカゴをみつけた。
「これって……彼女の、だよな……」
ブラシに長い髪がまとわりついてて。
クローゼットを開けたら、女の子の服も掛けてあった。
彼女がいるってことは前から知ってたから、別に驚きはしなかったけど。
そんなのを見てしまうと、なんだか岩井の部屋にも居辛くなった。
「でも、岩井が帰って来るまでここにいるって約束しちゃったしなぁ……」
出ていくわけにもいかなくて。
床の隅まで磨いて洗濯をして。もう何にもやることが思いつかなくなって、仕方なくベッドに入った。
だって、起きていると考えたくないことまで浮かんできてしまいそうで。
そしたら、やっぱりここにもいられなくなるって思って。
毛布を被って丸くなって目を閉じた。
岩井はわりと早い時間に帰ってきた。
「うわ、掃除してくれたのか?」
嬉しそうに部屋を見回して、洗濯した服を見てもっと嬉しそうな顔をして。
「なあ、マモル。なんだったら、ここに住んでみる?」
そんなセリフをぜんぜん何でもないことみたいにさらっと言ったけど。
「でもさ、えっと、」
メイク落としの入ったカゴを見ながら口篭もったら、岩井はちょっとだけ口の端を歪めた。
「あれは、まあ、そうだな。けど、滅多に来ないし、来たら追い返すからさ」
『でも、彼女なんだよね』って。
やっぱり言えなくて。
「……考えとく」
曖昧な返事だけをした。
岩井が買ってきた夕飯を食べて、テレビを見て、話をして。
でも、前に来た時と違って、あんまり楽しくなかった。
「せっかく早く帰ってきたんだから、俺も少し早く寝るかな。マモル、先にシャワー浴びて来いよ」
岩井に促されてバスルームに行って。適当に体を洗って。
「なんだ、早いんだな。ゆっくりしてきていいのに」
岩井はそう言ってたけど、自分もすぐ風呂から出て来た。
「な、マモル」
それだけ言って俺を抱き寄せた。
この間はちゃんと約束を守ってくれたから。
「……なに?」
俺は安心してた。
けど。
「抱いてもいいか?」
突然聞かれた。
「……え?」
岩井のことは好きだけど。
でも、不意に中野のことが頭を掠めた。
その次に浮かんだのは『ごめんね』って言葉。
こんなに優しくしてくれるのに、なんでダメなんだろうって。
中野なんてアイツのことばっかりで、俺のことなんて全然どうでもいいのにって。
そう思うのに。
でも、「いいよ」って言おうとするとやっぱり中野のことを思い出すから。
「あのさ……」
こんな気持ちのままじゃダメだからって言おうとした時、岩井が半分笑ったままで付け足した。
「なんなら、金払ってもいいよ」
やっぱり、なんでもないみたいにサラッと言ったけど。
それを聞いた瞬間に、目の前が暗くなった。
「それでも嫌か?」
なんでそんなこと言うんだろうって。
でも。
心のどこかで、どうせそんなだよなって思って。
「……今度会うときまで、考えてもいい?」
悲しい気持ちと、諦めと。
いろんなことを隠して、頑張ってした返事。
でも、声が震えてた。
「ああ、もちろん」
抱かれるのが嫌なわけじゃない。
でも、きっといつか岩井の恋人になるんだって思ってたから。
違う言葉が欲しかっただけ。
中野が無造作に置いていく1万円札。
それとおんなじ。
だって。
ホントに好きな相手に、金なんて払わないよな……―――
温かだった岩井の腕の温度も、もう感じなくなっていた。
本当は最初からダメだったんだって、心の中で呟きながら。
それでも抱き締められて眠った。
金なんてもらって誰とでも寝る俺がいけないんだから。
これだって岩井のせいじゃない。
岩井だって、きっと本物の恋人にはそんなこと言わないはずだから。
中野がアイツにするみたいに、「愛してる」って言って名前を呼んで。
好きで好きで仕方ないって誰が見てもわかるような優しいキスをするんだろう。
俺が知らないだけで。
みんな本当に大切な人がちゃんといるんだから。
翌朝。
岩井と一緒にアパートを出て、診療所のビルの前で別れた。
いつもみたいに小宮のオヤジや他の患者モドキと話をしようかと思ったけど。
どうしてもそんな気になれなかった。
「……屋上で昼寝しようかな」
結局、昨日もあまり眠れなくて、体が重く感じた。
こんな顔で診療所に行ったら、きっとみんなを心配させてしまうに違いない。
だから、誰にも会いたくなくて。
みつからないように裏口から入って、こっそりエレベーターのボタンを押した。
けど。
「マモルくん、どこ行くの?」
ドアが開いた時、闇医者の声が聞こえて。
「……屋上。空見てくる」
振り向く気力もなくて。
それだけ答えて、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
「あ、ちょっと、マモルくん……待って」
闇医者が呼び止めたけど。
「すぐ戻るから心配しなくていいよ」
精一杯元気な声で言ってから、ドアを閉めた。
少しガタガタするエレベーター。そのあとは階段で屋上に出て。
すっかり一人になってから深呼吸した。
冷たい空気。
目の前も後ろも背の高いビル。
その間に、青い空。
けど、少しだけ滲んで見えた。
中野がいなくても、岩井がいなくても。
ちゃんと金を貯めて部屋を借りて。
誰にも迷惑なんてかけないように。
一人で大丈夫って言えるように。
「……もうちょっとだけ、頑張ろうっと」
この先ずっと一人で頑張れるのかは分からなかったけど。
結局、自分でどうにかするしかないんだって。
そう思ったから。
服で涙を拭いてもう一度深呼吸して、またエレベーターに乗って。
泣いてるところなんて誰にも見られないように、急いで診療所のビルを離れた。
思いきり走って、信号で引っかかって。
10分後には北川の事務所にいた。
何度か大きく息を吸って、落ち着いてからドアを開けた。
「オーナーいる?」
事務所の受付を通り過ぎて勝手に中に入った。
北川は珍しく机に向かって仕事をしてた。
「……あ、仕事してるなら、また後で来るね」
急ぎの用事じゃないから、そのままUターンしようとしたけど。
「先にシャワー浴びて奥の部屋行ってろよ」
当たり前のようにそう言われた。
「……うん」
いまいち元気は出ないまま。
それでも言われた通りに事務所を突っ切って、突き当たりにあるドアを開けた。
それから、数十分。北川と寝てる間も他のことを考えてた。
「どうした、マモ。よそ見なんかして」
一回イッた後で、北川に聞かれた。
「ううん、別に」
「そうか? 『別に』って顔じゃないけどな」
ほっぺを抓まれて。
「……な、オーナー。俺って何がダメ?」
闇医者なら「どこもダメなところなんてないよ」って答えるけど。
北川なら正直に言ってくれるんじゃないかと思ったのに。
「なんか嫌なことでもあったんなら、もっと念入りに慰めてやってもいいけどな」
またタバコの煙をふっと吐きかけて、ニヤニヤ笑ってた。
やっぱり誰も教えてくれないんだ。
言ってくれたら、ちょっとは努力もするのにな……
溜息を堪えて視線を移す。
脱ぎ散らかしたパンツのポケットから千円札がはみ出していた。
「……あ……中野にお釣りを返すの忘れてた」
手を伸ばしたけれど届かなくて。
体を乗り出したら北川に引き戻された。
「後で返しにいけばいいだろ」
「……そうなんだけどさ」
できれば中野が帰ってこないうちにポストに入れて来たいなって思った。
会いたくないわけじゃないけど。
会うと悲しくなりそうだったから。
「なんだ、中野とケンカでもしたか?」
「そんなんじゃないよ」
口も利いてもらえないのに。
ケンカなんてできるわけないじゃん。
「カワイイ彼氏がいるからマモのことなんてどうでもいいって言われたか?」
「……言われてないよ」
言われたのとおんなじだけど。
俺を抱いてるくせにアイツの名前を呼んで。
勝手に達って、背中を向けて。
なのに、次の日は知らん顔で。
一言もしゃべらないで窓の外だけ眺めて。
「……オーナーだって奥さん、いるんだろ?」
みんな大事な人がちゃんといて。
その人のことが好きなのに。
なんで俺を抱くんだろう。
「マモ、そういう可愛くないことは客先では言うなよ」
「……大丈夫だよ」
こんなの嫌だって思ってるはずなのに。
淋しくなると口先だけでもいいから『好きだ』って言って欲しいと思ってしまう。
「な、オーナーは俺のこと少しでも好き?」
聞きながらギュッとしがみついたら、耳元で笑い声が響いた。
「マモ。そんなセリフ、どこで覚えてきたんだ?」
真面目に聞いてるのに、いつも笑うだけ。
「そんなこと言うなら、もういいよ」
ぐずぐず拗ねて、また笑われて。
そんなことを繰り返して、夜まで北川の事務所にいた。
今日はどこに泊まろうかって思ったけど。
「マモ、今からこの間言ってた客の所へ行くから支度しろよ」
突然、そう言い渡された。
「でも、俺、中野に金返さないと……」
「じゃあ、先に中野のところに寄って金を返して来いよ」
ニヤニヤ笑いのまま、北川は俺に着替えを持ってきた。
「ほら、これ着て」
もう秋なのにノースリーブのシャツ。
相変わらず腹が出る長さで、下は短パン。
無理やり着替えさせられて、北川の車に乗せられた。
歩いて近道をすればすぐなのに、車だと遠く感じる。
「ね、オーナー。封筒とペンない? 中野のポストに入れてくるから」
そうすれば顔を合わせなくて済むから。
「そういうことは事務所にいる時に言えよ」
北川はすごく面倒臭そうに顔を歪めたけど。
車の中を漁って、事務所で使ってる白い封筒とボールペンを見つけ出すと俺に渡した。
『この間のおつり。返すのわすれてた。ごめんね』
揺れる車の中で封筒の表にそれだけ書いて金を入れて、しっかりと封をした。
「マモ、もっとちゃんとした字書けないのか?」
俺を横目で見てた北川がバカにしたように笑ったけど。
「車が揺れるからだよ」
一応、言い訳をしてみた。
でも、自分でもやっぱり汚いなって思って。
ついでに、会社勤めをしてるアイツなら、きっとキレイな字を書くんだろうなって思ったけど。
―――もう、張り合ったって仕方ないよな……
|