「アイツとケンカしたままだったら、中野だって悲しいだろうなぁ……」
そんなことより。
あの日、本当は仲直りするつもりで来てたのに、バッタリ俺と会ったせいでやめてしまったんだとしたら。
「俺のせいじゃん……」
そんなことを考え始めたら、なんだかぼんやりしてしまって。
診療所に行くまでの間に三回くらい車にひかれそうになった。
「バッカヤロウ! 気をつけろっ!!」
ついでに怒鳴られて。
「ごめんなさい」
謝って。
ちょっと怖そうな人だったから、走って闇医者のところに逃げ込んだ。
「いらっしゃい、マモル君。どうしたの、慌てて」
闇医者はいつも優しい笑顔で迎えてくれる。
だから、ここに来るとホッとする。
「なんでもないよ。あ、昨日はありがと」
車にひかれそうになったなんて言ったら、また心配させてしまうと思って。
とりあえずお礼だけ言った。
昨日、手当てしてくれた事と中野に電話してくれたこと。
「そんなの別にいいんだよ。でも、中野さんに怒られなかった?」
「ううん。なんで中野が怒るの?」
あ、でも。
ちょっと怒ってたかも。
「だって、こんな怪我したなんて……あれ?」
俺の質問に返事をしてる途中で、闇医者が固まった。
「マモル君、昨日、バイトに行ったの?」
ちょっと眉が寄ってるんだけど。
「ううん。どうして?」
闇医者は俺の襟元を見たままで首を傾げた。
「……なんだか新しいのが増えてるみたいなんだけど」
そんなこと、真面目な顔で言わなくてもいいのに。
「それは、昨日、中野が……」
そこまで言ったら、今度は思いっきり顔を顰めた。
「中野さん、僕の話ぜんぜん聞いてなかったのかな。マモル君、怪我してるから触っちゃダメだって言ったのに」
それを聞いてちょっと安心した。
昨日、中野が俺を抱かなかったのもそのせいなんだって思ったからだ。
「でも、でもね、それだけで他は何にもしなかったよ?」
中野が怒られたら可哀想だから、一生懸命説明した。
「ホントに? 中野さんのこと、かばってない?」
俺は首を振った。
だって、嘘じゃないもんな。
「なら、いいんだけど。中野さん、そういうところは節操がないって言うか……あんまり信用できないんだよね」
ぶつぶつ文句を言いながらも闇医者はホッとした顔になった。
「ガーゼもね、中野が貼ってくれたんだ」
闇医者がそれを剥がしながら、ちょっと笑って。
「中野さん、意外と器用なんだよね」
そんなことを言うんだけど。
『意外と』ってことはさ。
「……中野って不器用そう?」
そんなふうにも見えないけどな。
「不器用って言うか、そういうことしそうもないよね?」
うん。まあ、それはそうかな。
「でもさ、字もキレイだしー」
闇医者がクスクス笑って。
「字が綺麗な人は器用なの?」
「うん。だって、そうだよね?」
小宮のオヤジに同意を求めたら、やっぱり笑われた。
……なんかおかしい?
診療所も今日はあんまり忙しそうじゃなくて、小宮のオヤジはどこかのオヤジと昼間っからビールを飲んでた。
それを見て笑いながら、闇医者が俺の手首に残ってる痕にそっと触れた。
まだちょっと擦れた傷が残ってたけど、もう全然痛くないのに。
闇医者はため息をついて俺の隣りに座った。
「……マモル君がいなくなってから、大変だったんだよ?」
闇医者はきっとこんな風にずっと心配してくれたんだろう。
最初に俺がちゃんと北川に確認して、闇医者に話しておけばよかったのに。
なんにも分からなかったから、ずっと探してくれたんだろう。
「うん。ごめんね」
謝ったら、闇医者は首を振った。
「マモル君が最後にここに来た日、ちょっと元気がなかったでしょう? だから、何か嫌なことがあって、家出しちゃったのかなって思ってたんだけどね」
そんなことを言われたけど。
「……そうだっけ?」
それがいつだったのか、闇医者と何を話したのか、俺はぜんぜん覚えてなかった。
「そうだよ。一人で屋上に行って、『すぐ戻るから』って言ったのにいつまで経っても来なくて。本当に心配したんだよ」
そっか。
岩井に金を渡すから寝ようって言われて。
ちょっと落ち込んでたんだっけ。
エレベーターのところで闇医者に会って、後で診療所に顔を出すって言ったのに。
すっかり忘れて事務所に直行しちゃったんだ。
……悪いことしちゃったな。
「次の日、北川さんに聞いたら『昨日は来たけど今はいないよ』って言われちゃったしね」
それは嘘じゃないんだけど。
でも、なんか不親切な返事だよな。
ちゃんと『客のところに行った』って言ってくれればよかったのに。
「うん、急に仕事だって言われて。ホントは週末の予定だったんだけど、ちょっと早くなったみたいで」
闇医者に説明してたら、小宮のオヤジが缶ビールを持ったまま入ってきた。
「マモルちゃん、その日の朝は岩井君と一緒に診療所まで来ただろ? だから、てっきりずっと岩井君のところに泊まってるんだと思ってたんだよなあ」
そう言えば、岩井はどうしてるだろう。
あの返事もしてないし、一度会いたいなって思ったけど。
昨日も今日も診療所には来てなくて、顔も見てなかった。
「すぐに岩井君に聞けば良かったんだけど。もう怪我は良くなってたから、あんまりここにも来なかったんだよね」
……そっか。ケガ、もうよくなったんだ。
じゃあ、もう診療所には来ないよな。用もないのに来てたら会社の人に怒られるだろうし。
「岩井君が最後の検診に来た時にたまたまマモル君の話になったんだけど。そうじゃなかったら、そのまま岩井君のところで一緒に暮らしてるってみんな思ってたかもしれないな」
そんなことになってるなんて思わなかったけど。
「ごめんね、心配させて。でも、俺、ぜんぜん大丈夫だったのに……」
そう答えたら、闇医者に怒られた。
「大丈夫じゃないでしょう? こんな怪我までして。マモル君、『大丈夫』の意味分かってるの?」
俺の手首。
なんでこんなところに傷がつくかなんて、考えなくてもわかるもんな。
「……うん。わかってると思うけど……」
闇医者がこんな風に怒るのも珍しくて。
どんなに心配してくれたのか、すごくよく分かったけど。
「……ごめんね」
他に気の利いた言葉も思い浮かばなかった。
「謝らなくていいから、もうちょっと―――」
闇医者はまだまだ言いたいことがありそうだったけど。
「まあまあ、先生。マモルちゃん、無事に帰ってきたんだから」
小宮のオヤジに止められた。
「ですけど、小宮さんだってあんなにいろんなところに聞いてくれて……」
缶ビールを飲みながら、小宮のオヤジは相変わらずのんきに笑ってたけど。
「マモルちゃんだって今度からは気をつけるよな?」
みんな俺のこと探してくれたんだって。
「……うん。ごめんね」
俺なんていなくなっても誰も気付かないだろうなって思ったのに。
「ありがと」
もう泣かないって決めたくせに。
中野に誕生日をしてもらったときも泣いて。
それなのに、また。
「やだな、マモル君。泣かなくてもいいんだよ? 怒ってるわけじゃなくて、心配してるだけなんだから」
闇医者が慌てて慰めてくれたけど。
「怒られたからじゃなくて、嬉しいなって思って、それで」
言ってる途中でびーびー泣き出したら。
闇医者が笑いながら俺の肩を抱いて、小宮のオヤジも頭を撫でてくれた。
だから。
帰ってこられてよかったなって。
また、思った。
午後イチ。
「じゃあ、気をつけてね。無理はダメだよ。」
まだ心配そうな顔をしている闇医者に見送られて、北川の事務所に行った。
「オーナーいるー?」
ドアを半分だけ開けて中を覗いてちょっと驚いた。
北川はごく普通の格好でソファに座って書類を見てたけど。
「ね、顔……どうしたの?」
顎のところが青くアザになってた。
「ああ、これな」
答えながらちょっとだけ苦笑いして。
「どこかの子猫ちゃんのせいで、ケイちゃんに殴られたんだ」
そんな説明をしたけど。
「……ケイちゃん?」
って。
北川の彼氏?
『どこかの子猫ちゃん』っていうのはきっと俺のことだろうから、やっぱりそうなんだろうな。
俺とやってることがバレて怒られたんだ。
……でも、それって自業自得って言うんだよな。
「当たる前によければよかったのに」
って言うか、普通は条件反射でよけるよなぁ……
案外運動神経ニブイのかもって思ったけど。
でも、北川は笑ってた。
「ケイちゃんが殴るなんて思わないだろ?」
そんなこと言われてもケイちゃんがどんな人なのか俺にはわかんないんだけど。
「じゃあ、よっぽど頭にきてたんだね」
北川の日頃の行いを考えたら、それも納得だけど。
だって、奥さんがいるのに他にも恋人がいて、ついでに、ここに遊びにくるヤツや俺と寝てるんだもんな。
どう考えてもヤリ過ぎだって。
北川は青くなった顎を撫でて、思い出しながら苦い顔をした。
「けど、中野と話してただけなんだぞ? なのに隣りに立ってたケイちゃんがいきなりガツンって」
「ふうん……」
中野も一緒にいたんだ。
まあ、北川がここで誰と寝てても中野はぜんぜん気にしないもんな。
恋人がいたくらいじゃ気にしないに違いない。
「なに話してたの?」
でも、やっぱり気になる。
「ん、たいしたことじゃないんだけどな。中野がマモのこと聞きに来たから、マモを売った金の半分を渡すから承諾しろよって言っただけ」
それってさ。
「……オーナー、やっぱり俺のこと売ったんだ?」
半分はそうだと思ってたけど。
半分は『そうじゃなかったらいいな』って思ってたのに。
「マモがまだ若くてほんの少しでも可愛いうちにお嫁に出しておこうと思ってな。来年にはヤリ過ぎで緩くなってるかもしれないし。今よりもスレてどうしようもなくなってるかもしれないしな?」
それを普通に俺に向かって言うってどうなの?
「……オーナーってひどくない?」
当然のこととして文句を言っても北川は笑ってるだけで。
「けど、マモにだっていい客だったんだぞ?
楽して美味い物が食えて、好きなことだけして、しかも欲しいものはなんでも買ってもらえて。上手く養子になれば財産相続で一生安泰。なのに、駄々こねたんだって?
何が不満だったんだ?」
確かにそうかもしれないんだけど。
「でも、俺、手とか縛られて大変だったんだよ?」
俺の遊び相手はあいつだけで。他は誰とも話せなくて。
「それはマモがいい子にしてなかったからだろ?」
それもそうなんだけど。
「でもさー……」
外にも出られなくて。窓も開けられなくて。
「いい子にしてる間は優しかっただろ?」
「うん。でも、」
言うことを聞いていれば、優しくしてくれるけど。
俺の気持ちは全部無視。
知りたい事はなんにも答えてくれなくて。
自分の言うことだけ全部『うん』って言わせようとして。
「マモなんて保護者もいないし、頭も悪いし、顔も並より下。若いってこと以外はコレといって取り柄もない。どうせまともな就職なんてできないんだから、おチビのうちに適当なご主人さまを手懐けて楽して遺産相続した方がいいって」
こんな話なのに、北川は結構マジメな顔をしてた。
でも、やっぱりいつものように俺を抱き寄せて、ほっぺにキスして。
「店に来る客の中でも一番の金持ちなんだぞ?
他の子なら喜んで行くところをわざわざマモに紹介してやったのに。もうこんないいご主人さまは見つからないぞ?」
髪を撫でて、もう一回、今度は口にキスをした。
「……ごめんね」
金持ちだっていうのは分かるけど。
でも、それだけだもんな。
「で? 何が気に入らなかったんだ?」
俺の顔を覗きこみながら北川が聞くんだけど。
「なにって言うんじゃないけどさー……」
酒なんか飲みたくないのに断われなくて。
抱かれたくないのにイヤって言えなくて。
「……なんかさー、」
そんなのちっとも楽しくない。
それに。
「なんだよ? ハッキリ言ってみろって」
言ったらバカにされるって分かってたけど。
「……途中で中野に会いたくなっちゃったから……」
そう答えたら、北川はやっぱり呆れながら笑い転げた。
「中野のどこがそんなにいいんだ? この間の客の方がずっと優しいだろ?」
中野と同じ名前で。
俺が大人しくしていれば中野よりずっと優しくしてくれる相手。
「……そうなんだけど……」
だからって好きになれるわけじゃない。
「とにかく、俺、もう客のところには行きたくないよ」
バイトはさせてもらいたいけど。
店とかその辺のホテルだけにしてもらいたいなって思って。
ついでだから頼んでみた。
そしたら。
「大丈夫だって。もう、マモを客のところにやったりしないってケイちゃんと約束したからな」
またしても『ケイちゃん』なんだけど。
それ、信用してもいいのかなぁ……
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