その夜。
いつものようにバイトに行って、半分ぼーっとしながらキッチンで洗い物をしていたら、裏口から中野が入ってきた。
「あいつが何の仕事をしてるのか分かってるのか」
いきなり怒った口調でそんなことを聞いてきた。
話すのはもちろん、真正面から顔を見るのだって久しぶりなのに。
「アイツって?」
急にそんなことを言われてもなんのことかわからなくて、首を傾げたら、中野はもっとイライラした顔になった。
「診療所に来てるヤツだ」
「……岩井のこと?」
なんでそんなこと聞くんだろう、って思ったけど。
「うん、知ってるよ。表向きは普通の会社だけど、ホントはヤクザだって言ってた」
その返事に中野は呆れながら、イライラを紛らわすように煙草に火をつけた。
「もっとまともなヤツと付き合え」
「そんなこと言われてもさ……」
俺だってまともじゃないのに。
それってすごく無理な注文だと思うんだけど。
「あいつが本気でおまえと付き合ってると思ってるのか」
なんだかものすごく冷たい口調だったから。
「岩井とは仲いいし、今日だって泊めてもらうんだから」
中野が俺のために忠告してくれてるんだってことくらい想像できたし、言い返すつもりなんてなかったのに。
「だいたい、そんなの中野に関係ないじゃん。もう、ほっといてよ」
なんでこんなにイライラしてるのが自分でもわからなかった。
「勝手にしろ」
床に煙草を落して靴先で揉み消したあと、中野は不機嫌そうに店を出ていった。
「せっかく話せたのにな……」
一人でポツンと残されて、急に淋しくなった。
なんであんなこと言ってしまったんだろう。
今頃、そんなこと思っても遅いんだけど。
「……だって、中野がさ」
すごく怒ってたから。
ううん、ホントは中野のせいじゃない。
なんかダメだよな、俺……
洗い物を終えて、キッチンを片付けて。
何度も溜め息をついた時、ドアが開いて。バイトのヤツが顔を出した。
「マモル、片付け終わったらフロアに来いよ」
そう言われたけど。
「ううん、今日はもう帰る。まだ電車に間に合うし」
いつもなら夕飯を兼ねてフロアにも遊びにいくんだけど。
今日はどうしても客と話す気分になれなかったから。
誰にも見つからないうちにさっさと店を出て駅まで走った。
無事に終電に乗って岩井のうちに着いて。
「よ、電車、間に合ったのか?」
ドアを開けた岩井はすぐに俺を抱き締めた。
「うん」
これが中野だったらいいのに、とか。
今ごろ何してるんだろう、とか。
そんなことばっかり考えながら岩井に抱かれた。
何をしてても中野のことが頭から離れない。
中野が俺をアイツの名前で呼ぶのもたぶん同じ理由なんだろう。
「……おやすみ」
もう寝てしまっている岩井にそう言って目を閉じた。
悲しいはずなのに、ちゃんと眠くなる。
今までだっていろいろあった。
でも、諦めたり、どうでもよくなったりしながら、忘れていった。
同じように中野のことも少しずつ麻痺していくのかもしれない。
ぼんやり考えていたせいで深く眠ることができなくて。
中野の声。
アイツの横顔。
夜中に目が覚めるまで、いろんな夢を見た。
何度もインターホンが鳴って、俺も岩井も目を覚ました。
「……んー……なんだよ……?」
岩井はぶつぶつ言いながら適当に服を着て出ていった。
しばらくしたら、玄関から女の人の声が聞こえて。
それに何か答えている岩井の声がして。
慌しい足音の後、廊下と部屋を仕切ってるドアが開いた。
「この子、誰よ?」
入ってきた女の人に、いきなり布団を剥ぎ取られて目を丸くしてたら、その人は怒った顔で俺を見下ろした。
「男じゃないの? なんで雅通のベッドで寝てんの?」
口を挟む余地なんてカケラもなくて、俺は固まったまま呆然としてた。
「ああ、泊まるところないって言うからさ……」
岩井が言い訳をする間に、女の人はさっさとベッドの下に投げ出されていた服を拾って俺に渡した。
「とにかく出てって。雅通に話があるから」
声は出なかったけど、とりあえず頷いて。急いで服を着て、靴を履いて。
わけも分からないままに廊下に転がり出た。
とりあえず駅の方向に歩き出してみたけど、まだ電車は動いてないことに気付いた。
「……公園、戻ろうかな……どれくらいかかるんだろ……」
道はだいたいまっすぐって分かってたから、歩いてみることにした。
まだ少し寝ぼけているみたいな感覚だった。
半分無意識でひたすら前に進みながら、ぼんやりと思った。
「あれ、きっと岩井の彼女なんだな……でも、別れたって言ってなかったっけ……」
よく分からないけど。
追い出されたのは俺で。
岩井も追ってはこなかったんだから。
―――……そういうことなんだよな、きっと。
それほど腹も立たなかった。
ショックでもなかった。
ちょっとびっくりしたけど。
それだけだった。
「まあ、いいかぁ……今日はそんなに寒くないし」
歩いてるうちに体は温かくなってきた。
それに、公園に着いた時はもう空のすみっこが明るくなりはじめてたから。
「ぜんぜん大丈夫そうじゃん」
深呼吸して、そのままもう一度寝てしまおうと思ったのに。
丸くなってベンチの上に横になっていたら、空がまた真っ暗になってポツッと雨が顔に当たった。
小さくてすぐに蒸発したけど。
「これから、降るのかなぁ……」
いい加減、傘も買わないと。
それともレインコートの方がいいのかな。
でも、とりあえずは雨宿りの場所を考えないと。
今度こそ風邪なんて引かないように……って思っている間にいきなり本格的に降り出した。
急がないとって思いながらも、歩き疲れたせいなのかぼんやりが抜けなくて。
そのまま座ってたら、すっかり濡れてしまった。
「いまさら雨宿りしてもなぁ……」
つぶやきながら起き上がってベンチから降りようとしたんだけど。
雨で滑ったせいでズルッと落っこちてしまった。
「……ってー……」
モロに膝をついてしまって、ハーフパンツから出てた部分がすり剥けた。
しかも、手も服も思いっきりドロドロで。
「はぁ……いいことないなぁ」
もう全部がどうでもよくなって、雨で泥を落とした。
「うーん、さすがに冷たい」
最初はなんとか大丈夫だったけど、だんだん身体から熱がなくなってきたから。
「もう、これくらいでいいかぁ……」
あんまり汚れは落ちてなかったけど、雨宿りを優先することにした。
「とにかく屋根のあるところに行って着替えないと」
服の入った袋を抱えて、公園の出口に向かった。
でも。
「もう店は開いてないんだよな。診療所も休みだし」
岩井のところに戻れるはずはないし、中野のところだって―――
「……どこ、行こうかなぁ……」
足が止まってしまった。
屋根があるところならどこでもいいんだけど。
雨宿りできる場所が一つも思い浮かばなかったから。
仕方なく、またベンチに戻って座り込んだ。
「雨、止まないかな……」
そしたら、ここで着替えて、タオルでベンチを拭いて、もう一回寝直すんだけど。
「ここまで濡れちゃったら、もうどうでもいいよなぁ……」
風邪なんてそんなに何度も引かないはずだし。
「でも、やっぱり寒いなぁ……」
すっかり疲れが出てたから、もう動くのも面倒で。
ぼーっと膝を抱えてつま先を見てたら、急に雨が当たらなくなった。
髪からはぽたぽた雫が落ちてたけど、それだけで。
ゆっくり顔を上げたら俺は傘の下にいて、中野が呆れながら見下ろしてた。
「泊まりに行ったんじゃなかったのか」
いつもと同じ、中野の声。
「……うん。でも、彼女が来て、追い出されちゃった」
こんな時間にこんなところで何してるんだろうって思ったけど。
中野の手には新しいタバコが握られてた。
「わざわざタバコ買いに出たの?」
俺の質問を聞き流して、中野は泥のついた手足を見てた。
「なんでそんなに汚れてるんだ」
やっぱり、呆れてて。
「さっき、ベンチから落っこちた」
それを聞いたらもっと呆れた顔になった。
「立てないのか?」
でも、声はちょっと優しいような気がして、ちょっとだけホッとした。
だいたい中野の方からこんなに話してくれることなんてないもんな。
「ううん、そんなことない」
怒ってるはずないのに。
なんで俺に声なんてかけたんだろう。
「なら、さっさと立て」
でも、俺は黙って首を振った。
中野は溜息をついた後、ちょっとイライラした口調になった。
「あんまり手間をかけさせるな」
面倒なら放っておけばいいのに。
「だってさ、」
中野が言ってた。
岩井は俺と本気で付き合ってないって。
その時だって「ほっといて」って怒鳴ったのに、いまさら中野のところには行けない。
「あの時、なんか悔しくて、だから、俺、ちゃんと聞いてなくて……それも、ちょっと考えたら、分かるようなことなのにさ……俺に彼氏なんてできるわけ……」
言ってるうちに、また視界がじんわりにじんできた。
「泣くな、鬱陶しい」
中野に怒られそうだったから、頑張って止めようとしたけど。
「……泣いてないもんね」
結局、涙は止まらなかった。
でも、雨が降ってるからきっとわからないって思って。
だから、そのままにしてた。
「もっとまともな相手と付き合え」
中野が面倒くさそうに俺の腕を引っ張って立ち上がらせようとしたけど。
俺はまた首を振った。
「そんなマトモなヤツが俺と付き合ってくれるわけないじゃん。岩井だって、本気で付き合ってるわけないって、中野が言ったんだよ?」
中野に当たっても仕方ないんだけど。
いろいろ考えたらまた悲しくなってきて、膝を抱えたままうつむいてしまった。
中野は煙草の封を開けて、1本取り出すと火をつけて。
「アイツが女と歩いてるところを見かけただけだ。おまえの事をどうこう言ったわけじゃない」
ため息みたいにふっと煙を吐き出した後、ちょっとだけ優しい口調でそう言った。
「でもさ、」
顔を上げたら、また涙が落ちたけど。
俺の顔なんて見てない中野は気がつかなかったみたいで。
もう「鬱陶しい」とは言わなかった。
「とにかく立てよ」
それ以上言い返す気力もなくて、黙って中野の後をついていった。
久しぶりの中野の部屋。
煙草の匂いのするその場所がすごく懐かしく思えた。
びしょ濡れのまま玄関に突っ立っていたら、タオルが飛んできた。
顔と頭を拭いて、濡れた服を脱いで、そのままバスルームに行って汚れを落とす。
擦り剥けた膝に血が滲んでお湯がしみたけど、なんだかすごく安心した。
「なんか……疲れたなー……」
ふっと息を抜いたら、身体から力が抜けて。
そのまま風呂場の床に座り込んだ。
シャワーからお湯が降ってきて、体に当たって、血が巡ってジンジンして。
「……ちょっと気持ち悪いかも……」
めまいがしてから後のことは、覚えてなかった。
―――いつもそうだな……って思った。
目を開けると中野がいて。
でも、俺のことなんか全然見てなくて。
どこか遠くを眺めてる。
「……ごめんね」
倒れた記憶はなかったけど。
自力でベッドに来たんじゃないってことは分かってた。
すり剥けた膝は、もうすっかり手当てされていて。
濡れてたはずの髪も乾いていた。
「いいから、黙って寝てろ」
振り返りもせずに。
中野はまた新しいタバコに火をつけた。
何度もこんな時間を繰り返したけど。
いつまで経っても変わらない。
中野は俺の事なんてこの先ずっと好きにならないって、みんなに言われた。
泣けば「鬱陶しい」って怒られて、しゃべれば「黙ってろ」って止められて。
でも、俺が泣いてもしゃべっても、全部中野のところをあっという間に通り過ぎるだけ。
なんにも残らないから、こんなふうに何度も面倒を見てくれるんだって。
なんとなく、そう思った。
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